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三島から村上へ━━尾辻克彦 『肌ざわり』と赤瀬川原平を読む(2)

三島から村上へ━━尾辻克彦 『肌ざわり』と赤瀬川原平を読む(2)

連載になります。(1)はこちら。https://note.com/yukawashizuka/n/n26dd8922b3cb


さて、前回から二ヶ月程時間が経ってしまった。その間に本国では首相や政権の内実がかわるなどの、前回の言葉でいえば「思想」が動く事態が起こっていた。右か左かと問えば明確に前者に傾いたともみれ、「思想強め」な政権ともいえそうである。国家の動く方向としては、国民の空気含めて、先の米国での大統領選挙の影響が大きいともみられるし、また世界史、歴史的な大きな流れの中での変化ともいえそうだ。ネットやSNS上では以前なら強くはいえなかった、世間の空気や潮目に乗っかる発言=「思想」も増え、また、それに対する反発=「思想」も強まっている。沈黙=「思想」もそれにつれて目立つようにもなる。YouTube などの動画や、簡便かつ反射的にみてしまうアプリ内のショート動画などでは極端な政治的意見も見受けられるし、SNSでの煽りと連動しながらのメディア戦略が政治の分野でも花盛り、かつ、スマホでのネット環境でのコミュニケーションが当たり前な若年層含め甚大な影響力も持つ。極端に分断や恐怖を煽ることが政党や党派や「思想」傾向的を強化し、それは票集めにもつながり、時代の空気感をも醸成していくだろう。

『肌ざわり』の作者である尾辻克彦こと赤瀬川原平が(芸術/反芸術/後の超芸術につながる)表現活動を開始した1950年代は、第二次世界大戦後の動乱の中で、政治や「思想」も現代以上に激動した時代であった。右/左、親米/反米、保守/革新、資本主義/共産主義・社会主義、日米安保を経て60年代終わりの全共闘運動までの激動の政治の季節、またその後も揺れ動く社会や政治情勢の中で、己の立場を明確にとったもの、そうでないもの、様々な立場で右往左往するものもいたに違いない。そのような時代性の中で、赤瀬川自身がどのような政治「思想」を抱えていたか、もしくは抱えていなかったか、は本稿では指摘しない。そうではなく、彼の作品や表現や芸術の中に「思想」が見出せるか、もしくは見出せないのか?を考えてみる。

