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<書評>『ボヴァリイ夫人』、『三つの物語』、『十一月』

 『ボヴァリイ夫人 Madame Bovary』、『三つの物語 Trois Contes』、『十一月 Novembre』ギュスターヴ・フローベール Gustave Flaubert著
『ボヴァリイ夫人』は中村光夫訳、『三つの物語』及び『十一月』は蓮見重彦訳 講談社 世界文学全集第37巻 1975年初版発行。『ボヴァリイ夫人』は1857年、『三つの物語』は1877年、『十一月』は1842年にそれぞれフランスで発行。

『ボヴァリー夫人、三つの物語、十一月』

『ボヴァリイ夫人』については、十九世紀中期のフランスの代表的な作家であるフローベールの出世作として読みたいとつねづね思っていたが、その内容からこれまで読まずにきた。しかし、『ロリータ』で著名なウラジミール・ナボコフが、亡命先のアメリカの大学で教鞭を執った記録である『ヨーロッパ文学講義』(野島秀勝訳 TBSブリタニカ)を読んだところ、この中にあるフローベールの『ボヴァリイ夫人』についての講義録に魅了されて、今回ようやく読む気になった。他の二作は、いわば「刺身のつま」的に読んだものであるが、フローベールについて知るためには好材料だった。


『ボヴァリイ夫人』

 読んでいる途中で嫌になってきたところが多かった。、主人公のボヴァリイ夫人をはじめ、登場人物が皆俗物根性の塊で、また最悪な性格で、常に物質的欲望を求めていて、(カソリック的な)敬虔さとは正反対な物欲に溺れた生活をし、金に汚くまた常に金に困っていて、近隣の他人を馬鹿にする一方で自分を過剰に賛美し、ささいなことで大きな精神的なダメージを受け、いつも不真面目で、自己中心的な言動をするだけの多くの人物が描かれている。これは、小説を読んでいて「この人間の世の中というのは、なんて嫌らしく、汚れ切っているのだろう」という感想しか浮かんでこない人物設定だ。しかしこれは、フローベール作品の特徴でもある。つまり「渡る世間は鬼ばかり」がヒットするのと同様な理屈だろう。

 また一方で、特にボヴァリイ夫人の自由奔放な人生を、「女性解放思想の先駆け」、「女性の自由な恋愛を描いた秀作」と絶賛されても、ボヴァリイ夫人の姿は、まるで自分の高校中退を自慢するような不良少年少女の痴話げんかの連続にしか私には読めず、ますます辟易しながら読み終えることになった。こうした下世話な三文小説の世界は、日本の高校生が登場する青春メロドラマに任せておけばいいのであって、いやしくも芸術(哲学)としての文学が対象にするものではないと私は思うのだが。

 それでも、この作品の個々の部分に表現されている情景描写や性格描写は、皆精密で見事な文体であり、思わず感嘆しながら読まされてしまう。これらの秀逸な部分は、「これぞ小説作法」というべきお手本だ。しかしこの「形式」は優れていても、「内容」が青春メロドラマのような陳腐さであるというのは、私のような読者には、ひたすら読む気持ちが失せてくるのを我慢しながら読み進める苦役となってしまう。つまりその「内容」には、ギリシア悲劇のような感動・感激・カタルシス(浄化)がなにもない。最低の人たちが最低の生活を送ったというだけの、三文週刊誌のゴシップ記事のレベルで終始一貫している。

 繰り返しになるが、本作品は近代小説の先駆けとして「形式」が高く評価されている一方で、その「内容」は俗物どもの最低な私利私欲にまみれたどろどろした世界を描くことに終始しており、そこに救いも悲劇としてのカタルシスもなにもないことが、私には致命的な欠点としか読めなかった。しかし、これが発表当時から現在までの大衆が、最も好むものとしてベストセラー(ロングセラー)になっていることは、日本だけではなく世界共通の文学の抱える課題だと思う。

