「オケバトル!」 81. ブリューゲルじゃ、ダメなんです
81.ブリューゲルじゃ、ダメなんです
有出絃人の指揮、浜野亨コンサートマスターによるウィーンコンビは相性も良く息も合い、出だしのつまずきを挽回すべく、そこからは効率よくリハーサルは進行していった。
といっても有出のこと、特別な演出は皆無ながらも、この《田園》という曲の本質レベル、決して譲れないこだわりに至っては、容赦せずに注意を促していく。
第一楽章は滞りなく進み、続く第二楽章、〈小川のほとりの情景〉へ。
冒頭、ミュートを付けたチェロ2台によるソロでは、音量が足りない、もっと大きく、もっと力強く音量上げて、と納得するまで繰り返される。
「ですが我らは小川のせせらぎで、ドナウの大河ってわけじゃないはずでしょ、ここは」
「しかもミュートをあえて付ける指示に従って、音量下げてるんですから」
というチェロの2人に対して、
「違うんだなあ」
絃人はふぅ〜と、宙を仰いでから説明する。
「小川としても、何かこう、大地に根ざしてる感じ。どこか遠いところから流れて来て、田園地帯にうるおいをもたらす力強さを秘めていて」
ああ、かの白城教授だったら、秒速で理解して対応してくれるんだろうけどな。彼、最高のパートナーだったな。
Aのルームメイトにして良き理解者であった白城貴明の存在がいかに貴重であったかを、絃人は思い知った。彼をこのチームに呼び寄せられたら......。
いやいや、そんなのは甘いし傲慢すぎる目論みだ。身勝手な思いを振り払い、チェロ第一プルトの2人に、そしてチーム全体にも意識して欲しい説明を続けていく。
「ただP(ピアノ)といっても、表面をサラサラさらうんじゃなくて、凜とした、安定した流れ。そこに様々な生命や自然の光景がのってくる。草木に花といった植物や小鳥や、田園地帯の小さな生き物、流れゆく雲に、そよ風が重なりゆく。
ここではつまり、重なりゆく様々な楽器ということ。だけど自然の情景を描写しているわけではなく、あくまでも自然への想い、感情の音楽で」
「Pでも、優しげなPでなく、毅然としたPってわけですね」
そこまで説明されてようやくチェロの2人も納得する。しかしこれが中々厄介で、技巧的にも音量を上げるのためには相当頑張らないといけない。
「後は自主練で、さらっときます」
第二楽章の静かなるクライマックスでは、森を彩る小鳥の鳴き声の木管楽器による競演が聴きどころ。フルートはナイチンゲール、オーボエはウズラ、クラリネットはカッコウと、楽譜にも作曲者の意向で鳥の種類がご丁寧に明記されている。
「僕は何もしないので、皆さんで自由にやってください」
と、絃人は言いつつ、
「ですが一貫性のある自由で」
釘を刺すのも忘れない。
Bチームでは格別仲良しの木管どうし。自主練の段階で周到に合わせており、3人の息もさすがにぴったりではあったが、
「カッコウさん? 血の通った生身の鳥なのか、機械仕掛けのおもちゃなのか。も少し優しい感じでふんわりお願いしますよ」
と、硬すぎるクラリネットに指揮者からの注文。
ムカっとくるか、なるほどねと素直に納得するかは奏者次第だが、既に木管仲間のほんわかムードに染まっているクラリネットの男性は、了解と、ほんの少しだけおどけた風にも聞こえる絶妙センスで、生きたカッコウを演じてみせる。
《田園》は、豊かな自然に触れた時に溢れ出る感情が音楽によって表現されているのであって、絵画的な自然描写ではない旨を、ベートーヴェンは譜面にわざわざ書き入れるなどして、こだわってはいるものの、こうした小鳥の鳴き声のようにリアルな描写がなくもない。第四楽章の嵐のシーンもまたしかり。
その前の〈田舎の人々の楽しい集い〉では、バロック・トランペットが初登場する。
「パリッとして、やはりいいですね」
奏者本人らと共に、言い出しっぺの指揮者も満足げながら、
「フォルテでは大きくなりすぎないで、弦に溶け込む感じでお願いします」
中間部の激しいトリオでは、案の定のB特有、やたら張り切りに待ったがかかる。
「ガンバリ過ぎはダメ。むしろ何もしない方が洗練されるので」
ですが田舎の農民の踊りでしょう?
都会のダンスじゃあるまいし、洗練って?
勢いのある楽しい踊りじゃないんですかあ?
