「オケバトル!」 87. シューマニアーナの挑戦状
87.シューマニアーナの挑戦状
色とりどりの この世の夢の中。
あらゆる音をつらぬいて、
ひとつの静かな音色が 響いてくる。
ひそやかに 耳をすます者のために。
これはロベルト・シューマン〈幻想曲〉Op.17 のモットーとして楽譜の冒頭に掲げられている、ドイツ・ロマン派の創始者ともいわれる詩人、フリードリヒ・フォン・シュレーゲルの詩の一節である。
〈幻想曲〉は、ロマン派音楽のマグナカルタ。
そんな風に称賛されるほど、この曲においてシューマンは、それまで誰も到達し得なかった新たなる境地を開拓した。独自の幻想性と即興性、後世の作曲家らにも影響を与えゆく調性の曖昧さ、曲の途中に現れる「伝説の音調で」といった、謎めいた指示などが幻想性を際立たせている。
シューマンのピアノの師にして、恋人クララの父親であったヴィーク氏の猛反対により、当時は会うことも、文通すらも許されなかったクララへの深い愛情と哀しみ。想いを断ち切らねばならないのかという絶望の淵において、作曲だけが恋人に気持ちを伝えられる唯一の表現手段だった。
冒頭の詩の一節も含め、こうした事情を知っているか否かでも、曲そのもの、そして作曲者への印象も変わってくる。
バトル参加者の大方は、この名曲くらいは把握しつつも、作曲の経緯までは分かっておらず。それでも客席で、こうして生演奏を聴けるのは実にありがたき経験であった。まさに至福の時。レコーディング中ということもあり、当然の如く全員が息を殺して一切の音を立てずに鑑賞していたが、オケ人はそうしたマナーも普段から舞台上でも慣れっこで、全く大丈夫なのだ。
高らかに奏でられる情熱的な第1楽章に始まり、シューマン特有の付点のリズムが特徴的な第2楽章、かつては「星の冠」というタイトルも考えられていた、ひたすら静かな第3楽章。遥かな憧れと、確かな愛に満ちあふれる感情が次第に、否応なしに高まりゆき、やがて穏やかな安らぎとともに、曲はそっと終わりを告げる。きらめきながら儚げに消えゆく、明け方の星のように……。
「皆さん、ありがとう」
最後の星の輝きが静かに消え去り、完全なる静寂が訪れたところで、森脇遊は現実の世界に戻って来て、立ち上がった。全員が心から感動しての、静かな賞賛の拍手が贈られる。
「おかげで本番モードで集中できたし、客席に居て下さったことで、音響的にもいい感じで響いてくれたみたいです」
客席に聴衆がいるかいないかで、ホール音響は違ってくるが、基本的には存在している方が音が豊かに感じられるもの。
そして奏者のエネルギーや感性も、聴き手の存在によって変わってくる。音楽に深い理解のある音楽家集団となれば尚更だ。
「それでは我々は、そろそろ退散しますね。他も聴きたいのは山々ですが」
有出絃人が席を立ち、一同を促した。
今の〈幻想曲〉が、ライヴ録音並みに一発録りで済んだであろうと見越してのこと。客席を埋めていた90名程の人間が減ることで、次の〈交響的練習曲〉は、音響が多少変わってしまうかも知れないが、この曲に於いては逆に多少の硬質さが際立つのも良かろうとの判断から。
名曲の貴重な名演奏をぜひ続けて聴きたいところだけど、話し合い、しないとね......と、後ろ髪を引かれる思いで退出する両チームであった。
客席からロビーに出ると、舞台を映すモニター画面から早速〈交響的練習曲〉の物悲しげな主題が流れ始めていた。やはり〈幻想曲〉はあれでオーケーだったのだ。森脇氏はいつも自分の思いどおりに、完璧に弾けるんだな、さすがだ! と、一同は改めて感心する。
「ご存知ない方の為に、一応」
と、前置きして、絃人が説明する。
「この深刻なテーマはシューマンがいっとき想いを寄せていた男爵令嬢の父親が作曲したものからの引用で、これが管弦楽曲の効果も構想に含みつつ、変奏曲形式の練習曲として描かれてゆきます。シューマンのピアノ作品における名曲中の名曲なので、この演奏が後で各自の部屋のモニター画面でも自由に聴けるよう、主催者に頼んでおきましょうね」
絃人は「遊さんごめんなさい」と心の中で謝り、画面の音量を微かに聞こえる程度にそっと落としてゆく。
「さて、曲決めですが、せっかく皆さん揃ってるので、この場で一緒に相談で良いですね?」
良いですか? ではなく、良いですね? というところが既に有出ペース。
「楽曲、書き出したりするなら、ホワイトボードとかあるといいですかね?」
と、側近のトムくんこと多岐川勉が、絃人の返事も待たずに何処かへ消えて行った。
「ありがとう、助かる......」とトムくんの背中に念を飛ばしてから、絃人は一同に形式的質問を投げかける。
「最初にお尋ねしますが、どうしても、絶対に、シューマンならこの曲を! って希望のある方、いらっしゃいますか? 管弦楽曲でなくても、ご自身のソロの曲でも」
反応がないので、あっそう。じゃあソロに配慮しなくていいのね。これ幸いと、即座に絃人は話を進めゆく。
「まずAとかBとか関係ナシに、メインを2曲決めませんか? できれば交響曲と協奏曲、ひとつずつで」
協奏曲となると、ソリストが必要ですよね? という声に、
「ピアノ、チェロ、ヴァイオリン。シューマンの協奏曲は3つありますが、ソリストはどれも何とでもなるので大丈夫」
どれも大丈夫って、一両日中で?
