令和源氏物語 宇治の恋華 第六十八話
第六十八話 うしなった愛(一)
匂宮はまるで夢で理想の女人に逢ったような心地でふわふわと落ち着かずに車に揺られておりました。
はや日が暮れて再び逢いたいものだと願うばかり。
そのうっとりとする横顔を見て匂宮が中君の虜となったことは薫にも察しがつきました。
言葉数も少なくごとごとと響く車に身を任せながら男たちはそれぞれ別のことを思うのです。
匂宮は中君のしっとりとした髪の香り、絹のような滑らかな肌、暁に思い乱れる姿などその見飽きぬ美しさに恍惚と縛られ、薫は決定的に大君の心を失ったと感じ哀しみで一杯なのです。
そもそも感情を表さぬ薫のこととて宮には薫が大君との別れを惜しんで沈んでいるのかと思うものの、よもや二人の間にいまだ何もないとは考えつきません。
それはどんな女人も逃したことのない経験ゆえか、挫折を知らぬ奔放を許された君の薫を思い遣ることのできぬ所以なのです。
宮になんと思われてもよい、と気怠さに身を任せる薫は取り繕ってもおられぬほどに傷ついているのでした。
私の役目は終わった。
もうしばらくは宇治へ赴くこともなかろう。
それはとりもなおさず大君を不快にさせまいという気遣いゆえ。
想いを寄せる男がいつまでも身辺をうろついては大君の仏門に帰依するという尊い志を妨げることになると薫は考えているのです。
ひとつ掛け違うと何もかもが合わなくなる歯車のように、愛というものはタイミングも肝心なものです。
もしもあの時に大君が薫を受け入れていれば、勇気を出して愛していると告げられれば、これほど複雑なことにはならなかったかもしれません。
運命というものが定められているとして、いずれは一緒になる宿命としても、辿る道は人の選択となりましょう。
それまで選んできた道で形成された個がどの選択をするのかは神仏であってもあずかり知らぬこと。
それは神仏が人へ委ねた慈悲とでもいうべきものでしょうか。
それゆえに人は怠らず前を向いて生きようとするのです。
たとい理がそうであっても今の薫に前向きになって進めとは言えません。
忘れようと勤めるのにその足は己が心に絡め取られては進めず、愛ゆえに惑い、もう疲れ果てている。
まるで逃れられぬ無間地獄にあるように薫の心は助けを求めているのです。
愛とは甘美なものでありますが、得られねば心をも損なう、と薫は父母の悲恋を彼方に思うのでした。
大君がはたと我に返ったのは弁の御許による一言でした。
「大君さま、しっかりなさってくださいまし。中君さまに後朝のお文が届いておりますわ。あの御方はきっと今宵もお越しになるでしょう」
「匂宮さまから文が・・・」
「まぁ、やはり匂宮さまでしたのね」
弁の御許はそれで事情が呑み込めました。
やはり薫君は御心を変えることが出来ず友をないがしろにすることも許さなかったのだ、と。
恐らくはもうこちらにはしばらく足を向けられることもないのであろう、と察せられて寂しく感じますが、今はまず今宵もお越しになるであろう目先の宮さまを迎える準備をするのが賢明です。
「はやくお文の返事を中君さまに書いていただくべきですわ」
こうなったからには匂宮に打ち捨てられるようなことがあってはならないと宮の意向を知りたい大君なのです。
その場で手紙を開きました。
世の常に思ひやすらむ露ふかき
道の笹原わけて来つるも
(あなたを想いようやく念願叶ったこの嬉しさ。草深い笹原を露に濡れながら分け入った私の志を浅いとは思わないで下さい)
匂宮から時折いただく便りを風流と楽しく見ていた折には考えもしなかったプレッシャーが大君を襲います。
この美しい手跡に洗練された色合い、焚き染められた香の高雅さ、下手な返事をしては、こちらはその程度のつまらぬものか、と軽んじられてしまいます。
そうなると中君が不憫な目に遭いかねない、いっそ自分が代筆をとも考えましたが、新婚早々そのように小姑が顔を覗かせれば野暮ったくも思われるであろう、そう大君は中君を言い含めて懇ろに手紙をしたためさせました。
万事このように堅苦しく考えるもので、手紙の使者には立派な紫苑色の装束などを与えましたが、宮が手近に使っている童を忍びでよこしたものなので、それはもう逆効果。
弁の御許が目を留めた時にはすでに使者に装束が与えられた後でした。
もしも薫君がここにいらしてくれたならばそれとなく今風のならわしなどを引き合いに柔らかく諌めてくれたであろうものを、御許は大君の無知に今更ながら辟易し、自ら中君の後見と気を張っていられるのも痛々しくて見ておられぬ、と頭を抱えました。
案の定宮家の姫なればなんとも仰々しく格式ばったことをなさる、と匂宮は鼻白んだとか。しかしながら中君への想いが勝っているもので、賢しらぶった老女房あたりがいらぬ口をはさんだのであろうと意に介されぬのは幸いな事なのでした。
二日目の夜も宮は薫を伴って宇治へ赴こうと誘いましたが、薫は冷泉院に伺候する用があると固辞しました。
「私は行けないが、充分用心して行きたまえよ」
「わかっているともさ。ここでバレたら外出禁止でもくらいそうなものをヘマなぞするか」
匂宮が浮き浮きと上機嫌なので薫はふっと笑みを漏らしました。
「中君がお気に召したようだな」
「うむ、早く逢いたくてならないよ。あれほどの姫とは思ってもみなかった。薫の働きに感謝しているぞ」
「君が運命の相手に出会えた、というのであればこれから先も恩に着てくれよ」
「おおとも、親友よ」
そんな軽口を叩いているうちにも陽も落ちようとしておりました。
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