 ところで、本作品は『ボヴァリイ夫人』という題名であり、エンマ・ボヴァリイというフランスの田舎町に住む女性が主人公とされているが、小説の構造上の主人公は、冒頭(書き出し)と最後の場面(書き終わり)に登場するシャルル・ボヴァリイであるので、これを正確に反映すれば『シャルル・ボヴァリイ』というのがより相応しい題名となる。

 シャルルの生涯はエンマ以上に波乱万丈である。フランスの片田舎の下層階級の生まれでありながら、両親の意向で上流階級の子弟が通う学校に無理矢理行かされ、そこから医学を習得するまでの教育を受ける。その後、医者としての開業資金がないため、年上の金満女との不本意な結婚を選択する。こうして社会的になり上がっていく途上で、年上の妻が突然死した後、社会的地位を得た人間としてエンマ・ボヴァリイという「飾り物」の包まを獲得する。

 しかし、最初は田舎の純朴な娘であったエンマは、結婚後に贅沢な生活を知ることで、シャルル以上の男を利用した「成り上がり」を自分勝手に実行していく。そうした行為は、何ら「新しい女」とか「女性の人権」などという高尚な考えに基づくものではなく、人間が本来持っている、強欲さ、自己中心、自己欺瞞といったものを何の反省をすることもなく一方的に押し通してしまう、むしろ病的な性格のひとつの症例と言うべきである。

 そうした病的性格のため、エンマ・ボヴァリイは容易に悪徳高利貸から金を借りまくり、夫の存在を無視して自分勝手な不倫を繰り返すことに陶酔し、最後に自分の尊厳だけを考えて自殺を選択する。その一方で、元々強欲な成り上がり者であった夫シャルルも、凡庸な夫婦生活を続けた後に、ようやく妻の不誠実に気づき(確かに、夫が妻の不倫に全く気付かなかったという設定は、いささかご都合主義の匂いがある)、これを原因として生きる力を失い、自殺に近い形で死んでいく。

 こうして中心的な二人の人物が悲惨な死に方をする一方で、登場人物の中で最後に勝ち誇るのは、ブルジョワ的人生を代表するような、不法に医療行為を行っている薬屋ながらフランス政府から勲章をもらうオメエという人物である。彼が勝ち取ったと自負する勲章は、決して名誉な行為に対するものではなく、彼が強欲な人生を全うしたことの勝利の印でしかない。ところが、このオメエの「勝利」でこの小説を終えることに、フローベールのフランス社会に対する幻滅を見ることができると思う。

 なお、ほとんど端役としてしか登場しない、ボヴァリイ夫妻の長女ベルトが、とても哀れでならない。母エンマから母親らしい愛を受けることはなく(なぜならエンマは、母としてよりも女として、家の外にいる男からの愛情をひたすら追い求めていたから)、父シャルルも仕事の多忙さと妻エンマの問題に忙殺されて、ベルトに愛情を注ぐことも養育もできなかった。幼い頃にベルトを育てたのはもっぱら女中のフェリシテだった。その女中もエンマが死亡した後、エンマの高価な服とともに失踪する。

 両親が死に、一人残された幼いベルトは、父方の祖母に預けられるが、その祖母も間もなく死に、貧しい叔母の元へ引き取られることになる。しかし、ベルトを養育するための経済力がない叔母は、まだ子供のベルトを紡績工場に女工として売り飛ばしてしまうのだ。上流階級である医者の子として生まれたのであれば、然るべき教育を受けた後に社会的に成功した男と結婚する未来を持ったベルトであったが、自分勝手な浪費と不倫にのめり込んだ「近代的な自由な女性」エンマによって、哀れな人生を歩まされてしまったのだ。これはひとえにエンマという「自己中心的な女」「色情狂の女」「金銭感覚の欠如した女」によって、一人の人間(子供)が不当に不幸にされた悲劇であり、その原因を作った母エンマ・ボヴァリイには同情できる余地はまったくない。