チェロは置いといても、まさか絃人さん、ピアノもヴァイオリンもソリストができるってこと?
そう言えば、さっき森脇さんに、自分が指揮するならソロを頼めるか? なんて確認してたけど、当然の如く逆もアリ?
「で、今回の課題はただシューマンっていうだけじゃなくて、彼の音楽を最高の形で伝えてゆくこと。その為には、やはり彼の得意分野であるピアノ曲は必須で、かといって、せっかくオケがいるのにピアノ・ソロで時間を取るのは勿体ない。だから、協奏曲は必然的にピアノ協奏曲ってことで」
できれば交響曲と協奏曲を一曲ずつって案、そもそも誰も賛成してないんですけどね? まあ、とりあえずは成りゆきを見守りますかね。というのが大方の考え。
「森脇遊っていう、最強の助っ人もいますしね」
嬉しそうに絃人は続けた。
「聴いたでしょ? さっきの幻想曲。彼、本当に最高のピアニストなんですよ。彼がいながら、ピアノ協奏曲を弾いてもらわない手はないと」
「オーケー、じゃあ彼の返事待ちですね。仮に断られたら、有出さん、弾いて下さるんですかね?」
との声が出て、絃人はうーん? と少し首を傾げた。
「実はもう一曲、7分足らずの短いピアノの協奏曲があって、それがですね、滅多に演奏されない知られざる名曲でして。録音は幾つかあるようですけど、YouTubeの動画なんて全く出回ってなくて、楽譜やCDを入手しない限り触れることもできず———」
「やりましょう!」
との誰かのひと声に皆が拍手で賛同する。
「知られざる名曲を披露できるなんて、それこそ意義がありますよね!」
「シューマン好きでさえ知らない曲があるのだと」
「だけど、ポピュラーでないなら、スコアもパート譜も、ライブラリーにないんでないですかね」
との意見が出るや、
「僕、確かめてきます。題名は?」
と、ホワイトボードをどこからか調達して来たトムくん。
「ありがとう。〈Konzertsatz〉、協奏曲断章とか訳されてて、d-moll 。作品番号はなくて、1839年の作」
「了解です!」
トムくんは地下2階のライブラリー目指して再びすっ飛んで行った。
「できたら僕に弾かせて頂けると、嬉しいんですが」
Bチームのメンバーを中心に、わあっーと拍手が起こる。チームから理不尽に降ろされた気の毒な有出絃人への励ましも込められた温かな拍手であった。
しかしAチームは少々複雑に感じる者も。
どんな曲か全く未知なのに決めちゃうの? と。
あのニュー審査員だって、音出しをしながら、じっくり選曲するよう言ってたのに?
