推し活で生きる私が『推し』と呼ばれた日
看護師として学生の引率業務につくことが多い。
その都度関わりが楽しくて
お別れのときは寂しい気持ちと、
彼らの未来を応援する気持ちになるんだけれど、
今回は彼らにとても大切な気づきを教えてもらった。
今回の引率はちょっと期間の長い引率の2回目、
昨年1度お会いした生徒たちとの再会の時間だった。
生徒から「あ!私たちの推しだ!」と
声をかけてもらった。
ただ覚えられている存在ではなく
彼らのなかで”推し”という存在になっていること、
”推し”の重さが違うとすれど、
推し活で生き延びているような私が
「推しだ」と言って貰えることが率直に嬉しかった。
これまで私は
「役割」
「成果」
「提供価値」
という観点で仕事をする自分を評価していた。
それは
現場に呼ばれている意味をしっかり理解したうえで成果を出すこともだし、価値を持ってもらえるように一所懸命従事してきた。
その結果、いろんな現場から毎年依頼を受けるという成果結果に繋がっていたんだと思う。
けれども、
小学生である彼らの「推しだ!」という言葉には
そんな分析はきっとない。
実際に聞いたわけではないけれど、
「なんか優しいから」
「なんか楽しいから」
くらいの答えが返ってくるんだと思う。
もちろん半年前の体調不良のときに助けてもらったことや、
安心させてもらった…ということもあったかもしれない。
でも半年後に覚えているのは
処置の内容よりも、
一緒にいた時間の空気や
話したときの安心感、
私という人の雰囲気だったりするんだと思う。
としたときに、彼らが推したわたしは
「何かをした私」ではなく、
「私がどんな存在だったか」を覚えていたんじゃないかと思う。
それが「推し」という言葉で表されただけなのかもしれない。
私がまだ「役割」「成果」「提供価値」を通してしか受け取れなかったものを、子供たちはもっとシンプルに受け取ってくれたのかもしれない。
「私がいたから」
そんなふうに、私自身も気づいていなかった存在価値を教えてくれた出来事だった。
引率の終わりはいつも思う。
長い人生のなかで
いま目の前の人に関わる時間は
ほんの一瞬でしかない。
それは私にとってもそうだし
彼らにとってもそうだ。
それでも
そのたった数日がとても愛おしくて、
名前を呼んでもらえることや
声をかけにきてくれること
「推しだ!」って言って貰えることが
とっても嬉しくてかけがえのない瞬間だ。
それは今に限ったものだけじゃない。
いま目の前にいるひととの関わり全てが本当はそうであるんだと思う。
だからこそ、どう生きたいかと問われたら
どんな人との関わりも相手に最大限の敬意を持って大切な時間を紡げるような関わり方ができたらいいなと思う。