 本作品の小説としての「内容」に関しては、私は前述のように非常な不快感しか得られなかった。繰り返すが、そこにはカタルシス(浄化)はなく、ギリシア悲劇のような深い人生観があるのではない。ただただ、三流週刊誌のゴシップ記事の羅列があるたけである。それでも、近代小説の先駆けという名称に相応しい優れた描写がいくつかあることを私は認める。そうした箇所を以下に列記して紹介したい。なお、引用文中の(注)は、私が理解の便宜のために付したものである。

第2部第8章の後半(P.124)にある、エンマ・ボヴァリイと金持ちの愛人ロドルフとが、初めて恋愛関係になる場面。

 村祭り的な「共進会」(商業や農業などで貢献した人を表彰するもので、行政のお偉方が来て賞金を渡す)の、表彰内容と表彰される人の反応が会話文として描写されるのと交互に、ロドルフがエンマを徐々に口説いていくセリフがテンポよく描写される。それはまるで、映画のシーン(モンタージュ)を見ているように、とてもスリリングでリズム感のある描写になっている。映画の脚本を書く人には、この描写をそのまま使えることだろうと思えるくらい、かなり映像的な場面である。

第3部第6章の、エンマの二人目の愛人となる弁護士の卵レオンがエンマとの関係を逡巡する下り。

 フローベールの考える、若い頃の芸術と人生との競合をよく表現している。

「そこで彼はフリュートを止め、感情の高揚や空想の世界とも縁を切った。――実際、どんな俗人も、青春の熱狂のなかで、たとえ一日でも、一分間でも、自ら偉大な情熱を持ち、壮大な事業をなしとげることができると信じるものだ。どんなみすぼらしい放蕩者もサルタンの妃を夢みたことがあり、どんな公証人もみな胸のなかに詩人の残骸を持ち歩く。」

 しかし、こうした青年の儚い夢想は、エンマの俗悪な現実感覚に破壊されてしまう。エンマの心理描写がそれを説明する。

「しかし、どうしたら(注:結婚生活の俗悪さと姦通の罪悪を)捨てることができるのか?それにこのような幸福の低俗さに、いくら屈辱を感じても、だめだった。それに習慣で、あるいは悪癖で、彼女は執着した。そして一日ごとに、熱をあげ、あまりにも大きく期待しすぎて、すべての幸福を涸らしてしまった。まるでレオンが裏切りでもしたように、自分の失望を彼のせいにした。そして自分からその決心をする勇気がないのでふたりの別離をもたらすような破局が起こるのをさえ願った。」

第3部第6章のP.258で、多額の借金の督促に困窮したエンマ・ボヴァリイが、収税士ビネに金の無心に行くとき。

 この情報を知った小さな村の低俗なテュヴァッシュ夫人とカロン夫人の二人は、収税士の部屋を覗ける場所に隠れて、二人の会話を盗み聞きする。そのとき、ビネが趣味でやっている陶器作りのろくろの音で、会話がよく聞こえなくなるため、勝手な憶測をする一方、この低俗な田舎の夫人たちが、エンマ・ボヴァリイのふるまいに対して勝手な批判を言い合う場面が描写される。ここも、まるで映画の一場面のように、覗く二人と会話する二人の対照的な姿がそのまま脚本に使えるほど秀逸だ(注:長くなるので、引用は省略した)。

第3部第8章のP.274では、毒薬を飲んで瀕死の状態にあるエンマ・ボヴァリイの姿が克明に、まるで医学的な参考資料のように描写される。

 そこで、死にゆくエンマ・ボヴァリイは、馬車から見た白痴の盲人を思い出しながら、俗謡の歌詞を歌い出す。「よく晴れた日の陽だまりで 乙女は恋の夢を見る。 鎌で刈り取る麦の穂を せっせと集めようとして わたしのナネット(注)前かがみ、 穂のなる畝にでかけます。」という歌に、エンマ・ボヴァリイの自己中心的で自らの物欲と情欲に溺れた半生を、うまく描写している。
(注)ナネットは、恐らくNannetteという女性の名前と思われる。つまり、歌っている人の親しい女性であるナネットが、畝の中に入り込む情景だが、全体のトーンからは「穂のなる畝」に性的なイメージを重ねていると思われる。