この流れ、これらの曲は、じゃあ、Bチームに回しますかね? 我々Aはシンフォニーがメインってことで。
などと考えを巡らせる。
「森脇さんには、『僕がこっち弾きますから、先輩はメインの方、お願いします』って言った方が頼みやすいんで」
分かりました。そうしたことは旧知の間柄のお二人にお任せしましょう、と話は落着。
「では、Pコンが片方のチームのメインで良いですね? で、ピアノの移動とか時間配分の関係から、協奏曲断章も同じチームの枠で」
という絃人の提案に、
「ピアノ・コンチェルトを続ける形で?」
確認の問いかけが。
「合間に、ピアノ伴奏による歌曲を入れたいんですよ」
さらりと答える絃人の様子に、なにさ、皆で相談とか言って、もはやすっかりプログラム勝手に組まれてるんでないの? と、呆れ、訝しむ面々も。
「多分、アントーニア嬢が歌ってくれるんじゃないかと」
その為に、先ほどは森脇の前で、あえて彼女の名を出したのだ。ソリストを請け負ってくれるかどうかの話の流れで。
「しかも浜野さんに〈献呈〉を聴かせてたとか。だからってわけじゃないですけれど、ピアノ伴奏も際立つシューマンの歌曲を代表するレベルの素敵な名曲ですし、〈献呈〉が、適切ではないかと」
そしてそのピアノ伴奏もまた、やはり有出さんなんでしょうね。もはや抵抗はムダなのねと、こちらも拍手で皆が賛同の意思表示。
そこでヴァイオリンの誰かが問いかける。
「すみません、ちょっとだけ気になるんですよ。さっき森脇さんが、三大ヴァイオリン協奏曲について騒いでましたよね? なんでシューマン入ってないの!? って。それって、選曲のヒント、というか、ヴァイオリン協奏曲をヤレって言うサインだったりしませんかね?」
「もしかしてあなた、弾けたりします?」
「シューマンを?」
絃人の素直な問いかけに、名もなき彼女は飛び上がってから縮こまった。
「いえ、残念ながら。好きですけど、すぐになんてムリです」
「ヴァイオリン協奏曲、弾ける方、いますか?」
残念ながら手は上がらず。
実力のありそうな面々、Aチームの浅田に稲垣、Bの別所や浜野、各々と絃人はアイコンタクトを試みるも、うなずく者はいない模様。
「実は第1楽章だけ、プログラムに入れられたらって思うんですよ。時間の都合もあるんですが、あと、言いたくないけど、やっぱり、いいとこどりで」
そうか! シューマンのいいとこどりプログラムってわけですね!?
さすが有出さん、筋金入りのシューマニアーナとはいえ、単一楽章のみの強行もオーケーってことですか。
確かにルールでは、サブは部分でも構わないと、森脇氏、言われてましたものね。
で、それは絃人さんご自身が弾いて下さると。
「どなたもいらっしゃらないなら、僕が弾いてもよろしいでしょうか?」
ダメと言われても最初から弾く心づもりだった図々しさを隠して、一応謙虚に確認モードの有出絃人。
もちろん満場一致の拍手で賛同を得る。
「では次に、要のシンフォニーですが、ご意見のある方は?」
シューマンの交響曲であれば、オケ人たる者、4曲とも当然の如く把握していたが、どうせ希望を述べたって、シューマニアーナ有出の腹づもりは既に決まってるんだろうからと、意見述べて却下されるだけムダな気がして誰もが口を閉ざしてしまう。
「分かりやすさで言えば、何たって第1番〈春〉なんでしょうけれど、シューマンの魅力を最大限に伝えられる曲としたら、第2番が絶対おススメなんですけどね。どうでしょう?」
「2番、いいですね!」
「2番、オーケーです!」
「決まりですね!」
一同の賛同を得られて、絃人は嬉しそうに安堵する。
「ありがとうございます! ですが〈ライン〉冒頭の勇壮なテーマも捨てがたいので、第1楽章だけでもやりませんか?」
全員が、わあっと賛成する。
そこで絃人はホワイトボードに、これまでに出た曲と大方の演奏時間を書き出してみる。
マチネ公演
・〈ライン〉Satz 1 10分
・ Konzertsatz 6分半
・ 献呈(歌とピアノ) 2分
・ ピアノ協麦曲 30分
ソワレ公演
・ Vn.協麦曲 Satz 1 15分
・ 第2交響曲 40分
「夜公演の余り時間5分は、とっておきのアンコールを用意するとして、昼は、あと9分弱あるんだけど、ちょうどいいアイディアが ———」
「1時間、目一杯にしちゃっていいんですか?」
誰かが心配そうに言い出し、他の者も続く。
「チューニングの時間とか、ピアノの移動、出入りの時間は取らなくても?」
