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『熊神 縄文神話を甦らせる』、『精霊の王』を読み、諏訪(神長官守矢資料館、諏訪大社上社)を歩き、『鹿の国』を観る+【補考】『もののけ姫』におけるシシ神は耳裂鹿なのか?

(以下の文は「ミシャグジ」と「ミシャグチ」の語が混在しています。文脈や引用文により使い分けていますが、それぞれが指し示すものは同じです。計34,000字の長い memo。あてどなき団栗のなる森への散策。)

1、山の神

・彼らはいる
木々に彼らが来ていた。栗や山桜に棚が出来ていた。夏の夜に出没した際にも、この眼でしっかりとライトの光越しにみた。数十メートル先で、地面を嗅ぎながらノソノソと歩くその姿を。

栗の熊棚


山桜の熊棚


折れた枝


「それでは、文句はいままでのとおりにしましょう。そこで今日のお礼ですが、あなたは黄金のどんぐり一升と、塩鮭のあたまと、どっちをおすきですか。」

「黄金のどんぐりがすきです。」

 山猫は、鮭の頭でなくて、まあよかったというように、口早に馬車別当に云いました。

「どんぐりを一升早くもってこい。一升にたりなかったら、めっきのどんぐりもまぜてこい。はやく。」

宮沢賢治『どんぐりと山猫』https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43752_17657.html


熊棚に引っかかっていた折れた枝の葉が枯れ落ち、冬の山おろしの強風でようやく地面に落ちてきた。このレベルの太さの枝をばきばきと折るのだから、その腕力は人間の比ではない。襲われる恐ろしさを極端に煽るつもりはないが、飛びかかられて大きく鋭い鉤爪を振り下ろされたりすれば、まず一貫の終わりだろう。

「2023年度のクマによる人身被害は219人(死者6人)に上り、過去最悪だった。2024年度は11月末現在、81人。捕獲頭数も過去最多だった2023年度の9274頭に対し、2024年度は11月末現在で4971頭にとどまり、大幅な減少ペースにある。」
(東京新聞 WEB https://www.tokyo-np.co.jp/article/377199#:~:text=2023%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B,%E3%81%AA%E6%B8%9B%E5%B0%91%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82 )

人家の近くまで彼らが出てくるのには様々な要因がある。2023年は「過去最悪」と記述されている。食料となる広葉樹の実(ドングリ)などの不足が影響しているとみられる。いずれにせよ、何らかの理由で山奥で食料が不足していれば、少し離れた私の棲家の近くの林まで摂取しに来るのは当然である。それ自体はなんらおかしいことではない。

そのトーテムポールの上半分には、大きな熊に食べられている人間の姿が描かれ、下半分には同じ熊のヴァギナから生まれ出てくる人間の頭部が描かれていた。この彫刻は、北西海岸に住むアメリカ先住民にとってきわめて重要な、「イニシエーション」の思想を表現するものだ、と本には説明してあった。彼らは人間は二度生まれなければならない、と考えていた。そのためには、自然の王である神聖なる熊によって、古い自我が食べられ、いったんは熊の生きる大地の底に呑み込まれたのち、同じ熊のからだから生命となって生まれ出てくる必要があると、彼らは思考したのである。

中沢新一「後ろ戸に立つ食人王」より(『精霊の王』講談社、所収)


ここら辺の彼らが人を食べる(人喰い=カンニバル)かはわからぬけれど、山の中なので、当たり前に周囲には野生動物達が生息している。鹿、猿、雉(『桃太郎』のようだ)、鷺、鳩、羚羊……啄木鳥が外壁を叩いて起床するし、土竜の穴が庭にぼこぼこと出現する。屋根の上を何か小動物がかけっこをしている音もたまにする。猪、穴熊、狸、狐、ハクビシン、野兎、栗鼠に野鼠もいるだろう。哺乳類を狙うヤマビルも注意だ。洗濯物を干せば足元に蛇の抜け殻が落ちている。春から秋にかけては野鳥が鳴きわめき、秋になると北からショウビタキがやって着てテリトリーの庭やデッキを毎日パトロールしている。
夜中には鹿の鳴くピヒャーという声が毎日のように聴こえる。鹿は昼間でもたまにその姿をみかける。国道や山道ではしょっちゅう車と衝突し、山路のかたわらに前方が凹んだ車がたまに停めてある。庭にはぽろぽろとした粒状の黒い糞が落ちている。鹿はマダニの寄生先でもあるので、シーズンに庭に出る際は刺されぬように注意も必要である。

しかし、「大きな黒いもの」(宮沢賢治『なめとこ山の熊』https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1939_18755.html)は臆病らしく姿はほとんど見かけない。

冬の猟期には発砲音が山に響く。しかし、地方の人口減少も著しい山深い地域では猟師やハンターは減る一方で、野生動物は今後もますます増えていくと考えられる。2024年4月6日には環境省により彼ら熊類は鹿や猪のように「指定管理鳥獣」に指定され、捕獲に対して財政支援する対象となったにもかかわらず。
(NHK 北海道NEWS WEB 「環境省 クマ類を“指定管理鳥獣”に 駆除対策など国が支援へ」https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20240416/7000066318.html)

人間の生息域と、野生動物のそれとは相互浸透関係にあり常に変化している。人間側からすれば、彼らの個体が増えれば侵食や衝突と感じる機会や警戒心も増していく。なにもテリトリーや領土の争いは人間同士だけではない。
濱口竜介『悪は存在しない』のロケ地は普段の生活圏だった。鹿を巡る物語は、彼らの生息域に住む人間にしてみればリアリティのある話題だ。グランピング場を人間が作れば、鹿の生活圏が侵害されるかもしれない。土地の開発によりもし水場が涸れれば、彼らにとっては死活問題である。常にそういったみえない緊張関係の無数の変化の只中にある、と何も大文字の環境問題を唱えなくても感じざるをえない。

・『熊神』
2024年に出版された川村湊『熊神 縄文神話を甦らせる』(河出書房新社)の帯には「クマという共同幻想」と印刷されている。

川村湊『熊神 縄文神話を甦らせる』の書影

メディアでその被害が連日大々的に報道されれば、彼らは恐ろしく凶悪な存在として共同体の中で幻想されるだろう。実際に身近に被害が出れば、恐ろしいと感じる側面も否定できない。しかし、日々起こっている車による多数の人身被害の全ては報道されないし、車が凶悪であると積極的に煽る話は、スポンサー配慮の広告ベースでの報道や既存メディアの中では多くは聞かない。
一方で、X や TikTok では人間が危険な目に遭う映像が無数に存在している。センセーショナルな映像は反射的に注目されインプレッションが稼げるからだ。その中には交通事故や彼らの人家周辺への出没動画も溢れている。アルゴリズムによって個人にカスタマイズされた「おすすめ」でもそれらは流れてくる。現代において「共同幻想」が構築されていく過程では、WEB空間において流通する映像や言説などの情報のネットワークの影響によって形成される側面が強い。
古代社会において、トーテミズム等共同体存続の方法や構造化として、野生動物を信仰や崇拝、神話化の対象とすることは、共同の幻想、原始宗教であると同時に、リアリティの感覚がベースにはあった。実際に山の中で生活をしていると、彼らは畏怖するべき存在であると同時に、普段形跡は感じられるが、その姿は滅多に見られないものとして、独特の存在感を持ち始める。いってみれば神的な存在か、その使いとして徐々にだが感じられてくる。その自らの内に“自然”と湧き起こる心性(スピリチュアリティ)によって、彼らに神聖さが纏わされる。こうした個人の持つ心性も、共同体の中で流通する神話や昔話や民話等を通すことによって、より広い幻想や宗教として機能し始めるだろう。『熊神』を手に取った理由は直感的に、普段己の中に湧き起こる心性を、タイトルがその儘に表していたと感じたからだ。

『熊神』の中で、北方のアイヌにおける「熊送り(イオマンテ)」という祭儀が紹介されている。熊送り(イオマンテ)においては熊は「犠牲獣」「生け贄」となり、「その頭(頭骨)が重要な祭物となっている」(『熊神』p.89)。北方少数民族のニヴフやハンテ人等も同様に、祭儀の儀礼の中で熊の頭部を供物として捧げる。ハンテ人の儀式では「熊の歌」が歌われる。それは、「熊の霊が憑依したシャーマンが歌うもので、熊自身の語りであると信じられてい」て、その内容は、「祭壇上にある熊の頭が、珠玉のように可愛かった仔熊の時代を懐かしみ、成獣となってからの自分の乱暴な振る舞いを、反省するように物語るもの」(同p.92)である。また、熊送り(イオマンテ)では、祭に際し、カムイノミ(祝詞)が捧げられ、森の神に対する祝詞・シランパカムイの中で、熊の神様の子供(仔熊の神)を神の国・天の国に帰らせる、と朗誦される。いずれも熊の頭部が人間の心性と神的なものの媒介(メディア)として機能している。前者では、「熊は殺され、祭られることによって、肉体から離れ、霊魂、精霊となって、人々の守護神となったり、最高神の住む天井の世界へと移り住むことが出来」、後者では、「単に犠牲としての熊を殺害するだけのことではなく、殺害することによって、その霊魂を熊という肉体から離れさせ、その霊魂を高い山の上の世界、すなわち天上界、霊界(あの世)へと送り込む儀式なのだ」(同p.94,95)という。ここにおいて「熊送り」とは、山の神に供物として熊を捧げるのではなく、彼らの精霊そのものが「魂送り」されている。

五世紀から九世紀(日本史における古墳時代から飛鳥、奈良、平安)にかけてのオホーツク文化(樺太、道東・道北沿岸部、千島列島)の遺跡でも儀式に用いられたとみられる動物の頭骨は見つかっているらしい。頭骨は土中の長期保存の関係(溶けて無くなる)から現代では発見されづらいが、それ以前の縄文時代にも同様の供儀があったと考えてもおかしくはないという。
文化人類学者のジェイムス・フレイザーは、かの有名な大著『金枝篇』の中で熊送り(イオマンテ)について触れているが、彼自身は「熊を山の神として絶対的に崇拝することと、それを殺し、血や肉をみんなで分け合い、食用とすることはあまり納得のゆくことではなかったようだ」(同p.101)と考えていた、と川村は指摘する。アイヌにおいては熊にカムイ、すなわち神という名前を与える一方で、熊を殺し、またその肉を食べる。川村も、もし古式の熊送り(イオマンテ)をみることができても、「矛盾した、原始的精神の表現として、自分の感性とは随分、距離のあるものと感じてしまうことは充分にありえることなのだ。」(同p.103)とフレイザーの弁に相槌は打ちつつも、「アイヌの捉え方は、熊と人とは絶対的な距離にあるものではなく、往還可能な生き物であって」、「その間のコミュニケーションは可能」であり、「熊だけではなく、鳥や魚や木々との「自然」との対話が可能であり、人間もそうした「自然」の中の一生物にほかならない」(同p.103,104)とも指摘する。フレイザーも『金枝篇』の中では続けて、熊送り(における近代イギリス人からみての供儀の矛盾点)自体が非論理的・非実際的なものではない、とも述べている。