無論一般的には、作品や表現はその作者の「思想」に左右される場合がある、と考えられている。ここでいう「思想 thought」は(1)をおさらいすれば「「単なる直感」とは区別された上で、人間と生活の周囲に醸成する「あるまとまった考え」や「その生活・行動を支配する、ものの見方」のこと」である。作品を形成する際に、「あるまとまった考え」や「ものの見方」を提示することはよくあることだろう。その場合、作品からなんらかの「思想」を感じ取れるかもしれない。一方で、作品を「直感」的に作ることもあり可能であり、その場合は作品に直接的な「思想」はないの“かも”しれない。
どうなのだろうか? 「例えば「運動」という言葉がある。「運動をする」といった際に、英語でいうsport (スポーツ)の意味ではなく、政治活動をする際にもこの単語(「運動 movement」)が用いられている。上腕筋がなんとなく鈍っているので右腕をぐるぐると「直感」的に回す行為は単なる運動であり、それ自体は「思想 thought」と直接的にはつながりはないが、「腕の筋肉を定期的にメンテナンスしなければ人間の身体と思考、はたまた生活や運気まで鈍る」と信じ、その「考え」や「ものの見方」を元にして、生活の中で慣習的にぐるぐると腕を回したり、その考えを公表すれば、その行為は歴とした「運動 movement 」=「思想 thought」であるだろう。よく美術大学などで学生が作品を制作し講師や教授の講評に晒される際に、作者(学生)が講者に制作の「意図」を問われる、という話がネットでも定期的に噴き上がる。「なぜこの作品を作ったのか? そしてこの作品制作の意図やその意味は?」と問われた際に「直感」で、と答えても本来はよい筈で、そのような言語的なディベートが強制されることへの作家からの反発も少なくない。では、絵画には絵画の表現が表れている訳で、それを再度、作者が言語に翻訳することが果たして必要なのだろうか? と仮に考えると、制作意図を探る問いかけには、作品自体は作者の「考え」や「ものの見方」を反映している、もしくはしているべき、実際している、もしくはその意図が失敗している、と評価や解釈する際の基準があり、そこには「思想 thought 」が入り込んでいる。作品の中には「思想」があり、ここでの「思想」の確認は作品=表現物を再度文字に「記号化」する行為であり、昨今の流行りでいえば「言語化」するということだ、ととりあえず「言語化」してみる。
この「思想」=「記号化」や「言語化」は何を土台としているのだろうか? それは、需要に対する供給側の配慮だろう。芸術やアートが資本主義の市場(マーケット)で扱われる際に、言いかえれば作品がギャラリーなどを通して取引される際には、説明書として作者の「考え」や「ものの見方」がそれとなく組み込まれている。また、西洋の美術史においてその作品がどのような文脈で読み解けるかのヒントとしてそれらは機能している。美術マーケットや美術史の文脈、それを補強する場であるギャラリーや美術館に作品が接続する際に、それそのものを観察する鑑賞行為とともに「記号的」に「言語化」された文脈の芸術品の消費が重要なのである。というよりは、それこそが“現代におけるアートの鑑賞”でもある。美大生やそれを目指す予備校生において、絵画制作における歴史的なデッサン技法の習得・修得のための実習は、芸術鑑賞の文脈への接続、および表現物における「記号化」との親和を高める基礎的な修練でもあり、絵画技法を用いない現代アートの隆盛にも関わらず、現在も美大の門をくぐる際の合否判定の大きなひとつの基準とされている。ウォーホルなどが打ち出した「ポップ・アート」の一部はそれを逆手に取り、絵画的な筆致というよりはシルクスクリーンなどの印刷技術の元で、既存の有名な社会に広まるイメージを写し取りながら作品が作られる。それはそれで、アートや芸術の歴史や文脈を更新していくことにより、よりマーケットの中で注目される戦略としてある。それ以前、1910年代に第一次大戦下での抵抗として生まれた「ダダイスム」などの反芸術は、芸術という行為自体を否定・破壊していきメタ的に炙り出そうとした「思想 thought」「運動 movement 」であり、コラージュやモンタージュ的手法、デュシャンなどのコンセプチュアル・アート的な技法も登場する。
では、芸術と反芸術の発展の歴史の中で、講評の中では否定的にみられがちでもある一見すると意図や政治や芸術の文脈から遠いともみられる「直感」で描いたとされる絵画に「思想」=「考え」や「ものの見方」は入り込んでいないのだろうか? 何も「考え」を意識化せずに描いたとしても、作者の脳を含めた身体は常に動いている。その動きが筆致や絵画の形象を作り出し、鑑賞される。作者の意図を極力排し自動筆記で無意識下を表出する、とされるような手法(オートマティズム、シュールレアリスム、もしくは国際的に再評価著しいヒルマ・アフ・クリントの「天啓的」な絵画など)もあるが、ではその無意識には「思想 thought」はないのだろうか?絵画には筆致の問題があるが、筆致に表れる作者の「考え」や「意図」や「癖」や「無意識」を「偶然性」を用いることで回避する技法(アクション・ペインティング)などの、西洋美術における絵画の流れもある。絵画=作品それ自体からは、作者の「考え」や「ものの見方」や「意図」や「思想 thought」としての「運動 movement」以前の単なる「動き move」や「痕跡 trace 」や「傷 scratch 」等を含む通常はノイズとみられるものを見出すこともできる。果たしてそこには「思想 thought 」は存在しているのか? その手法自体は西洋美術の歴史における文脈の中でのゲームに取り込まれた行為であり「思想 thought 」や「運動 movement 」ではないのか?