最後に、本作品のテーマや描写とは無関係だが、気になったことがあったので紹介したい。

それは、第3部第6章のP.252にある、薬剤師オメエが妻が好きだといって6個買って帰る「シュミノ」というパンである。この「シュミノ」については、「ターバンのような形の、四旬節の間に塩のきいたバターをつけて食べるこの重いパンが(注:オメエ夫人は)大好きだった。それは中世の食物の最後の標本で、たぶん十字軍時代にさかのぼるもので、むかしの屈強なノルマン人たちが腹一杯食べた。」と書かれている。

 それでネットで調べてみたのだが、フランスパンで「シュミノ」に該当するものはない。しかし、「十字軍」という言葉をキーワードにして調べたら、トルコパンで「シミット」というパンが見つかり、これはまさに「ターバンのような形」をしている。

 上記リンク先の画像を確認すると、フローベールが書いたものとイメージがぴったり合う。そして、十字軍がオスマン・トルコ(中東)へ遠征してこのパンを知り、それをフランスやヨーロッパに持ち帰ったことは十分想像できる。ちなみに、私はヨルダンとルーマニアに住んでいたが、このパンは普通に街中で売られていたので、私の説はかなり確証があるのではないか。

『三つの物語』

 以下の三つの短編で構成されているので、それぞれの感想を記したい。

「純な心」
 主人公のフェリシテは、ボヴァリイ夫人と正反対のまさに聖女ともいうべき女性で、タイトルも「十九世紀の聖女」としても良いくらい、減私奉公をした女性の物語だ。

 生まれた直後に両親を亡くし、もらわれた先の小作人の家ではまともに教育をしてもらえずに、牧畜の世話といいながら牧畜同様の生活をさせられて成長する。その後近隣の男に結婚話を持ち掛けられたが裏切られ、現在のオーバン夫人(未亡人)の家政婦となり、他人から羨ましがれるほどの良い奉公人となる。子供の頃の大変な苦労と比べれば、家政婦の生活は天国のようだったのだ。

 オーバン家には男の子と女の子がいたので、フェリシテは子供たちの世話を生甲斐にしたが、まもなく女の子は修道院に行った後に肺炎で死んでしまう。一方、船員をしていた甥がいたので、何かと世話をしていたが、その甥も海外で突然死んでしまい、世話する対象を無くすことになる。それでもフェリシテは、昔女の子の洗礼式に付き添った縁で自分も洗礼を受け、熱心なカソリック信者になっていた。また男の子は家に残っていたのだが、酒浸りの不摂生な生活を送った後、やがて登記役所に勤めて上司の娘と結婚する。しかしその相手の娘は、義母を馬鹿にするような人間だったので、当然家政婦のフェリシテと男の子との関係は疎遠になってしまう。

 こうして生甲斐を無くしたフェリシテだが、偶然近所に住み出した外交官が転居する際に置いて行ったオウム(鸚鵡)を譲り受け、これを可愛がようになる。フェリシテにはオウムはまるで聖霊の化身に見えていた。そのため、オウムを献身的に世話するが、やがてそのオウムも死んでしまう。甥と雇い主の長女に次ぐフェリシテが愛情をかけた対象が消えていく。男の子も悪い娘と結婚して、フェリシテとは縁遠くなる。最後に雇い主のオーバン夫人の逝去を看取った後、フェリシテも死を迎えることになる。死の直前、ちょうど聖体祭が行われていて、そこから流れてきた香炉からのけむりに包まれて彼女は昇天していく。聖女に相応しい死に方であった。