「原始的な日本人の考え方では、そもそも自然と人間とは対立的なものではない。ある種の動物は、人間とその位置を交換できるものであって、動物にも魂と肉体との二元論というものは通用するものなのだ」(同p.104)との川村の指摘も私の山の中での実感とも重なる。
自然があり、人間があるといった対立的な思考というよりは、全てが文字通りに地続きで全体性として繋がっている感覚である。暗闇で蠢く大きく黒いものの気配(もののけ)が、世界をとらえる概念や視覚や直接的な刺激より、より身体や心にまとうようにそのままに浸透している。姿は見えない彼らの存在感は、映像などの媒体を通じてでなく、日々の生活の中で伝わって来る。
環境の中で存在するものたち、その中でも彼らを山の神そのものとして認識する心性に、私自身はそれほど非現実感を感じない。

一方で、メディアの中で流通する彼らの映像や、都市部において直接的に姿を目撃したり現実的に被害に遭えば、神的な存在とは到底感じられないだろう。より即物的に、〈害獣〉としての駆除が共同体の観念として目されもする。九州には最早生息せず、四国も風前の灯だ。ニホンオオカミは列島から滅びてしまったが、山犬の一部は人間との協働に向かい、共同体の中で飼われることによって種を存続させている。テディ・ベアやくまのプーさんや童話のなかでの温和そうな姿が人気をはくす一方で、サーカスや動物園で飼育されるのを別にして、彼らが犬と同様に人間に愛玩的な家畜として飼われる姿はなかなか想像しづらい。お互いに一定の距離感はあるが、環境の中でその気配を感じ続けること。その気配に神的なものが宿るのではないだろうか。……

・諏訪大社の信仰体系
『熊神』の第一章「諏訪大社の謎」では、御柱祭で有名な長野にある諏訪大社の諏訪信仰の背景には、熊神の伝承があるのではないかと指摘されている。それは、どういうことか?

以下、先ずは諏訪大社における神話や信仰について記述してみる。

日本全国で二万五千社あるといわれる諏訪神社の本山である諏訪大社の上社(茅野市、諏訪市)にはタケミナカタ(建御名方)、下社(下諏訪町)にはその妃神とされるヤサカトメノ(八坂刀売)がそれぞれ祀られている。タケミナカタは『古事記』のアマテラスによる葦原中国平定の国譲りの箇所でオオクニヌシの御子として登場する。葦原中国(出雲周辺)をタケミカヅチから科野国(信濃)の州羽海(諏訪湖)まで追われ、その地を出ない旨を誓ったとされる。ヤサカノトメは『古事記』や『日本書紀』のような記紀には登場しない。上社がタケミナカタという男神なのに対して下社を女神として一対の夫婦(めおと)の神々としたのだろう。タケミナカタやヤサカノトメの縁起を紐解けば実際には当時の政治体制や豪族の力関係、権力闘争と国による地方の民族平定などを含め、関係項目はかなり複雑だ。図式的に捉えてみると、記紀神話の中でタケミカヅチと力比べをした男神であるタケミナカタは出雲族として諏訪に国造りとしての大規模稲作などの技術をもたらす一方で、また同時に軍神や狩猟の神としての性格を持つ。ヤサカノトメはそれ以降の時代の豊穣をつかさどる農耕神や水神とみられる。これらを併せて諏訪大明神、姫大明神の対とされるのだろう。諏訪湖が真冬時に全面凍結した際に起こる湖面の氷が裂けて盛り上がる〈御神渡(おみわたり)〉の現象は、湖の南東側にある上社方面から北側にありヤサカノトメがいる下社方面に、タケミナカタが会いにいくために渡った跡と伝承されている。

(ちなみに、その名を冠した日本酒「神渡」(豊島屋、岡谷市)があり、大変美味しい。https://jizake.miwatari.jp/ )

神道系の神話世界の系統で、タケミナカタやヤサカノトメが諏訪大社において神格が与えられている一方で、諏訪地方には古来から土着的に崇拝されているミシャグジ(ミシャグチ)という神霊・精霊への信仰がある。ミシャグジ信仰は諏訪大社でも重要な位置を占めている。国譲神話については諸説あり、『古事記』におけるタケミナカタの国譲とは別に室町時代の『諏訪大明神絵詞』(諏訪(小坂)円忠著、1356年)などにも国譲神話が記述されている。大和朝廷の日本統一以前に、タケミナカタ率いる出雲系の稲作民族が諏訪盆地に侵入した際に、洩矢神を長とする先住民族が彼らと争った。結果、洩矢神側は敗北したが、彼ら洩矢族(守矢氏一族)は、タケミナカタ側の諏訪氏が諏訪明神の大祝(おおほおり、生き神)の地位に就くことに対して、神長(神長官)という最も重要な神官の地位に代々就くことになる。生き神である大祝は年若い幼児が就くのに対し、神長が儀式や政治を司どり実権を持ち続けていたといわれる(茅野市神長官守矢資料館編『神長官守矢資料館のしおり』)。守矢氏やここでいわれる先住民が土着的に信仰していたのがミシャグジである。
古代から続くとみられる古層の信仰であるミシャグジの実態は定かではないが、樹木や石・石棒などに降りる神霊・精霊のようなものである。農作物の豊穣や五穀安全などを願う対象であり、「ミシャグチ神が出現するのは、この地帯では水耕栽培がはじまった弥生時代後半から古墳時代の初期にかけてのことだろう、と推測されている」(中沢新一『精霊の王』p.52)とのことだが、女性性を表す石皿など縄文時代の用具や、子を象徴する自然の丸石なども一緒に祀られることもあり、古代における自然崇拝などの原始の宗教心にも近くみえる。ミシャグジ信仰とみられるものは諏訪地方だけでなく、祀る神社や祠は近隣の各県にも数多く存在し、柳田國男なども研究している(『石神問答』)。東京の地名に石神井(シャクジイ)がある通り、ミシャグジをあらわす単語は信仰と共に、諏訪を中心として各地、主に長野・岐阜・静岡・山梨近辺に多く伝わっているという 。サク、シャグ、サグ、ジョグ、サコ、シャゴ、サゴ、ジョゴ、の訛りによる変化もあり、ミシャグジ、ミシャグチ、シャグジ、シクジ、シュクジ、シュゴジ、シュクジノカミ、シュクガミ、シュクジン、シャグンジン、オサングジ、オシャクジ、オシャゴジ、オシャグジ、オシャモツッアン、シャグサン、シャグウサン、などなど言葉は変化するが、同じものをいいあらわしているところが興味深い。漢字のあて字も、御作神、御左口神、石神、社宮司、御社守、赤口、など様々あり、古道沿いの村々などに、遺跡を多く遺しているのだという。現代の通信メディアとはまるで違う伝達速度で、権力から民衆へ、人から人へ、共同体から共同体へ、発音やあて字は変化していきながら、生活の安定や豊穣を願う人々の願いと共に、耳から耳へ伝わっていき、それぞれに土着して、長い時の流れの中で信仰を集め、また密かに消えてもいった。諏訪大社上社における毎年の重要な神事・儀式にも、神長官系の古くからの土着信仰であるミシャグジが大きく関わっているようである。神道系の大明神信仰と、民間信仰であるミシャグジ信仰が集合したところに諏訪における信仰形態がある。

そのような諏訪大社における神道系神話とミシャグジという土地の古層の二重の信仰形態の中で、神事や祭事において諏訪大社の上社が狩猟神的な性格を強く有しているところに、興味を惹かれた。中でも「御頭祭」と呼ばれる毎年4月15日に行われる祭祀では、かつては鹿の生首が用いられていた(今現在は剥製を使用)。鹿を狩ること自体は、農作物や山を荒らすことを防ぐ意味では農耕にも深く関わるものである。しかし、神道や仏教の性格上、生殺与奪や肉食がタブーとして忌避される中で「鹿食免」という鹿食を許す免状が存在するなど、諏訪大社上社では狩猟に対する距離が近い。鹿の首を祭祀にもちいることも、農耕神に犠牲として捧げる要素というより、アイヌの熊送り(イオマンテ)と同じく神送り・魂送り的なものと近しく思えてもくる。

上社背後の守屋山が御神体(神体山)とみられる側面もあり、ミシャグジ信仰を含め、諏訪大社上社は自然神を祀る要素が強い。上社における狩猟神や自然神の系譜と、下社における農耕神の要素を併せ持った諏訪大社の信仰形態は、非常に普段感じる土地の磁場や体感としてもリアリティを感じるのだ。『熊神』においての川村の、諏訪信仰の背後に熊神の伝承がある、という指摘にも惹かれ、彼の地を直接訪れてみようと思った。……


2.諏訪大社上社(前宮、本宮)、神長官守矢資料館を歩く


2024年の10月27日に『熊神』を読み興奮気味にポストしている。早速、11月8日に国道20号をバイクで突っ走って、諏訪大社上社前宮→神長官守矢資料館→諏訪大社上社本宮に向かった。諏訪大社上社には前宮と本宮がある。朝の7時台に家を出発、11月初旬だが道が凍るひどく冷え込んだ朝で、45分くらい走破した時点であまりの寒さであえなくコンビニエンスストアで休憩をした。そこから20分程度、約一時間あまりのドライブで前宮に到着した。


2-1.諏訪大社上社前宮

諏訪大社上社前宮は、本宮の南東2kmにある。盆地の旧鎌倉街道側から山側の傾斜に向かって上るように神社の敷地が広がっている。大社の中でも一番古く、かつては守矢氏の本拠地であったが、神氏(諏訪氏)の進入で大祝体制になった。前述した鹿の頭部を神前に掲げる諏訪大社上社で毎年おこなわれるもっとも大きな祭祀である「御頭祭」は前宮の十間廊と呼ばれる場所で行われる。

「御頭祭」がおこなわれる十間廊
背後の山からの清流が用水に流れる


前宮は現在はヤサカノトメが祭神とされるが、神長官である守矢氏が祭祀権を持つ古来の神であるミシャグジ神が大きな祭祀に関わるなど、この場所は土地の深奥に潜って行くような古格の神秘性を肌で感じられる場所である。諏訪信仰において全国的に有名な御柱が社殿を囲うように立っている。

