ブゴニアを見て感じた、半歩ズレた仕事の方がたぶん面白い、という話
最近、ヨルゴス・ランティモスの『ブゴニア』を観た。
ランティモスといえば『ロブスター』『聖なる鹿殺し』『哀れなるものたち』のような、独特の冷たさと寓話性を持つ作家だ。『哀れなるものたち』は彼の世界観が文字通りピッタリの題材で、見事に完成された作品だった。受賞歴を含めて、評価としても順当だった。
でも、最近観た『ブゴニア』の方が、自分には面白かった。
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似たことを、エドガー・ライトでも感じる。
ライトといえばスリー・フレーバー・コルネット3部作の人で、その最後の『ワールズエンド』はライトの作家性にピッタリの集大成だった。テンポ、編集、ジャンル横断。彼にしかできない仕事が詰まっていた。でも、自分の中で印象に残っているのは、それより少しズレたところにある『ラストナイト・イン・ソーホー』の方だ。ライトのリズム感と、彼が普段あまり踏み込まないホラー&60sロンドンというモチーフが結合した時の、なんとも言えない後味。
「作家性にピッタリ合った作品」が、必ずしもその作家のいちばん面白い作品ではない。観客側からすると、けっこう不思議な現象だと思う。
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なんでこうなるんだろう、と少し考えてみる。仮説をいくつか並べると、こうなる。
ひとつ目は、ピッタリ過ぎると、観る前から結果が予測できてしまう、ということ。「あの監督ならこうやる」が当たり続けると、驚きの幅が狭まる。
ふたつ目は、作り手が「いつもの自分」をやっている時、無意識に手癖で作る部分が増えること。意識せずにやれる作業の比率が高くなると、その作品独自の発見が減る。
みっつ目は、作家性と題材のあいだに生まれる摩擦が、独特の質感を生むということ。作家性そのものよりも、作家性が異質な何かとぶつかった時に出てくる火花の方が、観客には届く。
たぶんこの3つは、どれも少しずつ正しい。
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これって、たぶんビジネスでも同じだ。
「あの会社にピッタリの仕事」をしている時、その会社が一番冴えていることは少ない。「専門領域にピッタリ合う人材」を採用した時、最高のチームになることは少ない。「自分のキャリアにピッタリ合う案件」を引き受けた時、自分の中の何かが伸びることは少ない。
自分自身の話で言うと、もともと広告制作の現場で TVCM をやっていた人間が、AI で人物のモデルを生成する会社の CTO になっている、というのは、けっこうピッタリじゃないキャリアの結合だ。これ単体で見ると違和感がある。
でも、その違和感のあるキャリアが、AI model という事業のいくつかの判断にとって、たまたま機能している場面がある。これはピッタリな経歴の CTO ではたぶん出てこなかった判断だ。
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創造性の研究では、「周縁性(marginality)」が新規性を生む、ということがけっこう言われている。
ある領域の中心にいる人ほど、その領域の作法に縛られる。少し外側にいる人や、別の領域からの越境者の方が、自由に動ける。
これは映画の話とまったく同じ構造だ。ランティモスがランティモス領域の中心にいる時より、少し別の領域に踏み込んだ時の方が、彼の道具立てがフレッシュに見える。エドガー・ライトも同じだ。
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ただし、「ピッタリじゃない方が常に良い」と言いたいわけじゃない。
ピッタリの作品(『哀れなるものたち』)が高く評価されるのは、それはそれで事実だ。ピッタリの仕事は、ベースラインとして必要だし、それがなければそもそも「ピッタリじゃない仕事」を試す土台が生まれない。
ただ、面白さの最大値を取りに行くなら、少しズレた領域に身を置く方が確率が高い、というだけだ。
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逆に言うと、自分が「これは自分にピッタリ合った仕事だ」と思った時こそ、少し警戒した方がいいのかもしれない。たぶん、その時の自分は、すでに知っている範囲のことをしている。手癖で動いている時間が増えている。
新しい何かを引き出したいなら、自分の作家性にピッタリじゃない題材に、自分の作家性を持ち込んでみる方がいい。たぶんそこで起きる摩擦が、いちばん面白い質感を生む。
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ピッタリは、安全を作る。
ズレは、面白さを作る。
そのどちらを取りに行くかは、その時の体力次第なのかもしれない。
ただ、もし「最近、自分の仕事が面白くないな」と感じる瞬間があったら、それはたぶん、ピッタリ過ぎる場所にいる、というだけのサインなのだと思う。