 このフェリシテが死ぬ時の描写(P.333)は秀逸だ。
「浅青色のけむりのようなものがたちのぼり、フェリシテの部屋に入ってきた。彼女は鼻孔をさしだし、神秘な官能のときめきをもってそれをかいだ。それから瞳を閉じた。唇は微笑んでいた。心臓の鼓動は、一つうつごとに弱まってゆく。その都度前よりも捉えがたく、ゆっくりしたものになっていった。泉が涸れるように、こだまが消えていくように、そして最後の息をはきだしたとき、なかば開かれた空の中に、巨大な鸚鵡が一羽、頭上はるかに飛んでゆく姿が見えたような気がした。」

 自分の現世の欲得よりも、身近な人のために身も心も奉仕し続けた彼女は、聖霊の化身であるオウムの姿とともに、天国に昇って行ったのだ。彼女ほど、天国に行くべきまた歓迎されるべき人はいないだろう。そうした女性を、キリスト教では「聖女」として尊崇してきたのだ。それはまた、自らの欲得のために次々と他人を利用しまた犠牲にしてきたボヴァリイ夫人とは、正反対の人格である。この物語があることにより、ボヴァリイ夫人の気色悪い印象を、どうにか浄化することができたのは幸いだった。

「聖ジュリアン伝」
 「純な心」は聖女の話だが、聖女であることは一切匂わせずにたんたんと描いていた文体に、フローベールの優れた筆力を感じた。またたんたんと描くことによって、むしろ主人公フェリシテが聖女である面が自ずと強調され、最後のカタルシス(浄化)を感じさせる結末につながっていた。一方のこの「聖ジュリアン伝」という作品は、最初から聖人であることがわかる題名にしている。そして、立派な王侯の家に生まれ、良い教育を受けたのにも関わらず、狩りに熱中するあまり動物を無暗に殺戮する青年になってしまう物語である。

 そうした中で、主人公ジュリアンはある日、自然の聖霊である大鹿に自らの両親を殺す予言をされ、自ら城を出る決断をする。その後世界をさまよっていくが、元々持って生まれた能力で城を持つ王に成り上がる。そこへ偶然、行方不明になった息子を探して乞食におちぶれた両親が訪ねてくるが、ジュリアンは狩りに出かけて不在であったため、留守を預かる妃が自分たちのベッドに両親を寝かせてしまう。夜半帰宅したジュリアンは、自分たちのベッドに寝ている両親を不審者と判断して殺してしまう。大鹿の予言は的中した。ここまでのストーリーは、まるでギリシア神話の「オイディプス王」のように、悲劇を避けようと別の人生を選択したが、それでも悲劇は避けられなかったという内容になっている。

 その後両親を殺した自らの罪を償うため、ジュリアンは聖者(物乞い)として流浪し、最後に誰も渡し舟を運行しようとしない河で、渡し舟を作り、粗末な小屋に住むようになる。ある晩、ライ病患者に呼ばれて河を渡してやった後、言われるままに食物やベッドを与え、さらに抱き合って身体を温めてやる。そのライ病患者は末期症状で見るも無残な姿であったが、ジュリアンが唇を合わせて抱擁した瞬間、イエス・キリストの姿になり、ジュリアンを昇天させていく。この物語は、ある教会のステンドグラスに残されているという説明で作品は終わる。実際にフローベールは、このステンドグラスを見た感動からこの物語を作ったそうだ。

 しかし、既にギリシア悲劇のような展開で物語が進み、さらに主人公が荒野にさまよった時点において、この聖人伝説あるいはギリシア悲劇としての結末は、誰もが容易に予想できるもになっている。そのため、ライ病患者がイエスの仮の姿であり、ジュリアンを聖人にするための一種の通過儀礼であることが自ずと読み取れてしまうことから、最後のカタルシス(浄化)が中途半端なものとなっている。ここにこの作品の失敗があると私は思う。正直に言って、特段優れた描写があるわけでもなく、物語の展開があまりにも容易に予測できてしまう点からも、本作は凡作であると思う。