一同、首を傾げてしまう。
「コサックみたいな激しいダンスじゃなくて、あくまでも田舎の素朴で単純な繰り返しなんです」
ノリの良すぎるBチームを制御するには、視点の極端な転換も必要と、絃人は本意ではなくも彼ら用のイメージを捻り出す。
「ここではね。我々皆が踊りの真っ只中にいるんじゃなくて。どっぷり浸かって一緒に楽しんじゃうんじゃなくて。どちらかというと、収穫を喜んで心から楽しんでいる素朴な人々を、外から見てる感じ」
つまり、神の視点で。という言葉を絃人は呑み込んだ。まだ早い。例の話は舞台リハの場でないと、と切り替えて、技術的な注文に移ることにする。
「3、4小節目の付点のリズム、明らかに1、2小節目、ターララとの違い、付点を際立たせて。
タラララ ターララ じゃなくて、
タラララ タァッタラッ。
だけどテンポが速いからって、鋭すぎはダメ。足がもつれて転んじゃう」
むむむ、難しい注文。付点を際立たせるも、鋭すぎず? 一同不安に陥るも、
「じゃあ、ボウイングはこうですかね?」
コンサートマスター浜野亨が、素朴でありながら絶妙リズムの田舎踊りの見本をすかさず示す。
「はい。それで。僕、あまり細かく振りませんから、お任せします」
中々のコンビではないですか!
さあ、ワインかビールか、お酒も相当入って、踊りが佳境に達するうち、〈雷雨、嵐〉の楽章に突入。何だか雲行きが怪しくなってきた? 最初のうちはポツリポツリ。徐々に激しく大雨、大嵐に、稲妻が光り、雷鳴が轟くといった具合に、ここでは極めて具体的に全てが音楽で表されてゆく。
こうした激しい楽章では、踊り以上に俄然張り切るチームだが、舞台でこのままやられたら、滅茶苦茶音割れの、それこそ大嵐になってしまいそう。舞台のバロック・ティンパニとの調整もあるし、エネルギーの温存も必要だ。
「やめておきましょう」
絃人はタクトを降ろし、スコアを閉じた。
「この先は舞台リハで。10分前に袖に集合して下さい」
10時開始の舞台リハーサルまで、まだ30分近く時間が残っているのに、残りの楽章をさらっておかなくて良いのだろうか? 一同不安を感じるも、10分前集合に何か意味がありそうだと、各々個人練習、あるいはボウイング決めや、パートごとの打合せに入ることにする。
「そうだ」ふと思いついたように有出絃人が一同を見渡して言った。あぶれた方はいないんですよね? と、一応確認してから、
「ほんの1分程度なんですけど、どなたか演奏前にナレーションを入れて下さいませんかね?」
しいん。
演奏前に余分な緊張など、誰も強いられたくないもんね。
「地声じゃなくて、マイクで影アナっぽく。演出ナシで台本読むだけでいいので」
「絃人さんが原稿を? なら、ご本人が話されては如何です?」
「できれば女性の方が。しっとり穏やかな雰囲気にしたいので。例えば舞台の隅の方におられる方とかが、あんまり目立たないよう脇のスタンドマイクに向かってさっと語って下されば」
ファーストヴァイオリンの最後尾、表側に座っている女性に視線が注がれる。最若手の会津夕子だ。
「ダメですっ。マイクで話したこと、ないですし!」
確かにイメージ違うよな。ちょっと幼すぎる感じだしと、絃人も心の中で思ってしまう。これまでも喰い付きが良く、こちらの言うことにさっと反応するし、明らかにヴァイオリンが上手いのは認めるが。
「出番の少ないパーカッションさんは?」
と、誰かが言うも、
「え? 向いてませんし、私、がさつですから、しっとりしたナレーションなんて」
谷内みかも、完全拒絶モード。
そう。落ち着いて皆の前に立ち、指揮もできるとはいえ、彼女は声、高すぎるし、早口っぽいし。絃人は彼女が断ってくれてホッとする。
「大人の雰囲気で格調高く、落ち着いた女神レベルの優しさで、どなたかいらっしゃいませんかね?」
「女神レベル」がキーワードとなって、今度はフルートの紺埜怜美に注目がいく。何しろ《アルルの女》のメヌエットでは、女神レベルの名演奏が伝説となったのだ。
それに彼女、トーク付きコンサートとかで、絶妙おしゃべりも慣れたものって評判ですしね。
美しいし、大人だし、格調高きベートーヴェンの田園の雰囲気、合ってるのでは?
怜美さんね!
そう、彼女ですよ!
