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紫がたり 令和源氏物語 第十四話 空蝉(一)

 空蝉(一) 

空蝉の帖では薫りを意識しながら読んでいただくと味わい深いものに感じられます。
衣に焚き染めた香は薫衣香(くのえこう)と呼ばれ、香の調合によってそれぞれの違いがあるものなのです。
平安時代では一寸の先も見えない漆黒の闇が当たり前でしたので、焚き染めた香で誰何するのです。
そして薫りによって記憶が喚起されたり、情緒と結びつく独特の文化であったといってよいでしょう。


伊予介の妻は源氏から贈られた歌を詠み返していました。
上等な白地の紙はところどころに薄紫の霞がかかった具合で品の良いものです。
うっすらと染み付いた香が源氏の衣にも焚き染められていたものだったので、あの夜が思い出されて胸が高鳴るのを抑えられません。
しかし気持ちが高揚すると一介の受領の妻であるという現実に引き戻されて、空しく感じるのです。

思えば父が生きていた頃、無垢な乙女の時が一番幸せであったと昔が懐かしく思われます。
父である中納言は衛門督も兼任していて頼りがいのある人でした。
そして野心も持っていたので、美しく成長した娘を桐壷帝の元へ入内させようと画策しました。
生まれてこのかた邸から一歩も出ずに大切にかしずかれてきた娘は絵物語を眺めながら、噂に聞く宮中での生活に胸をときめかせておりました。
「お父様、わたくしのように身分もさほど高くなく、取り柄もない女がお主上にお気に召していただけるのでしょうか?」
そう聞く娘に父は優しく答えました。
「桐壷帝は公正な御方で身分など気にする方ではない。光る君をお産みになった桐壷御息所も更衣でいらしたという話だ。お前が一生懸命お仕えすればきっと帝もお見捨てにはなるまい」
宮中はきっとこの絵巻物のようにきらびやかで眩しい世界に違いない、そう思うだけで若い娘らしくうっとりとせずにはいられません。
入内するほどの器量の娘と噂になると、あちこちから文なども多く寄せられました。
中には親王や殿上人といった方々もいらしたので、その方達のお手紙は手跡も美しく、趣味の良い紙に高価な香が焚き染められていて、宮中の雅を垣間見させてくれるものです。
伊予介の文もその中に混じっていおりましたが、貴公子達のものと比べると見劣りがして、返事をする気にもならず打ち捨てられたままでした。

占いを得意とする者を呼び寄せて入内に適した日を調べさせ、装束などを整え、新たな世界に胸を躍らせる日々は薔薇色でした。
しかし入内目前にして、頼りの父が流行り病を得てあっけなく亡くなってしまったのです。
他に強い後ろ盾も無い身では入内を諦めざるを得ません。
それからが大変でした。

父を失った悲しみも大きいものでしたが、経済的な困難が目の前に立ちふさがったのです。
父は娘を入内させるのにかなりの無理をしていたようでした。
仕える者達に給料が払えなくなると、召使や女房が一人減り、二人減り、邸もどんどん荒れてきて、まだ幼い弟の小君と心細さを慰め合いながらの生活です。
この頃には以前のような正妻にと望むような文も来なくなり、世間からはすっかり忘れ去られたような落ちぶれ具合でした。

そして追い打ちをかけるように大雨が襲ってきたのです。
ただでさえ痛んだ邸は雨漏りもひどく、荒れ狂う風雨が恐ろしくて小君と二人で震えておりました。
そこに心配した伊予介が様子を見にやってきたのです。
伊予介は家臣と共に宿直して優しく慰めてくれました。
父を失ってから誰もかけてくれなかったような優しい言葉の数々に、ありがたくて涙がこぼれて、何よりも伊予介を頼もしいと感じました。
かよわい女の身でこの辛い世の中を生き抜くには伊予介の手にすがるしかなかったのです。

源氏からの手紙はその昔憧れていた雅な世界そのものです。
今の自分とはあまりにも住む世界が違いすぎて、女はただただ悲しく感じるのでした。

次のお話はこちら・・・


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