前宮一之御柱
前宮ニ之御柱
御柱を運ぶ際の擦れ痕が裏側に残っている。
前宮三之御柱


社の裏手には古い巨木が植っている。


山を散歩




帰りに御柱再び
前宮四之御柱


2-2.神長官守矢資料館

今回の「取材」のメインはこの場所である。理由は二つあり、一つは「御頭祭」に関する。もう一つは、資料館の建物自体への興味である。

茅野市神長官守矢資料館

茅野市神長官守矢資料館は、その名の通り諏訪大社上社の神長官を明治初期迄務めた守矢家の敷地にあり、一族の所蔵する古文書等の資料を保存・展示している建物である。先ほど訪れた上社前宮と上社本宮の中間に位置し、背後に緩やかにだが山に連なる入り口となるところが上社前宮・本宮と共通している。入り口の軒部分を、御柱のように柱が宙に突き抜ける姿が特徴的だ。竣工・開館は平成3年(1991年)3月、設計者は藤森照信氏である。藤森氏の解説曰くこの柱は、

「軒が寂しいので四本柱を立てようとして、偶然鉛筆が走って軒を突き抜けた。木は諏訪地方で「ミネゾウ」、一般的には「イチイ」と言われる。木は高部の集落を歩いて得たもの。」

(茅野市神長官守矢資料館リーフレット、より)

だという。〈イチイ〉は神官が持つ笏(シャク、聖徳太子が持っている絵が有名)の素材でもあるため〈イチイ〉=一位の名ともいわれる。寒冷地や深山にも生育することから、熊の木彫りにも使用されているそうで、それらは今では数も少なく貴重品らしい。また、弓の木材にも使用されていて、アイヌ語では〈イチイ〉は〈クネニ〉と呼ばれる。〈ク〉=弓、〈ニ〉=木、で「弓の木」の意である(「アイヌ語自然講座 クネニ(いちい)」公益財団法人 アイヌ民族文化財団 HP https://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/language/movie/details/post_27.html より)。ちなみに、アイヌ語で熊は〈カムイ〉(「神」の意)や〈キムンカムイ〉(キム「山」ン「にいる」カムイ「神」の意)と呼ばれる( 「アイヌと自然 デジタル図鑑」アイヌ民族博物館 HP  https://ainugo.nam.go.jp/siror/dictionary/detail_sp.php?page=book&book_id=A0277 )。イオマンテにおいて熊が生贄なのではなく神送り・魂送りなのはこの言葉からもわかる。
上記の私の撮った写真では一つしか確認できないが、〈イチイ〉の柱の軒上に突き抜けた部分に「薙鎌」という鳥の形のような金属(諏訪大社上社の祭器)が打ち付けられている。「薙鎌」は諏訪の神事における御神体といわれ、御柱祭にも上社の決定した御柱に打ち、御神木になったことを示すという。また、諏訪大明神の縁起を絵巻に記した『諏訪大明神絵詞』(著者の小坂円忠は、大祝である神氏の庶家小坂氏の出身。絵巻きの原本は後世に失われたが、1472年に写された物が守矢資料館に収蔵されてもいる。)によれば魔をおさえる力のある剣でもある。

建物の外観は、板とワラ・モルタル・土の塗壁で見た目は自然素材であるが、構造は鉄筋コンクリート(一部木造)。取り付けられた外壁の割り板は〈サワラ〉で、茅野市最後の板割り職人(故人)の仕事だという。屋根も特徴的で大き目なスレートが敷き詰めてある。素材は上諏訪産の鉄平石(安山岩)、宮城県雄勝産とフランス産の天然スレートで、重厚さと自然を感じる造りである。
「偶然鉛筆が走って軒を突き抜けた」と藤森氏が述べる〈ミネゾウ(イチイ)〉の柱が軒を貫く様子は、木々を古から神聖視する諏訪大社の御柱や諏訪の土地のミシャグジ信仰との共通する磁場を強く感じる。
写真で一度見た時から、実際に訪れ体感してみたかった建物である。

続けて資料館の中に入る。
塗り壁が土蔵や穴蔵のような印象を抱かせる。
入ってすぐのスペースでは「御頭祭」における神前の飾り付けが再現されている。元になったのは、江戸時代の紀行作家・菅江真澄が1784年に「御頭祭」をスケッチしたもの(「すわの海」)であり、当時の復元である。
鹿の生首や兎の串刺し、鹿の脳和(のうあえ)や焼き皮など、なかなか文字通りに生々しい(以下、写真あり)。念の為に先に申しておけば、現代的な価値観から当時の祭祀をあたかもショッキングだという眼差し・物差しで見ている訳ではない。「御頭祭」は全体的には五穀豊穣を祈る農耕祭祀的な側面も強いが、前宮の十間廊で行われる際の神前の儀式にはそれ以前の狩猟神的な性格も展示から感じられる。

茅野市神長官守矢資料館の館内。
鹿と猪の剥製。往古には75頭もの鹿の首が「御頭祭」に捧げられたという。
(館内展示撮影、SNS掲載許可済み、無断転載禁止、以下同)
焼皮の復元
兎の串刺しの復元

重藤弓と鹿鏑矢の復元
これら弓と矢は呪術や神事に使われた。
復元の元となった菅江真澄のスケッチ(「すわの海」)
『神長官守矢資料館のしおり』(編集、刊行、茅野市神長官守矢資料館)より
耳裂鹿の復元
耳裂鹿

「耳裂鹿」の耳が片方V字に裂けているのは、寄進され神前に奉じる75頭もの首の中に必ず一頭、神の矛先がかかったものがある、といういい伝えからである。なお、ごく現実的な見方をすれば、耳が裂けているのはオス同士の縄張り争いか、険しい山を行き来する際についた傷だろう。現在の祭祀では鹿肉の奉納はあるが、頭部は剥製が用いられているという。ちなみに鹿の頭が捧げられるので「御頭祭」なのではなく、「御頭」とは神事に奉仕する「当番」の意だという(from八ヶ岳原人「御頭祭(酉の祭) 4月15日(Ver '19.3.28)」https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/ontou.htm)。


【補考】『もののけ姫』におけるシシ神は耳裂鹿なのか?

〈補考−1〉シシ神は耳裂鹿なのか?

この鹿の首を見て多くの人が想起するのは宮崎駿監督『もののけ姫』(1997)のラストだろう。サンとアシタカがドロドロな液体に塗れながらシシ神の生首をデイダラボッチに返すシーン。諏訪にほど近い土地の人々は、恐らく観て直ぐにピンときた筈である。『熊神』で「御頭祭」の存在を知って、これはシシ神のモチーフだろうな、と思い、取材というか現地に今日確認しに来た訳である。シシ神の姿形は普段は鹿ともカモシカともみえる体格に、マントヒヒのような顔をしている。エボシ御前の石火矢のよってその首を撥ねられると、鹿のような顔貌に戻る。
ちなみに宮崎監督自身は影響関係には言及はしていないが、1998年に中村良夫氏との対談(「人・町・国土が元気になるために 中村良夫氏との対談」『明日へのJCCA』社団法人建設コンサルタント協会、一九九八年十月号、『折り返し 1997〜2008』所収)の中で、藤森照信氏と神長官守矢資料館に言及しているので、「御頭祭」の鹿の首を捧げる祭祀については既知であろう。

シシ神の首をデイダラボッチに返すサンとアシタカ。
シシ神の森では人面的だった顔が鹿顔に戻り、右耳が僅かだが裂けている。
(宮崎駿『もののけ姫』より) ©スタジオジブリ
頭部に生えた、木(植物の繁茂)を髣髴とさせる壮麗な角が縮小している。
左耳も右耳同様に少し裂けている。
(宮崎駿『もののけ姫』より) ©スタジオジブリ



『ビンダー』という同人誌の8号(2023年11月発行)の中の論考「宮﨑駿の中央線」において『もののけ姫』と長野の土地の繋がりの話をした。

作中で明確なのは、アシタカはエミシ(蝦夷)の一族の末裔(「主人公の少年は、大和政権に亡ぼされ古代に姿を消したエミシの末裔」(「「もののけ姫」企画書」、宮崎駿『出発点 1976〜1996』徳間書店所収)なので今でいう東北地方から出立した、ということである。作中では「東と北の間、それ以上はいえない」とアシタカのセリフにあり、明確な位置は不明であるが、海を渡る描写はないのでエゾ(蝦夷、北海道)ではない。
では、一方でアシタカが行き着いた、舞台の中心となるタタラ場やシシ神の森付近は、列島のどこに位置するのか? これは作中では明確に示されてはいない。タタラ場が巨大な製鉄所であることから、製鉄伝播発祥地とされる吉備や大規模製鉄の中心地として有名な出雲説も考えられるが、東北から向かうにはやや遠方過ぎるきらいはある。当時宮崎が強く影響を公言していた中尾佐助『照葉樹林文化論』を鑑みれば、照葉樹林が多く存在する列島の西側を舞台にしていると考えることは妥当ではある。しかし、かつての王権の所在地や時の権力(京都の天朝)に近い場所に、大胆ではあるが合理や知を重んじるエボシ御前が拠点となる共同体と、巨大な利権である製鉄所を造るとは考えられない。
美術設定のロケハンでは白神山地や屋久島などを訪れ実作の参考にしている。勿論、創作物(フィクション)なので、列島における決まった場所の歴史ドキュメントとしてこのアニメーション映画が制作された訳ではない。あくまで想像上のモチーフとしてである。

作中の手がかりを探ればまず、「乙事」「烏帽子」「甲六」などの登場人物の名が、長野県の諏訪郡富士見町の地名や川の名前からとられている。またアシタカが進んでいく山の風景(背景画)もこの周辺の高山の雰囲気をまとっている。
諏訪周辺の歴史をひもといてみると、第二次大戦前後に、茅野駅から諏訪鉄山鉄道が設置されていた。今現在は鉄山鉄道はなく、ビーナスラインと呼ばれる絶景で有名な幹線道路の一部となっている。武田信玄も鉄を求めて鉄山を採掘したらしく、八ヶ岳西麓や蓼科山南麓付近では鉱石が出た(ジャパンツーリズム「街道の歴史を巡る旅【ビーナスライン】(信州)」 https://zipangu-tourism.com/posts/uzAI_ZVr )。「御頭祭」が行われる諏訪大社上社前宮があるのが茅野市なので、鉱石の採掘場はほど近い場所である。
また、八ヶ岳西麓や蓼科山周辺において、タタラ場がこんもりとした島に建っているような湖を考えると、それは蓼科湖か白樺湖である(諏訪湖だと推測もされるがいささか面積が大きすぎる)。これらの湖はビーナスラインにも程近く雰囲気も似てはいるが、実は湖と名付けられているが双方ともに19世紀に入ってから作られた人造湖(農業用溜め池)である。ここで視点を変えてみる。エボシ御前こそが、外敵から製鉄所を守るために自らの手で、人口の湖(=ダム湖)を作り、アシタカが「まるで城だな」と言う通りに、「山を削り木を切」り、「もののけから切り取った」その中の島(城)に立て籠っているのだ、と。