「まさかコンクールみたいに、時間オーバーしたら、ブ〜ッ! てブザーが鳴り渡る、なんてことないでしょうね?」
絃人はちょっと困った顔をして言った。
「多分、あの人の言い方だと、曲の長さの時間だけで1時間ってことではないかな。これ以上短くされたら絶対に足りない。シューマンの魅力を存分に伝えるプログラムなんだからって、ダメって言われたら異議を申し立てますよ」
そして話を元に戻す。
「マチネ公演の残り時間なんですけど、管弦楽曲以外もオーケイって、わざわざ言われたってことは、むしろ取り入れるべきと思うんです。オケ以外の編成を」
そこで、エヘンと勿体ぶって、
「ピアノ・クインテットの第1楽章を入れてはどうかと」
わあっと騒いだのはBチーム。昨日のシューマン弾き合い会でのクライマックスで、有出のピアノを筆頭に、ヴァイオリンの別所や浜野など、5人の有志によるスリリングな演奏を楽しんだばかりの曲だったから。しかもこのピアノ五重奏曲、シューマンの魅力を存分に堪能でき、とりわけ第1楽章は非常に明快で入りやすいのだ。
「どうやらマチネはBチームで決まりのようですね」
Aチームの稲垣から強気の発言が出され、AもBも、そうですね! そうだそうだと賛同する。
お返しにBチームの別所が両者を立てるべく、話を上手い具合にまとめてみせる。
「確かに精鋭部隊のAチームは、2番のシンフォニー、特に緻密な第2楽章とか完璧に行けそうだし、逆に我々はみだしっ子Bチームは、明るくて雄大な〈ライン〉の雰囲気そのものって感じですかな!」
有出絃人は、事が目論みどおりに運んでくれて大満足。そう。〈ライン〉は紛れもなくBのテーマ曲で、2番シンフォニーは、やはりAの方が断然合っているのだ。これはもう、宇宙の法則レベルだな。そう。これは筋金入りシューマニアーナからの、バトル番組への、そして世間への挑戦状なのだ。
そこへトムくんが息を切らして戻って来た。
「コンツェルト・ザッツのスコア、ありました! ピアノ譜も」
そして息を整えてから、申し訳なさそうに続ける。
「でも残念ながらパート譜はないんですって。砂男さんも探してくれたんですが」
「己のパート、自分たちの手で書けばいいですよ!」
別所が頼もしいひと言を述べ、浜野以下、Bチームの皆が続いた。
「そうですよ! 今日1日たっぷりあるんですし」
「書きます!」
「やりましょう!」
そこで絃人がはっとして、舞台が映っていたモニターの音量を大きく調整しながら皆に告げた。
「すみません、ここから先、おしまいまでは、ぜひ聴いて頂きたいんです。第11練習曲と、続くフィナーレ。シューマンの極致、シューマンの魅力全開なので」
絃人の言葉に一同は素直に静まり返り、夜想曲のように美しくも哀しげで切ない唄に心を貫かれ、続く終曲では、晴れやかで力強い、勝利を讃える凱旋の行進に気分も高めゆく。
そうだ。シューマンだ! 我々はやるのだ! と。
そしてこの新たな審査員の、アーティストとしての実力に完全脱帽するのだった。
鮮やかな和音が豪快に曲を結ぶや、一同から、ほう〜っと称賛のため息と、心からの拍手が湧き起こる。
ね? 素晴らしいピアニストでしょ? と、絃人は皆を見渡しつつ、森脇の演奏を称えてから、多岐川勉に、
「トムくん、すみませんでしたね。話し合いに参加してもらえなくて」
と、これまでの流れを説明する。
「えっと、ピアノ・クインテットのメンバーも考えないとね」
ボードのマチネ欄、ピアノ協奏曲の前にピアノ五重奏曲と書き加えてから、
「どなたが奏されますか?」
「昨日のメンバーで良いのでは?」
Bチーム外野の、自分、関係ないし割とどうでも良いと思っている木管楽器辺りから声が出て、弦楽器の他の一同も「自分が!」とは言い出せず、主役の座は昨日の余興メンバーに譲る形となり、両チームの特色が最大限に活かされた大方のプログラムがまとまった ———
はずが?
「なるほどね」
収録を終えた森脇遊が、いつの間にかロビーの隅に佇んでいた。
「お見事なプログラム。音出しもしないで30分足らずで決めちゃうんですね!」
パン! パン! と愉快そうに拍手してみせる。
「トゥシェ! だわ。まったく。こうなったらガラガラポンで、両チームのプログラム、総入れ替え!」
え? 何を言い出すの? この人。
と、呆気にとられるバトラーらに、無情に言い放つ。
「Aが昼公演で、Pコンがメイン。Bが夜公演で、第2交響曲をメインに、決定ー!」
88.「シューマニアーナの使命」に続く...