「ヘロデア」
 ヘロデ王が出てきたところから、「サロメ」の物語だとすぐにわかる。しかし、肝心のサロメは、最後の場面にただ少しばかり出てくるだけである。また、殺害されたヨカナーンの首にキスをする場面は描かれていない。このように、この作品は「サロメ」のエピソードに至るまでの、題名にしたヘロデアとその夫であるヘロデ王、そして、ローマのシリア総督、ユダヤの占星術師、ユダヤ教各派の僧侶らの群集劇として描かれている。そして題名になっているヘロデアの存在感は薄く、また登場する場面も少ない。もっとも多く登場するのはヘロデ王であるから、むしろ題名を「ヘロデ王」としても良いくらいだ。

 そしてこれが最も肝心なことなのだが、ここには物語としてのカタルシス(浄化)がない。唯一首を切られる前のヨカナーンに対して、輝ける天使が出現して斬首を遅らせる場面が物語に華を添えているが、そこからさらに展開することはない。全てが、感情の起伏を抑えてたんたんと描かれている一方で、読む人の感情に訴えるような内容はあまり無い。

 最初の「純な心」から「聖ジュリアン伝」を経て「ヘロデア」で終えることにより、宗教的な三部作としての人から聖人さらに預言者へと発展する物語にしたと思われるが、「純な心」を除いて、私は何らの刺激を受けることはなかった。小説としても物語としても、さらに宗教的説話としても、この作品は失敗作ではないかと思う。

『十一月』

 一人称で語られるフローベールの自伝的な作品だが、くどくどしい内容と些末な箇所にこだわる描写によって、なかなか読み進めるのが辛くなる小説である。もっと正確に言えば、これは小説というよりは、少し精神病的な資質を持った人物の日記・自伝のように思える。そして、この作品中でもっともドラマティックな場面となる娼婦マリーとの邂逅だが、あまりにも現実離れした心理描写と、マリーの入れ子細工的に語られる半生の物語とによって、作品自体の説得力がどんどんと乖離していくだけとなっている。

 つまり、最初から最後まで主人公の独白として終えれば良いものを、数奇な人生を送る娼婦マリーを二番目の主人公的に長々と語らせ、さらにその娼婦マリーと主人公とが、まるで「ロメオとジュリエット」のような運命的な出会いをし、さらに純愛関係に陥ったなどと表現することは、酷く浮世離れしたおとぎ話にもならない不自然な設定であり、ただただそのご都合主義に私はうんざりしてしまった。

 こうした波乱万丈とも思える極めて自己中心的な人生を送った主人公の描写を長々と読ませた後、最後には主人公の独白ではなく、第三者的な視点(つまり作者の視点)から、フローバールが得意かつ理想とする自然に囲まれて天上へと飛翔する死を迎える描写で終えている(つまり、文体の不統一)。さらにここには、物語としてのカタルシスはなく、また物語を読み終えた喜びも無い。一言で評すれば、これは「歴史的な大作家」フローベールによる作品であるため、わざわざ日本の「世界文学全集」に所収されたが、そうでなければ、つまり無名作家の作品であれば、誰も見向きもしない作品として歴史の中に埋もれていたことだろう、と私は思う。

 前述したナボコフが、アメリカの講義で『ボヴァリイ夫人』のみを取り上げたことの理由は、私と似たような感想をフローベール作品に持っていたからではなないか、と私は夢想している。


<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、音楽を基に発想した散文詩及び短編小説集です。>


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きーやん(木下裕治) しがない年金生活の一方、健康状態の関係から身体を使う仕事は難しいため、趣味と実益を兼ねてnoteに様々な投稿をしています。皆さまからの私の投稿へのご支援をいただけることは、今後さらに多種多様な投稿を継続していくことにつながりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。