当時の日本の灌漑や治水や土木技術がどのレベルだったかまではわからないが、エボシ御前ならその位はやりそうである。山中のダム湖に浮かぶタタラ場は共同体を包摂する一つの町だ。網野善彦によれば「町場の出来る場所は人間と神の世界の境界にあたっているから、それなりに聖地という性格を持っていた。タタラ場もその一つ」(「『もののけ姫』と中世の魅力 網野善彦氏との対談」、『折り返し点 1997〜2008』、所収)ということである。人間と神性の境界に、その場はあると考えてもよい筈だ。

では、自然が作る無垢の聖地のように描かれたシシ神の森はどこなのか?八ヶ岳西麓や蓼科山南麓の近隣として素朴に考えるなら、茅野市の御射鹿池(ミシャカイケ)だろう。東山魁夷の「緑響く」でも有名な、山の中にある深山幽谷の名が相応しい神秘的な姿をした池である。御射鹿池も「鹿」という字も入っている。また、ミシャグジ同様〈ミシャ〉の字の響きも入っている。ちなみに、この池も1933年に作られた農業用の溜め池である。

御射鹿池
山中に突如あらわれる美しい池であるが、実は渋川から引いた農業用の灌漑用水の溜池である。高地の冷たい水を一旦溜めることによって温度を上げ、また元来強酸性の水質に湧水で加水し農業用としている。
美しい水路が山からの水を池へ運ぶ

御射鹿池からやや下った茅野市の笹原にその名もずばりな鹿狩神社がある。笹原はかつて御射鹿という地名が付けられており江戸時代まで藩の御留野だった。この場所は諏訪大社上社の「御頭祭」に献上する鹿を狩った場所であった。後の世にこの御留野は開放され1645年に新田に開発され今に至る。標高が高く寒冷な山地に、元来熱帯が産地の米を植えた労苦も偲ばれる。1658年頃に笹山野命を産土神に、鹿狩山大明神として山の中の神社に祭祀。1667年に現在の場所に遷座。1916年に建御名方命(タケミナカタノミコト)が祭神に加えられ合祀された。

現在の鹿狩神社近辺の田園風景。
御射鹿池より少し下った、蓼科山と八ヶ岳山麓に囲われた地点。
鹿狩り用の御留野を江戸期に新田開発した。
鹿狩神社
鹿狩社一之御柱
鹿狩社二之御柱
鹿狩神社から霧ケ峰高原を望む

池の名前から毎年8月に行われる諏訪大社の大祭である「御射山祭(ミサヤママツリ)」も想起させられる。「御射山祭」は諏訪大社下社の狩立神事=狩猟神事であり、かつては旧御射山(現在の霧ヶ峰八島ヶ原湿原付近)にあった山宮(旧御射山の本宮)に氏子や神長官などの祭祀関係者が数日間に渡り詣で実際に競技として狩猟がおこなわれたという。鹿を射止めた者には褒賞が出た。まさに射鹿である。旧御射山は場所もビーナスライン沿いである。現在御射山社は諏訪大社下社の北東5kmの山の中(と茅野市の二カ所)に場所は移されていて、こちらにも神秘的な池がある。放生池と呼ばれるこの神池では現代でも二歳の厄除けとしてドジョウを放流する祭祀が行われている。『となりのトトロ』でメイが迷子になった際に捜索された溜め池も神池という名前がつけられていた。

ミシャグチ神の祀られている場所は、「湛」と呼ばれていた。タタエやタツなどのことばは、霊威あるものが「示現」することを表現しているが、ここでは石棒を祀った小さな祠のそばには、たいがい檀や檜松や桜の巨木が生えていたり、巨岩が覆い被さっていたり、深い淵があったりした。そういう場所が水と関わりのある「湛」と呼ばれたのには、なにかの意味があるのだろう。御柱とは反対に、この湛の植物は大地深く根を下ろしているものとの観念があった。

中沢新一『精霊の王』p.61
水を湛えるシシ神の森(宮崎駿『もののけ姫』より) ©︎スタジオジブリ

深山幽谷の中に佇む巨木が何本もそびえ立つシシ神の森も、神聖なる水を有する「湛」だろう。また「折口信夫は、「向ひの山に月たたり見ゆ」という万葉集の例をあげて、たたりの言葉に〈出現〉の意味があったことを述べている」という(古部族研究会『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』人間社、p75)。乙事主率いる鎮西の猪たちが唐傘集に待ち伏せされ攻撃されるのは、位置的には霧ヶ峰高原の頂上付近がイメージされる。霧ヶ峰といえば、物語冒頭の出立の場面でアシタカが許嫁から渡される玉(ぎょく)の刀の素材である黒曜石は、エミシの村では貴重品であり、日本列島においては霧ヶ峰の星糞峠が縄文以来の一大産地である。一方で、「タタラ(場)」や「タタリ(神)」など〈タタ〉の字に当てはめるのならば、〈タタラ〉⇔〈タタエ=湛〉だ。製鉄には火を起こすことと同時に大量の水の流れが必要であり、「湛=湛え」とはその意である。かつては山中の人界未到の森こそが聖山からの水を「湛」える場所だった。そしてその水の「湛」は、木々や山を切り拓き人工的なダム湖を造成し製鉄を営む彼らの生命線でもある。反対にタタリ神からは憎悪や呪いが身体中からドロドロと溢れ出し、首を取られたシシ神からは生命を奪いも与えもする液体が溢れ出す両義性がそこにはある。ちなみに〈タタラ〉と〈トトロ〉の発音は、タ行・ラ行の最初と最後の音という意味で、無意識の命名だろうが非常に似ている。

八ヶ岳山麓から諏訪にかけては縄文遺跡の宝庫ともいえ、縄文・石器・狩猟文化が色濃い蝦夷の一族の物語の場としては最適だろう。宮崎自身も2002年に富士見町で行った講演の中でこの地の縄文文化や遺跡について熱心に語っている(「富士見高原はおもしろい 藤内遺跡出土品重要文化財指定記念展「甦る高原の縄文王国」講演、宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』岩波書店、所収)。また、講演の冒頭では、諏訪の在野の考古学者である藤森栄一について言及し、亡くなった際に自ら墓参りに行ったことも語っていた。「藤森栄一は縄文文化の頂点をつくりだした中期の文化の分布圏が、そのあとに続くミシャグチ文化の分布圏とほぼ重なり合っていることに注目していた。縄文の人々の思考と古墳時代以降におもてだった形をなすにいたったミシャグチの思考との間には、たしかな連続性があるにちがいないとにらんでいた」(『精霊の王』p.294)と中沢も指摘している。
『もののけ姫』作中に登場するコダマたちは木霊・木魂、木に降りる精霊だろう。そこには諏訪の古層の神、自然神・精霊神であるミシャグチを重ねてもよいだろう。また、犬神であるモロに育てられたサン(狩猟、顔の刺青)やエミシの末裔であるアシタカには、縄文の狩猟採集文化や古層の自然信仰が重ねられているともいえるのではないか。

連想を書き連ねてきた。しかし、徳川埋蔵金や邪馬台国の所在を探るのと同じく、決定的な証拠でもない限り『もののけ姫』の舞台は何処だ? といっても予測や想像にしか過ぎないのもまた確かだ。昨今のアニメにおける聖地巡礼の舞台のように制作側が意図的に示さない限りはフィクションと現実は完全には対応しないだろう。
宮崎自身もベルリン映画祭での外国人記者の「『もののけ姫』はどの部分がフィクションで、どの部分が現実にあった話なんでしょうか?」という質問に「十五世紀に日本人の自然観がものすごく変わったというのは本当です。でもあとはほとんどフィクションですね。ただ鉄は作っていました。山の中で山を削り、木を切って炭を焼いて、鉄がいっぱい作られた時期なんです。でもあんなに大きな工場はなかったですし、鉄を作る現場で女たちが働いていこともなかったはずです。そういうフィクションとフィクションじゃない部分をごちゃごちゃに混ぜて作って、お客をだますのがこの仕事の醍醐味です。」(『折り返し点 1997〜2008』)と答えている。また、同書所収の梅原猛・網野善彦・髙坂制立との対談では梅原に「日本の特定の場所を想定したんですか。」と訊ねられ「いいえ。それをやると、いろいろボロが出るから。」「一応中国地方のどこかなんですけど、実際はありませんよ。九州だと、海を渡らなきゃいけませんから、海を渡らない範囲で行ける場所ということで。」と濁し気味に答えている。中国地方はおそらく列島における製鉄発祥伝播の地とされる吉備地方のことを指しているだろう。確かに宮崎が当時盛んに称揚していた中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店、1966年)における「照葉樹林文化」に照らし合わせるなら、列島の西側がその範囲にあたり、諏訪周辺の信州はブナ林文化圏である(もっとも、うっそうとした照葉樹林ではなく、ブナ林文化圏ではドングリやクリなどの木の実を採集食用に出来たので狩猟採集を主とする縄文文化も栄えた)。参照にはしているがしかし、あくまでさまざまな要素を参照にしたフィクションである、と明確な舞台設定は否定しているのだ。上記の数々も牽強付会の根拠なき聖地指定のツーリングガイドに過ぎない。……

しかし、本当にそうなのだろうか?