制作物や表現における美術史的な文脈のゲームや経済的な取り引きというマーケットの論理、消費社会の現象に結局は組み込まれるのか? それに反発や抗うような制作行為は現代社会において果たして存在できるのか? 現代アートの隆盛の中では、「コンセプト・アート」、「パフォーマンス・アート」、「インスタレーション」、「関係性の美学」、「地域アート」、「ランド・アート」、各地で隆盛する「芸術祭」など、物質としての絵画様式やそれに伴うアート・マーケット、資本や政治体制の論理(無論、上記のジャンルには、行政・国家・資本の思惑や予算が投入されているものも多いが)から外れる、またそれらに反発するような表現(活動 action)も増している。それらに意識的に反発するような表現(活動 action)には「思想」や政治性が伴っていることが多いだろう。「場所 topos 」に依拠し多くの問題提起をアートを経由して発表するバンクシーの活動と表現はその典型だ(バンクシーの作品自体は経済的な価値も高い)。現代のアートの中には絵画や彫刻のような物質としての作品を制作する他にも、PC(ポリティカル・コレクトネス)やアイデンティティ、移民、LGBTQ、フェミニズム、オタク・カルチャー、弱者男性、マイノリティ、気候変動問題等の社会問題、政治的な「運動 movement」としてのコンセプチャルなアート作品も多く存在する。社会と政治に積極的に関与し、また提言する際に、社会や国家や政治体制、既存のアート業界との大小はあるが衝突も避けられない。SNSなどを眺めているとアートや芸術と呼ばれているものの存在や行為を受け入れられない態度=アート・フォビアが散見される。アートや芸術という行為の中に潜む固定された価値観や政治性、資本、文化に反発する力に対する恐れや嫌悪、それらが最早時代的に不必要だという感覚もそこには含まれるだろう。また、「思想」という面からアートや芸術作品をみてみると、戦前・戦間期・第二次世界大戦時、大日本帝国下での体制順応の翼賛的な戦争絵画やリーフェンシュタールの製作した映画が当時のドイツ政権(ナチス・ドイツ)との協力体制、または(翼賛)体制への反発(とそれに伴う特高の逮捕・拷問、治安維持法のような「人権」や「表現」の自由に対する物理的な抑圧や思想統制、言論弾圧)があったように、右派/左派、保守/革新、体制/反体制、またマーケットや政治体制との親和性にいたるまでの間にそれぞれの作者の中にも作品の中にも行為の中にも「思想」の散々この文章でも煽ってきた二項対立だけでは分けられないさまざまに絡み合うグラデーションがあるだろう。

経済的価値や政治性まで様々に潜在する作品の中にある「思想」を、果たしてわれわれはどのように鑑賞、また批評、批判、評価出来るのか?

以上の問いを赤瀬川の作品や表現から以下に考察してみたい。しかし、まず指摘をしておきたいのは、日本の戦後美術史において赤瀬川原平は充分すぎる程に重要な作家の地位に位置付けられ、評論され、研究され、評価されている、ということだ。また、彼の文学者・尾辻克彦としての活動も、芥川賞の受賞など言語芸術としても燦然とその名は歴史に刻まれている。簡単にいえば、業界などの権威や体制の内外での知名度や評価が最高度に高い(美術)作家であり芸術家である。本稿ではその”業績“を再度なぞりながら振り返るようなことはしない。また美術史や文学史の観点や文脈に沿いながら再評価しようというつもりもない。この連載において初めに試されるのは、彼の作品や表現において潜在している/していない/どちらでもない「思想 thought」や「運動 movement」もしくは「動き move」や「痕跡 trace 」や「傷 scratch 」を辿る・なぞる(トレースする)ということである。

(3)へ続く。
https://note.com/yukawashizuka/n/nd4e4bd420df5?app_launch=false


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