怜美さんにお任せね! と、皆が勝手に納得してしまう。
当の女神レベルのご本人は、「いえいえ、私なんて……」と、この期に及び建前で遠慮したり無駄にごねたりせず、誰かがやらなきゃならないならと、大人の対応で受け入れ、ナレーションの内容を一応、有出絃人に確認しておく。
「台本、書いときますので読むだけで。ハイリゲンシュタットにおけるベートーヴェンの話を少しだけ———」
「できませんっ!」
突然の拒否反応に一同唖然。渋々ながらも大人の責任感から引き受けてくれそうだったのに?
「あ、ごめんなさい、私......」
明らかに動揺の様子。何かあるんだな? と絃人も気づき、とりあえずは無理強いしないことにする。
「ちょっと考えてみます。別に絶対に必要ってわけでもないし、この話はまた後で」
ベートーヴェン交響曲の逆リハーサル。後攻Bチームが早々舞台袖に全員集合するや、指揮者の有出絃人による「お話」が始まった。
子どもの頃、この曲を聴きながら解説に添えられた絵を見ていた記憶があるんですよ。定かではないんですが、多分、母親が大事にとっていた音楽の教科書とか、何かの解説書かなんか。
各楽章にブリューゲル風の、あるいはブリューゲルの絵画そのものだったのかも知れませんが、見事な挿絵がついていて、印象に残っているのが、農民たちの飲めよ歌えよの、楽しい踊りのシーン。それから大雨が降って来て、皆が散り散りに逃げまどう絵。わー濡れちゃう、タイヘーンっ! て、かなり滑稽な感じで描かれてて。
《田園》の解説に添えられた絵そのままに、幼心に完全に焼きついちゃってたんです。わー、タイヘン! ずぶ濡れだあ! あれ? 晴れたかな? 良かった! めでたし、めでたしって。そうした曲なんだと。
でも大人になって、実際に田舎の、田園地帯の生活がどんなものか分かってきて、そんなお気楽なものじゃないんだと。
丹精込めて作物を育て、いよいよ待ちに待った収穫の季節を迎え、仲間と共に心から喜び祝う。そこへ不穏な天候の気配が忍び寄る。とてつもない不安、そして突如の大嵐。それは恐るべきもので、自分が雨に濡れちゃうとか、せっかくテーブルに並んだご馳走が台無しになっちゃうとか、そんな生優しいもんじゃなくて、大切に育ててきた作物が全て失われるかも知れない、生活できなくなってしまう、家族を養えなくなってしまうかも知れないといった、とてつもない恐怖や絶望感。
この曲が描かれた時代の、大嵐がどれほどの惨事をもらたすものか? なんて実のところは計り知れませんが、ちょっとおどけた感じで、滑稽ですらあるブリューゲル風の絵じゃなくて、命かかってる真剣勝負の話なんです。
そこへ晴れ間が。
神々しい光が差すと共に、嵐はすうっと過ぎ去りゆく。それがどんなにか安心することか。まさに「神よ感謝します」の心境で、クリスチャンでなくても宇宙の絶対的な、神秘の存在を感じずにはいられない。心からの安堵と感謝。
フルートの上昇音階に導かれ、すうっと嵐が去った後のクラリネットの、続いてのホルンの牧歌。まさに〈牧歌、嵐のあとの喜ばしき感謝の想い〉となるわけですよ。
こんなに、これほどまでに神々しい音楽の展開、他にあります? どれだけの感謝の想いや自然への畏敬の念が込められているか。
せめて奏する側だけでも、少しはそんな想いに近づいて理解したいもの。でなきゃなおさら、ベートーヴェンや田舎の人々の想いなんて、聞き手に伝わるはずないと思うんです。
静かに話を終えた絃人が、
「じゃあ、行きましょう。第3楽章からラストまでを先に」
と言わなければ、このまま本番と誰もが錯覚しそうなところであった。素直に感情移入しやすいBの面々、絃人の話はごく当たり前にして普通のことのはずなのに、皆が胸を打たれ、涙ぐんでしまう者も少なからずいた。
このまま本番を迎えたかったとすら思う者も。
フルートの紺埜怜美もその一人。
さっきは思い切り拒絶してしまったけれど、今の話、神々しい感謝の想いが嫌というほどグサリと伝わってきて、ナレーション、してあげられたらいいかな? できるかな? と思い始めていた。
むしろ、やった方がいい。あの時の、ハイリゲンシュタットでの想いを拭い去るためにも。
一同が定位置に着く様子を袖で見守る有出絃人に、怜美はそっと声をかけた。
「有出さん、私、やります、ナレーション。私でよければ」
82.「ハイリゲンシュタットの蝶」に続く...