何か腑に落ちない部分がある。例えば、上記で引用した『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』という本がある。1974年に主に諏訪方面の歴史・民族・宗教に関心をよせ研究をしていた古部族研究会(田中基、北村皆雄、野本三吉)のメンバーが、時代の波の中でもはや忘れ去られようとしていたミシャグジの復興ともいえる研究をした茅野の在野の郷土史研究者である今井野菊を訪ね、一週間の教えを受けた後に、その内容をうけて1975年に永井出版企画から発表された本である。ミシャグジの本格的な研究書として示唆に富んだ一冊である(2017年に人間社から文庫で復刊している。以下、その版に拠る)。その中で、藤森栄一のミシャグジに言及した文章を引きながら「藤森さんが、銅鐸、鉄鐸の延長上に追い求めようとしたのは、このミシャグジ神の解明だったのである。(中略)藤森さんの残されたノート(覚え書き)を見せていただいたが、このミシャグジ神について、なみなみならぬ意欲を示していることがハッキリ伝わってくるのである。」(同p.19〜p.20)「自分でも気づかずにいた隠された歴史の立像、それを血の通ったものとして現代に復元しようというのが、藤森さんの考古学であった。権力を握り、歴史の上層部に位置した人々によって形作られた歴史とは異なり、見捨てられ、忘れられていった庶民の生き生きとした歴史を藤森さんはとり戻そうとしているのだ。」(同p.14)と野本は述べている。

藤森(の研究)に同様になみなみならぬ興味を持つ宮崎がミシャグジ神に関心を寄せていたことを知らぬ訳はないだろう。この網野善彦の歴史観とも重なる藤森の思考に『もののけ姫』で描くタタラ場や山の民の多様ともいえる民衆の描き方などで同期していた、ともみられるのではないのか。
また、古事記のタケミナカタの神話にみられるように、出雲系民族と闘ったとみられる土着の古諏訪の民族は「多くの洩矢族は、千鹿頭神という祭神を中心に、いわばミシャグチ神信仰の本質をもって東北奥地へと逃げのびた」(同p.29)とあり、野本の「ぼくの考えでは、出雲系民族に追われて諏訪を離れた狩猟民の末裔は、マタギ、山窩なったのではないかと思うのだが」(同p.48)との見解が記されている。古事記にある通り出雲系民族が諏訪に侵入し土着の民族を制定したが、現人神である大祝体制の地位は神(みわ)氏に渡すも祭祀を司る神長官の地位は諏訪の狩猟神系の国津神・洩矢神を祖とする洩矢(守矢氏)の一族が引き継いだ。ミシャグジ信仰は諏訪に後の世にも伝え生き延びていくが、その際に一部の民はこの地を追われた……。

ここで出現する千鹿頭神という言葉の中には鹿の頭という語が入っていることに興味を惹かれる。千鹿頭神については古部族研究会『諏訪信仰の発生と展開』(人間社)に所収されている野本の論考「千鹿頭神へのアプローチ」に詳しい。元来土着の狩猟神・洩矢神の一族が人格神である建御名方名(タケミナカタ)の侵入によって戦いに敗れ徐々に新興勢力に融合され、洩矢氏族系は神長官として一族の系譜と神事を残し続けた。一族の七十七代の系譜の口伝を文字化した「実久系譜」によれば、洩矢民族の系譜の洩矢神から数えて三代目が同じく狩猟神である千鹿頭神であり、四代目の児玉彦命からは建御名方系譜との融合がみられる。「この系譜上から言えば、洩矢神の直系といえる千鹿頭神は、后神に宇良古比売をめとって、筑摩郡の宇良古山に移ったと書かれている」(同p.336)。この段階から、洩矢族の系譜の中でも千鹿頭神系の山岳民族の系譜は、各地の山沿いに住まうようになっていく。
千鹿頭神は千鹿頭神社に祀られていて、その範囲は長野だけでなく群馬(赤城山)、栃木(日光、宇都宮)、埼玉、千葉、などにもみられ、山々を渡り、北は福島まで「山岳地帯沿いの移動史が予想でき(…)狩猟採取生活を軸とした「山人」的イメージとしても結晶してくる」(同p.344)という。そのような国津神系の土着した山人系民族は天津神系の農耕民族(大和民族)と対立するが、「サンカ」や「マタギ」として山で生き、そこには「アイヌ」などの北の民族との文化や共同体の接続や、もしくは軋轢(蝦夷平定に軍を出した坂上田村麻呂の諏訪大明神信仰をみよ)も考えられるかもしれない。
ちなみに天朝とエボシ御前とシシ神の森の間で暗躍するジコ坊は山伏であり、彼もまたアシタカと同様に山の民である。彼は圧倒的なその場その場に対応した知性と謀略を駆使できるが、あくまでその振る舞いは中央に対するオルタナティブとして機能し、自らに近しい山の民を闇の軍勢として組織もしている。だから、峻厳な山の中で、アシタカと共にシシ神の首を最後まで競うように求めることができるのだ。
また、同書の中のインタビュー(聞き取り)の中で、山岳民族として薬(諏訪薬)の扱いにも秀でた千鹿頭神系民族に、東北方面からも姫が薬を貰いにきたという話題に対し「皆さんどう思います。洩矢神勢力ってものは、どこから上陸してきたかしらね。北に縁があるのよ。だって、千鹿頭神も北に行くでしょう。(…)あっちに勢力があったんですね。」と今井によって指摘されている。
一方諏訪では、山岳狩猟民族、出雲系民族、大和の民族、流入する部族間による文化や政治体制の習合の元に現人神・大祝と、それを祭祀の側から司る洩矢氏系の神長官によるミシャグジ信仰の二重体制の権力構造の元で共同体の歴史が形成されていく。仮定ではあるが、この構図をそのまま『もののけ姫』に当てはめてみれば、かつての古い土着の民の一部が戦いによって故郷を追われ、東北奥地に流れ住み、長い年月の末に、その一族の末裔が、再びに一族の故郷の古層に帰っていく物語……それこそがアシタカなのではないか? と思わず想像してしまう。

ミシャグジ神について、藤森はこう書いている。

多くは、一小聚落、つまり村々の神で、村の台地の上や谷口などにあり、はじめは社殿をもたず、巨木、巨岩、尖った石、立石、樟などに降りてくるナイーブな自然神であったようである。

藤森栄一『諏訪大社』中央公論美術出版、より(『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』p.30より重引)

アシタカの住む聚落(集落)の祭礼場は社の中ではあるが、剝き出しの巨石(岩壁)信仰であった。

絵コンテをみるとカット104でエミシの村の御神体である巨岩が描かれ「社の中 正面のカベは、岩そのものが突出している(岩壁全体が神体) その前に小さな机と左右の灯 布をひろげヒイサマが占いをしている」と但し書きがある。(宮崎駿『スタジオジブリ絵コンテ全集11 もののけ姫』徳間書店、p51)

アシタカの村落共同体では巨石が信仰の対象とされ、おそらくこの巨岩に祈祷者であるヒイサマが降ろした精霊が宿るものと思われる。祭祀を司る長が女性であるところからも、この信仰が古層のものであることがわかる。また、アシタカがシシ神の森周辺で出現する精霊=コダマを知っているのは、自らの生活圏でもそれがまだ見いだせるからであろう。
彼の(共同体の)中にはミシャグジ信仰と同じように自然神の存在が脈々と宿り続けているのだ。ちなみに諏訪大社神社本宮も本殿がなく、また敷地内に硯石という大明神が降りるといわれる自然の巨石が祀られていて、背後に聳えるの守屋山自体が御神体であろう。そして、「諏訪神社上社本宮よりさらに古い前宮にも、石の御座〈御霊位磐〉があった」(同p.72)。

宮崎が『もののけ姫』の当初のタイトルを『アシタカせっ記』(「せっ」の部分は、旧字体の草冠「艸」の下に「耳」の字をふたつ連ねた宮崎による創作漢字)であり、草の陰で耳から耳へと伝わる物語の意味だという。まさに伝承という意味で、諏訪から日本各地へ、そして彼の地で連綿と続いてきたミシャグジ信仰のようなものだ。それは長い歴史の中で埋もれていきそうであったが、藤森や今井などの文字通り地道な研究により後世にもその存在は伝わっていく。
ここまで来ればもうお分かりだろう。天朝側の勢力が、執拗なまでにシシ神を狙うのは、物語内で語られるようにその首を得た人間の「永遠の命の元」だからでは決してないのだ。それは、もののけ退治という御題目“だけ”ではなく、シシ神の森の存在する山やその周辺に住まう土着の山岳民族、そして彼らの自然信仰そのものを標的とした攻撃なのである。その意味でも、タタラ場の新興共同体を実行的な経済・政治権力の場と考えるエボシ御前が、(国家体制である)天朝側と手を組み、その首を、その土着の動物神の自然信仰を、狙うのは当然である。それは天朝側とエボシ御前のお互いの国家体制や共同体における権力の実勢拡大のための一つの手段なのだ。

主人公の少年、大和政権に亡ぼされ古代に姿を消したエミシの末裔であり、少女は類似を探すなら縄文期のある種の土偶に似ていなくもない。

宮崎駿「荒ぶる神々と人間の戦いーーこの映画のねらい」より(宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』所収)

アシタカは奇しくもその闘いの土壌に列島の東北奥地から再びに運命の如くその血が返り咲いたともいえる。
結果、シシ神の首は落とされてしまい、天朝側、タタラ場、シシ神の森、の三すくみの文字通りの勢力地図は劇的に変化する。しかし、アシタカはこの地に残り、タタラ場と(シシ神の)森を行き来するとサンに誓う。諏訪の地にミシャグジ信仰が現代まで連綿と伝わっていったように、ラストカットのコダマたちは、彼らの生きる地にきっとまた現れる(そしてそれは時代を経て『トトロ』の中で描かれる世界観へと繋がっていく)。かつてアシタカ自身がそうであったように、それが耳から耳に草陰を伝う物語(信仰)であれば、モデルの地などわざわざ宮崎は明言したりはしないのだ。

宮崎が『もののけ姫』制作中の1996年に、高畑勲は男鹿和雄についての文章、「男鹿さんの描く自然」(高畑勲『映画を作りながら考えたこと Ⅱ』徳間書店、所収)を発表している。その中で、「照葉樹林帯に日本文化のルーツをもとめたりしていても、わたしたちは夏冬変わりなく鬱蒼と暗くじめじめしてヒルのいるカシやシイやタブの森に入るより、祖先がひらいた後のコナラやクヌギの明るい里山の二次林を好みます。また、同じ照葉樹でも、カシやシイはぼさぼさとほこりっぽく、どちらかといえば新緑が美しくたたずまいの立派なクスノキに惹かれます。」と『もののけ姫』とそこで描かれた当時の宮崎が描く自然観を批判するような文章がある。その文章の前半部で、『となりのトトロ』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』の中で男鹿が背景美術として描いた農村の「自然」の描写を称揚する記述があるので、それとの対比的な意味も込められているのだろう。
これは宮崎の『もののけ姫』の制作当時の状況からして名指しの批判であり一考に値する。
高畑は1991年に『おもひでぽろぽろ』を発表し、農本主義的な農村回帰の結末で、いわゆる今日議論されるような「里山文化」「里山資本主義」的価値観の基礎を、また1994年に『平成狸合戦』の中で戦後の東京近郊において住処となる山の環境の開発=破壊とそれでも生きている狸たちを描いた。それに対し、『もののけ姫』で描かれる深い照葉樹の鬱蒼とした森を念頭に『もののけ姫』の世界観や動植物と人間たちの葛藤をこの時代に宮崎が描くことは、近代合理主義者・啓蒙的知識人としての側面も強い高畑にとってみれば、思想的にも受容し難い面があったのかもしれない。
列島の支配的権力の価値観と、民衆含む村落共同体の発展の歴史観を正確に捉えれば、確かに高畑の『もののけ姫』批判や、彼の歴史認識、『おもひでぽろぽろ』や『平成狸合戦』などの作品での表現は、ドキュメントとしての記述の正確さを欠いているとはいえないだろう。上記で取り上げた諏訪の古層の信仰も、それを降ろす石棒に対する縄文的な信仰の面以上に、農村の平定や作物の収量、土地の安定への願いを込めた稲作農村共同体における国家規模での農業神崇拝の側面は強い。しかし、同じスタジオ制作である『おもひでぽろぽろ』や『平成狸合戦』で描かれた歴史観や自然観の表現に対し、『もののけ姫』は、またそれとは異なる、相互に作品同士が反射しあうような、弁証法的ともいえる激しい葛藤や闘争を内に抱えていた筈である。また、それらを新たに乗り越えていくような価値観を見出そうともがきながら制作された面もあった違いない。『もののけ姫』という作品から敏感にそれを察知した高畑は、わざわざ釘を刺すような批判をしなければならなかったといえるのではないか?


〈補考−2〉信州の民話と『もののけ姫』
上記に確認してきたように、諏訪周辺の土地や狩猟採集文化・縄文文化の影響、またミシャグジ等の自然神や古層の信仰が『もののけ姫』にも少なからず影響を与えていることや(モデルはないと宮崎がいう通り、それらはあくまで作品の一側面ではあるが)、またそこに高畑の1990年代の諸作への作品同士の批判的な葛藤があることを確認してきた。言い方を変えれば、双方には表面的な表現だけではなく、深い部分での通底する呼応関係がある。このような高畑⇔宮崎の構図は、NHKで2024年5月6日に放送されたドキュメンタリー「特別編 宮﨑駿と青サギと...『君たちはどう生きるか』」にもみられるひとつのオーソドックスともいえる〈ジブリ史観〉ともいえるが(ちなみにこのドキュメンタリーの中でも、信州の土地を散歩しながら亡くなった高畑に思いを寄せる宮崎の姿が写されている)、以下においては、更に諏訪や信州周辺と『もののけ姫』の関係について、信州の民話についてひもときながら、もう少しだけ両者の関係にこだわってみたい。

『もののけ姫』の初期の原作ともいえるイメージボードは1980年にすでに書き下ろされ、映画の公開(1997年)より以前の1993年に出版されている。

『もののけ姫』初期のイメージボード集の表紙絵
(宮崎駿『もののけ姫』徳間書店、1993、より)

表紙絵で一目瞭然のように、1980年のイメージボード集の内容と実際に完成し1997年に公開されたアニメーション版『もののけ姫』はだいぶ趣きが異なる。あとがきには「イメージボードとは、アニメーション映画の準備段階で大雑把な方向や雰囲気を決めるために描くものですが、この作品の場合は、企画として映画会社やTV局に売り込むのが目的だったので、物語の流れを重視して描いてあります。」と語っている。
物語を簡単にまとめると、とある敗残兵(武士)が山奥で大山猫と取引の末に娘を嫁にやると約束し、その結果山猫と生活することとなった三女の末の「姫」が、最終的にこの「もののけ」とともに悪霊に取り憑かれた父親の暴政を鎮圧し、結果二人で山へ帰っていく、という話である。物語としては、神話や昔話や民話でみられる異種婚姻譚である。姫が獣の嫁になるという点では貴種流離譚だろう。
大山猫のモチーフは東北の民話や伝承に根差した作家である宮沢賢治の『どんぐりと山猫』そのままともいえ影響がうかがえる。ちなみに、『となりのトトロ』(1988年)のイメージボードも1970年代後半にはすでに描かれているので、(どんぐりが大好きな)トトロも大山猫的な存在と見立てれば、1980年頃には『トトロ』と『もののけ姫』の初期イメージ(以下、初期『もののけ』)では、物語のモチーフや発想元が重なっていたとみられる。ちなみに「柳田國男は、松や柳の木について、その枝ぶりが神の降りる梯子のイメージにかなっていたのではないか、と述べたことがある。古代人を想像して、神の降りるのにふさわしい木、ふさわしくない木があったのだろう。神社の神木として、天にそびえたつケヤキの大木をよくみかけるが、この木などはふさわしいものの一つであっただろう。ケヤキの古名を〈ツキ〉というのは、もしかしたら〈憑き〉の意味からきているのではないかと私は想像している。」(『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』p.75)といわれるように、巨樹のウロに住まうトトロは大木に〈降りた〉精霊という意味でミシャグジとも近しい。
初期『もののけ』イメージボードは、三の姫(=後の「サン」はここからであろう)が最終的には大山猫と山に帰っていく結末であり、親に見捨てられた子の話としては共通するが、物語自体も民話にアクション要素を付け加えたものであり、アニメーションの『もののけ姫』とはだいぶ趣きが異なる。

民話について述べれば、1950年代に瀬川拓男と松谷みよ子(の夫妻)が長野県における民話伝承を採訪・研究し1957年に編集した『信濃の民話』では、信州に伝わる「でいだらぼっち」「でいだらぼう」(=『もののけ姫』ではシシ神が夜に変化する「デイダラボッチ」)の話が出てくる。彼らは信濃の民話を元に、絵本や人形劇を表現している。宮崎は高畑勲の亡くなった際に三鷹の森ジブリ美術館で行われたお別れ会(2018年5月15日)では、追悼文の中で瀬川の名に言及している。印象深い話なので引用してみる。

1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。その初めて言葉を交わした日のことを、今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを、一人の青年が近づいてきた。「瀬川拓男さんのところに行くそうですね」穏やかで賢そうな青年の顔が目の前にあった。それが高畑勲ことパクさんに出会った瞬間だった。55年前のことなのに、なんてはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を、今もありありと思い出せる。瀬川拓男氏は、人形劇団太郎座の主催者で、職場での公演を依頼する役目を、僕は負わされていたのだった。

宮崎駿「開会の辞」(宮崎駿、盟友・高畑勲さんに涙の言葉<開会の辞 全文>、より https://www.cinematoday.jp/news/N0100819 )

ほとんど『トトロ』でお父さんをバス停で待つサツキがトトロと出会う場面なのは置いておいて、大学時代に児童文学の研究会に所属し、宮沢賢治等に影響を受けた宮崎は、おそらく瀬川や松谷の活動にも時代的な同期性と、また表現や思想の面でもシンパシーがあると思われる。瀬川や松谷と宮崎や高畑勲やスタジオジブリとの思想面含めた影響関係に言及しようとすればかなりの文量になるので別の機会に譲りたいが(ちなみに長野出身の新海誠監督作『すずめの戸締まり』の「椅子の擬人化」は松谷作の童話『ふたりのイーダ』へのオマージュ・翻案である)、後にアニメーションとなる『トトロ』や『もののけ姫』の源流には、宮沢賢治の表現とともに松谷と瀬川の信濃の民話へのアプローチも流れ込んでいると考えられるのではないだろうか。松谷は長野の上田に伝わる『小泉小太郎』や安曇野の『泉小太郎』、また日本各地の民話を題材に、児童小説としての再話・創作民話である『龍の子太郎』(1960年)を書いた。初期『もののけ』にも同様に民話的題材を再構成してアニメーションを作ろうという意思を感じる。『トトロ』や『もののけ姫』はアニメーションとして作られる段階で、日本の、もう少しいえば信州の、昔話や民話を取り込んでいく過程があったのではないだろうか。
1965年には、松谷の『龍の子太郎』を原作として、当時宮崎も所属していた東映動画において、長編アニメーション(当時の言葉でいえば「長篇漫画映画」)を製作しようという企画案があった。

私の果たさなければならない責任を考慮し、企画としては松谷みよ子原作『龍の子太郎』、演出は高畑勲にあたっていただくことを条件として、この大役をひきうけさせていただきます

大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』徳間書店、p119

東映動画は1964年にテレビアニメへの需要増大から長篇漫画映画の制作は当分中止するとの会社の方針を発表していたが、翌1965年には撤回し、その第一弾として当時の東映動画の高畑・宮崎の先輩であると同時に名うての原画マンであった大塚康生に作画監督のオファーをしている。上記の引用は、大塚が作画監督を引き受ける条件として提示したもので、会社も受け入れている。
しかし結局、この『龍の子太郎』原作の漫画映画化の企画は「久しぶりの長編アニメーションにふさわしいスケールが不十分と思えたこと」(同、p121)を理由に『春楡(チキサニ)の上に太陽』に変更される。『春楡(チキサニ)』は瀬川も創設に関わった東京の人形劇団である人形座の民話人形劇である(後に人形座から離れた瀬川は人形劇団・太郎座を率いる)。『春楡(チキサニ)』はアイヌの民族叙事詩を元にした人形劇であり、脚本をつとめた深沢一夫が漫画映画版のシナリオも担当することになる。会社側からの興行収益を見越した躊躇もあり、舞台をアイヌから北欧風の土地に舞台を移し、『春楡(チキサニ)』は高畑勲の初演出(監督)作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』となる。
瀬川や松谷の民話採集や創作民話、また人形座の『春楡(チキサニ)』が高畑や『ホルスの大冒険』に与えた影響関係については、鷲谷花「美しい悪魔の妹たち 『太陽の王子 ホルスの大冒険』にみる戦後日本人形劇史とアニメーション史の交錯」(『ユリイカ7月臨時増刊号 総特集◎高畑勲の世界 『太陽の王子 ホルスの大冒険』『アルプスの少女ハイジ』『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』『かぐや姫の物語』・・・アニメーション監督の軌跡』所収)が詳しい。

『太陽の王子 ホルスの大冒険』の成立には、戦後日本の人形劇運動が大きく深く関わっていた。さらに、原案となった『春楡の上に太陽』を一九五九年夏に上演した人形座は、当初は国民歴史学運動の人形劇部門ともいうべき役目を担って立ち上げられた人形劇団だった。つまり、日本共産党が一九五一年に決定した「民族独立」「民族開放」を基本とするいわゆる「五十一年綱領」及び、それに基づく「文化闘争」方針に呼応して指導した、左翼文化・学術運動としての国民的歴史学運動と、一見したところ遠く隔たった一九六八年公開の『太陽の王子 ホルスの大冒険』は、人形座の人形劇を間に挟んで繋がりあっていたということにもなる。

鷲谷花「美しい悪魔の妹たち 『太陽の王子 ホルスの大冒険』にみる戦後日本人形劇史とアニメーション史の交錯」より

大塚と高畑という東映動画で労働運動を担った二人が企画した『春楡の上に太陽』の漫画映画化には、当時の文化左翼の国民的歴史学運動が深く関わっていた。
また、

国民的歴史学運動は、大学の研究者や学生が、勤労者の労働/生活空間に直接入って「民族の歴史」を啓蒙する活動の一方、地元の歴史、職場の歴史、家の歴史についての、当事者に近い立場からの語や記憶の掘り起こしを促した。その一環として、従来「昔話」や「民間説話」と呼ばれた民間の口承物語が、「民話」と呼ばれて注目を集めた。

鷲谷、同上 より

国民的歴史学運動自体はのちに終焉するが、瀬川や松谷らの民話採集はさまざまな分野に大きな影響を及ぼした。その中に、松谷の創作民話が原作の『龍の子太郎』、『日本の民話』が原作の『まんが日本昔ばなし』(1975年から1994年まで放映)のような、民話の漫画映画・アニメーション化が起こった。
高畑はこう書いている。

(※引用者注: 東映動画の)初期にあった「いかに日本的であるべきか」についての議論も、商業主義的娯楽作品であり「アート」としては期待されなくなった結果、いつのまにか消えてしまった。興味深いことに、『少年猿飛佐助』『安寿と厨子王丸』『わんぱく王子の大蛇退治』など、はっきりと日本を舞台にした作品はその後の長編では作られることがなくなり(『空飛ぶゆうれい船』は例外)、特に本格作では79年の『龍の子太郎』まで待つことになる。そして、この作品も、東映動画の歴史のなかでは完全に孤立しているのである。

高畑勲「60年代頃の東映動画が日本のアニメーションにもたらしたもの」
(『作画汗まみれ 増補改訂版』所収)

『ホルスの大冒険』は、表現において同時代に発表されていた日本を舞台とした戦中の学生時代は信州の上田に疎開もしていた白土三平の漫画『カムイ伝』の影響もうかがえるが、高畑も述べるように、「いかに日本的であるべきか」からは舞台を北欧風にしたところからもみえるように後退している。『ホルスの大冒険』発表後、社内での労働運動の挫折などもあり、宮崎は大塚や高畑とともに東映動画を退職し、ともに『アルプスの少女ハイジ』(1974)などを制作する。
しかし、「世界名作劇場」と名付けられたように、その舞台は日本そのものではない。引用文にあるとおり、1979年に東映動画は『龍の子太郎』を制作し、キャラクターデザインと作画監督に『ホルスの大冒険』でも主要アニメーターをつとめ東映での労働運動でも彼らと同志であった奥山玲子や小田部羊一が参加し、他社に移籍していた高畑の演出も望まれたようだが、本作の監督は実写畑の浦山桐郎がつとめた。宮崎が『トトロ』や『もののけ姫』の構想を練っていた背景にはこのような同時代性の中で、いかにアニメーションに日本の民話や民族性、舞台となる日本をいかにして取り込むか、が意識的にも、また無意識的にも時代的な流れとしての文化左翼運動である国民的歴史学運動の大きなうねりとともに彼らの中でひとつの課題としてあったのだ。
前述のように、1980年前後に『トトロ』や『もののけ姫』のイメージボードが描かれ、アニメーション化の構想が練られてはいる。しかし、それらはなかなか実現しなかった。宮崎は出版された『もののけ姫』のイメージボードのあとがき「堂々めぐりの顛末」で「「もののけ姫」については、描きあげてから、いくつもの弱点が目につくようになりました。中でも最大の問題は、物語の世界が、従来の映画や民話からの借物であり過ぎる点でした。日本史や農耕文化史、大きな歴史観が劇的に変わりつつある時代に居あわせながら、その成果が少しも反映されていません」と自己批判している。

上記で確認してきたように、高畑や大塚などのアニメーターの人脈含め同時代的な左派文化運動とその成果に接続する形で、宮崎自身も日本を舞台とした作品の構想を練ったが、1979年の東映動画の『龍の子太郎』の公開を横目に、1972年の高畑勲監督作であり大塚康生や小田部羊一も作画監督で参加した『パンダコパンダ』での脚本、原案、原画での参加はあったものの、自身のその本格的な達成は、スタジオジブリ設立後の『トトロ』公開の1988年まで待たなければならなかった。
一方、高畑のフィルモグラフィを辿ってみると、「世界名作劇場」以降の作品の監督作は1982年の『じゃりン子チエ』を皮切りに(山を渡り生活するサンカ・遊動民と求婚するミカドなどの朝廷側を対比的に描いたという意味で『もののけ姫』と呼応関係にある)『かぐや姫の物語』まで全ての作品の舞台が日本と徹底している。特に、宮沢賢治原作の『セロ弾きのゴーシュ』では賢治を通して田園の中での動物たちと青年との対称・対等な交流を描き、『柳川堀割物語』では、福岡の柳川で埋められてしまう予定であった堀割が、ひとりの市民の立ち上がりが運動となり往時の川面が復活する過程を実写のドキュメンタリーとして作品化している。高畑はその後も『おもひでぽろぽろ』で山形の農村における農業と農耕が作り出した風景、『平成狸合戦』では開発される多摩丘陵と、日本の土地をめぐる作品を発表していく。
前述したように、それらの作品に対して宮崎は『もののけ姫』で応答したといえる。1980年前後の構想から機が熟すまですでに15年近い月日が流れていた。その長い時間の中で、『もののけ姫』自体の構想も大きく変化し、国際的にはソヴィエトの崩壊による東西冷戦の終結、国内ではバブル経済の崩壊と混沌を増す世紀末的な日常など、宮崎自身の日本列島をとらえる眼と歴史観も変わっていったに違いない。そして『もののけ姫』は、文化運動から瀬川や松谷を経由した日本の民俗・文化への眼をいかにアニメーションとして描くかが何度も試され続けた後に、ようやく完成した作品でもあった。

1963年に、瀬川の人形劇団に交渉に行くために待っていたバス停で高畑と出会ってから、すでに三十年の月日が経過していた。このエピソードが〈物語る〉通り、『もののけ姫』は、長い年月に渡る高畑と宮崎の思想的な分かちがたい共闘が時に衝突し合いながらも、その結果結実した末の作品であり、また彼らの中での自然観や動物への視点、民衆や民俗や文化を描く眼差しなどの差異が顕在化した作品でもあった。

〈補考−3〉『もののけ姫』と熊

【補考】においてこれまで、信州の土地、信仰、また民話などが『もののけ姫』とどうリンクするのか(しないのか)? について書いてきた。その点での筆は一旦置き、以下では『もののけ姫』と、本文で取りあげてきた熊という存在はどう関わるのか(関わらないのか)? を考えてみたい。

まず疑問に思うのは「『もののけ姫』に熊は描かれていたか?」という点だろう。『もののけ姫』における「もののけ」の語の意味は広くとらえれば、野生動物と神化したそれらのことであり、舞台が山深い場所であることから推察すれば、熊も登場しておかしくはないはずだ。しかし、シシ神、オッコトヌシ(猪神)、モロ(犬神)、猿系のショウジョウや架空の動物であるヤックル、タタラ場において運搬用家畜として飼われる牛、武士が乗る馬、など画面で描かれる印象的な動物たちや神々の中に熊の姿はない。
唯一熊のような姿が描かれるのは、ジコ坊が山中でシシ神の森の場所を追う際に、体をすっぽりと覆っている熊皮だけだろう。

全身に熊皮をかぶるジコ坊(左)。大きなかぎ爪もしっかりと描かれている。
右の仲間は猪皮をかぶっている。(宮崎駿『もののけ姫』より)
©︎スタジオジブリ

ジコ坊は山伏であり、その山中での身のこなしかたの素早さから考えれば、彼自身もアシタカ同様におそらくは山の民(出身)である。ジバシリ(地走り?)と呼ばれる猪の皮を被った集団を手先とし、山中での戦闘にも長けている。この分だと狩猟などもお手のものだろう。毛皮などの動物の部位の扱いにも慣れていそうだ。考えすぎかも知れないが、ジコ坊が自らを隠すために熊の毛皮を被っているのは、普段は滅多に人前に姿を見せない彼ら(=熊)を記号的に暗示しているようだ。

人間達と対する荒ぶる神々とは、山犬神、猪神との姿で登場する。物語のかなめとなるシシ神とは、人面と獣の身体、樹木の角を持つまったく空想上の動物である。

宮崎駿「荒ぶる神々と人間の戦いーーこの映画のねらい」より
(宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』所収、引用者により太字強調)

と、宮崎による映画の企画書にはしっかりとの文字が記されている。しかし、彼らの動く身体は完成した作品の画面からは消されてしまっている。
熊は人間をのぞけば森や山では生態系の頂点とも目されるが、シシ神という存在とシシ神の森という場所を、いってみれば物語の中心に据えた際に、彼らの存在は隠されてしまったのだろうか?  そんな疑問もわいてくる。

企画書は映画が製作される前段階で書かれたものであるから、物語の都合上、熊の登場シーンはないと判断されたのだろうか? 企画書に書かれた文字にこだわることは完成した作品自体をみないことに繋がる危険性は承知でもう少しいえば、ここで熊は「荒ぶる神々」の側に位置付けられている。『もののけ姫』において熊は「荒ぶ」って(怒って)いるはずだったのだ。
では、画面の中で荒ぶっている表現で描かれているキャラクターは何だろうか? という当たり前すぎる疑問に立ち返ってみる。それは「もののけ」の側だろう。動物の中でも、人間側の牛や馬の家畜類やアシタカの足でもあるヤックルには怒って荒ぶる描写はない。一方で、モロ率いるサン含む犬神の一族や、海を渡ってやってきた鎮西の猪神、また石を投げつけるショウジョウなどが荒ぶる神々の側だ。シシ神の森の中心に位置するシシ神は彼らのような人格も与えられずに、感情として荒ぶることはなく、ただ生と死を超越的につかさどっているように描写される。シシ神の森側の動物でありながら人格を持つように描写される動物の神々は荒ぶっている。一方、タタラ場の住人たちは安定した共同体の中におり、荒ぶっているようにもみえず、エボシ御前自体も、沸々と秘める執念は深いが荒ぶっているようにはみえない。……

我々は誰かを指摘し忘れている。それはアシタカだ。アシタカはエボシの石火矢の玉を身体に受け、その毒牙による全身の痛みによって荒ぶるタタリ神となってしまった猪神を、村を守るために冷静に射止める。しかし、その戦闘の際に負った傷によって、容易には癒えぬ呪いを右腕に受けることになる。村の占術師のヒイサマによってやがてその呪いは全身に回ると宣告され、エミシの村をなかば追い出されるかたちで西国に向かうこととなる。この呪いは村を出立したアシタカの右腕を時に荒ぶらせることになる。彼の意思とは関係なく荒ぶる右腕はブルブルと大きく痙攣のように震え出し、そこには神的に超人的な力が宿る。射った矢で簡単に人の首を飛ばし、十人がかりでないと開かないタタラ場の門を片手で開けてしまう。武士は彼のことを「鬼だ」という。アシタカのこの力強くも呪われた右腕は、人々を次々と驚嘆させ、また畏怖させることとなる。……

インディアンの思想では、人間と動物の間には、本質的な違いなどありません。動物が人間になろうと思えば簡単になることができますし、その反対に人間もまた動物に変身していくことが可能だと、考えられていました。いまは人間と動物の間に深い溝ができているように感じられるとしても、少なくとも「神話の時代」には、おたがいの行き来はもっと自由におこなわれていたはずだ、と考えられています。

中沢新一「失われた対称性を求めて」(『熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ』講談社、より)

ここまで書けばもうお分かりだろう。そう、このアシタカの右腕の超人的な力こそ『もののけ姫』の中で描かれたの正体だ。初期の『もののけ姫』の構想で、もののけ姫を娶る大山猫が、実は人間の青年だったように、アシタカその者こそが「熊の姿」だ。熊はタタリ神の呪いとともにアシタカの右腕に宿り、このアニメーションから表向きにはその姿が隠された「もののけ」となったのだ。この時において、タタリ神は村を襲い攻撃しにきたというよりは、この荒ぶる猪神と同郷であるアシタカとその背後にいる熊の神に助けを求めにきた、ともいえる。
アシタカの右腕の荒ぶる呪力は、鉄鋼製の矢じりや日本刀や、火薬を用いた石火矢や爆発物などの破壊的な技術(テクノロジー)を用いる人間と、動物たちの力の非対称性を、対称性に近づけるのだ。

近代の技術は、自然との友愛にみちたコミュニケーションを実現するのではなく、「挑発」によって自然の内蔵している富を、手に入れようとしているーー狩猟民の考えたこのような「技術論」は、私たちに二○世紀ドイツの哲学者ハイデッガーの「技術論」を思い起こさせてくれます。(…)「テクネー」の方は、それと違って、自然の中に隠れている豊かなものを、「挑発」によって立ち上がらせた上で、外に引っ張り出してこようとする行為のことを言います。
岩山を砕いて、その中から鉄鉱石を取り出したり、その鉄鉱に加熱を加えて、純度の高い鉄を作ろうとする行為などが、その典型です。(…)ハイデッガーは、近代に入ると技術が一気に「テクネー」としての性格を強めて、自然をコミュニケーションの相手ではなく、「開発」のための対象物として見るようになってしまったことに、強い危機感を表明したのでした。

中沢新一「海岸の決闘」(『熊から王へ カイエ・ソバージュⅡ』講談社、より)

『もののけ姫』は、このハイデッガー=中沢の指摘する状態を、中世日本に置き換えて描いている(話が飛ぶので多くは語らないが、宮崎がアニメーションにおいて、兵器や武器や飛行機などの鉄鋼的なテクノロジーを近作の『君たちはどう生きるか』まで描き続けていることと、この問いかけは関係するだろう)。

「人面と獣の身体」を持つ、半獣半人の現人神、いや荒人神となったアシタカの、その右腕には荒ぶる神々が宿っている。巨大な猪神のタタリ(湛え)を依代に、自然神としてアシタカの右腕に降りた熊の精霊=「動物霊の首長」(中沢、前掲書)は、シシ神の森という彼らの古の故郷までの道先にアシタカを案内する。『もののけ姫』の背後にいるのは、姿のみえない(この日を長く待っていた)熊の神である。……それが『もののけ姫』という草の陰から耳へと耳へ連綿と伝わる物語の骨子だ。

シシ神の首は切られてしまうが、アシタカはサンともにそれを大地に返す。死と再生の神は大地にまた還る。そして、アシタカは彼女とともにこの精霊と一族の古の故郷にとどまる決意をする。彼の右腕に宿った熊の精霊と猪のタタリ神の呪詛も、それを見届け、この山に還っていく。右腕で荒ぶる熊の精霊は鎮められたのちに、まるで熊送りの儀式のように、シシ神の森に再びに送られたのだ。……

以上、この仮説をもって今回の【補考】を閉じることとする。継続した諸氏の研究や批判が待たれる。


……


神長官守矢資料館を出て山の方面へ上る。


神長官守矢資料館の遠景


御頭御社宮司総社(おんとうミシャグチそうしゃ)
敷地内にあるミシャグジ信仰の総社
御柱が立つ
小さな社


「空飛ぶ泥舟」(設計:藤森照信)
山側に登っていくと見えてくる空中の茶室
「高過ぎ庵」(設計:藤森照信)
地上6mの地点で木に支えられている茶室


少し上ると前方北方面に諏訪湖の沖積地を一望出来る。



2-3.諏訪大社上社本宮

神長官守矢資料館から諏訪湖方面に進み、諏訪大社上社の本宮へ。


東側の鳥居から入る。本宮の名に相応しい風格のある社。






本宮一之御柱
とても大きな御柱が立っている。

御神体とされる巨石「硯石(スズリイシ)」(写真を撮るのを忘れました)や、宝物殿などを見学する。巨石への信仰や巨大な御柱など上社本宮の名に相応しい風格を感じる社である。毎年4月15日の「御頭祭」では、本宮においてミシャグジを降ろしたのちに、前宮に移動させ「十間廊」にて祭祀を行う。




3 .『鹿の国』

2025年2月14日に上田にある上田映劇で弘理子監督『鹿の国』を観た。

『鹿の国』は諏訪地方の信仰に焦点を合わせたドキュメンタリー映画であり、中世におこなわれた「御室神事」を演者を用いて再演した部分が興味をひいた。
「御室神事」は三月の酉の日におこなわれた「御頭祭」にさきがけて、十二月の下旬から三月中旬にかけて大祝が、前宮に造られた御室と呼ばれる竪穴住居である土室に籠る祭祀である。約三ヶ月弱もの間、しかも極寒ともいえる真冬に、子どもである大祝が御室に籠り続ける。大祝は御室の中に神官や子ども数人とともに籠り「この竪穴の中で、神と人と蛇が一緒になって御頭占、筒粥占といった冬期の重要な神事が行われる」(『神長官守矢資料館のしおり』より)。
ドキュメンタリーの中での再現をみると、実際の生きている蛇とともに籠るわけではなく、神事により精霊を付着させた大小三体の萱(カヤは茅野の「茅」とも書く。アシタカのエミシの村の許嫁の名がカヤであったことも想起されたい。)で組まれた蛇体と籠るようだ。蛇は御神体である守屋山や諏訪湖の龍神のようでもあり、冬の間に半地中の御室に籠ることは、春に芽吹くまでの植物や冬眠する蛇を体現しているようにみえる(そういえば『もののけ姫』のアシタカの右腕が呪いの力を発揮する際は黒い蛇のようなCGによる動画で表現されていた)。ミシャグチ神、またソソウ神と呼ばれる土着の神が大祝とともに、春までの間を御室の中でまぐわい過ごす。そこには異種婚姻の気配も感じる。

春になると、大祝は御室から出る。その姿は長い冬を越えて芽吹き出す植物や、目覚め活動し始める動物や爬虫類や虫など、世界を巡るエネルギーを一身に体現しているようにも思える。竪穴の冬籠りからよみがえったミシャグジ神は、三月の酉の日の饗宴「御頭祭」ののち、大祝による地方巡業に出発する。

また、川村も御室の神事について「熊の冬眠である「巣籠もり」を表現しているように思われてならない」「この「巣穴始」から「御室御出」の神事には、諏訪明神以前、ミシャグジ神以前の、アミニズム、トーテミズムとしての熊神の信仰の記憶が残存されている」(『熊神』p.79、80)と指摘するように、その姿は彼らの春の目覚めとも重なるようだ。……


「さて、春だ。巣籠もりからまた目覚めるとしようか」



[参考文献]
・川村湊『熊神』河出書房新社
・中沢新一『精霊の王』講談社
・中沢新一『熊から王へ カイエ・ソバージュ Ⅱ』講談社
・宮崎駿『出発点 1976〜1996』徳間書店
・宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』岩波書店
・宮崎駿『スタジオジブリ絵コンテ全集11 もののけ姫』徳間書店
・宮崎駿『もののけ姫』徳間書店
・大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』徳間書店
・中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店
・高畑勲『映画を作りながら考えたこと Ⅱ』徳間書店
・柳田國男『石神問答』創元社
・古部族研究会『日本原初考 古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』人間社
・古部族研究会『古代諏訪の祭祀と氏族』人間社
・古部族研究会『諏訪信仰の発生と展開』人間社
・山下正治「人文科学研究所共同研究B「関東周辺の歴史と文学の研究」17年度研究活動報告書 : 『諏訪大明神絵詞』について」(立正大学人文科学研究所『立正大学人文科学研究所年報』43号) https://rissho.repo.nii.ac.jp/records/4538 )
・山下正治「訓読・諏訪大明神絵詞(一)(<共同研究>関東周辺の歴史と文学の研究)」(立正大学人文科学研究所『立正大学人文科学研究所年報. 別冊』16号) https://rissho.repo.nii.ac.jp/records/5397 )
・加藤夏希「神長官家における『諏訪大明神絵詞』受容のあり方」(信州大学人文科学研究科院生会、信州大学人文学部大学院委員会『人文科学研究』第9号) https://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/publication/journal/docs/jinbunkagaku_kenkyu09.pdf
・『ユリイカ7月臨時増刊号 総特集◎高畑勲の世界 『太陽の王子 ホルスの大冒険』『アルプスの少女ハイジ』『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』『かぐや姫の物語』・・・アニメーション監督の軌跡』青土社
・『神長官守矢資料館のしおり』(編集、刊行、茅野市神長官守矢資料館)
・茅野市神長官守矢資料館リーフレット
・「特別編 宮﨑駿と青サギと...『君たちはどう生きるか』」(2024年5月6日にNHKで放送)
・「アイヌ語自然講座 クネニ(いちい)」(公益財団法人 アイヌ民族文化財団 HP hphttps://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/language/movie/details/post_27.html 
・「アイヌと自然 デジタル図鑑」(アイヌ民族博物館 HP https://ainugo.nam.go.jp/siror/dictionary/detail_sp.php?page=book&book_id=A0277 
・from八ヶ岳原人 HP https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/index.htm
・ジャパンツーリズム「街道の歴史を巡る旅【ビーナスライン】(信州)」 https://zipangu-tourism.com/posts/uzAI_ZV

・宮崎駿、盟友・高畑勲さんに涙の言葉<開会の辞 全文>https://www.cinematoday.jp/news/N0100819
・Wikipedia
・Google 
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