月の精霊の洗濯日
月の明るさは、いつも同じようでいて、少しずつ違う。
大学の講義棟を出て、駅までの坂道を歩くたび、私はその違いを、意味もなく気にしてしまうようになった。
春の終わりの夜は、まだ少し冷たい。
キャンパスの並木には昼の熱が細く残っていて、風が通ると木の葉がさやさや鳴った。
私はスマートフォンの画面を見て終バスの時刻を確かめながら、駅とは逆の、古いアパートへ向かう細い道に足を向けた。
帰りが遅い夜、私には楽しみがあった。
隣の部屋の女性を見ることだ。
正確にいえば、彼女が夜の空気の中に立っているところを見ることだ。
部屋のドアではなく、ベランダでもなく、もっと高い場所。
私のアパートは三階建てで、屋上へ続く鉄の扉が階段の先にある。
そこからふと見上げると、縁のあたりに、細い肩と黒い髪が見える。
彼女はいつも、そこにいるだけで絵のようだった。
隣人の名前は篠宮しのぶさんという。
名前の響きはやわらかいのに、本人は驚くほど静かで、整っていて、どこか優雅だった。
すれ違うたびに香る石けんの匂い。
買い物帰りの紙袋を両手で持つ姿勢。
エレベーターのない古い建物の階段を上るときでさえ、彼女の背筋は少しも崩れなかった。
私は、日本人の、たぶんかなり可愛い部類に入る女子大生だ。
自分でそう言うのは少し気恥ずかしいけれど、昔から、笑うと頬がやわらかくなるとか、目元が華やかだとか、そういうことをよく言われてきた。
けれど、可愛いことと、優雅であることは違う。
私はせわしなくて、うっかりしていて、課題の締切を忘れそうになったり、洗濯物を取り込むのを遅らせたりする。
そういう雑味のある生活が、いつも自分にはついて回っていた。
だからこそ、篠宮さんに惹かれたのだと思う。
彼女は生活の中にいて、それでいて生活に飲まれない。
夜の空気に溶けるように見えて、ちゃんと自分の輪郭を持っている。
そんな人を、私はただの「隣人」として見ることができなかった。
最初に彼女ときちんと話したのは、秋の終わりだった。
引っ越しのトラックが狭い道に停まり、段ボールを運ぶ声が夕方の空気に響いていた日。
私はちょうど図書館から戻ったところで、廊下に出ると、隣の部屋のドアの前に立つ彼女と目が合った。
「こんにちは。これからお世話になります」
彼女は、送り状の束を片手に、ひどく自然にそう言った。
そのときの笑顔は、派手ではないのに忘れにくいものだった。
まっすぐなのに、まぶしすぎない。
落ち着いているのに、冷たくない。
「こんにちは。こちらこそ、よろしくお願いします」
私はそれだけ言って、すぐに自分の部屋へ逃げ込むように戻った。
それなのに、その夜ずっと、あの声の高さや間の取り方を思い返していた。
それから何度か廊下ですれ違ううちに、私は彼女が夜の時間を大切にしている人だと知った。
昼間は姿を見ない。
夕方には帰ってくるが、すぐに部屋へ閉じこもるわけでもない。
むしろ、夜が深くなるにつれて、彼女は自分の場所を広げるみたいに外へ出ていく。
最初に異変に気づいたのは、冬の始まりだった。
夜遅く帰ってきた私が、階段の途中でふと屋上の扉を見上げると、隙間から淡い白い光がこぼれていた。
街灯の色ではない。
もっと薄く、もっと静かな光。
私は立ち止まり、息を殺した。
扉の向こうには、篠宮さんがいた。
彼女は屋上の縁の近くに置いた洗い桶の前で、長い白い布を水に沈めていた。
月はほとんど満ちていて、空は驚くほど澄んでいた。
布の表面に月光が落ちるたび、まるで水そのものが光を吸い込んでいるようだった。
彼女は布を持ち上げ、両手でやさしく絞る。
すると、細い銀の糸のようなものが、ぽたりと桶へ落ちた。
私は、あまりの光景にしばらく動けなかった。
「見られちゃった」
振り向いた彼女は、少し困ったような、それでもどこか楽しげな顔をしていた。
私は慌てて、足元の段を踏み外しそうになった。
「あ、あの、今の……」
「驚くよね」
「月の光、ですよね」
「そう見える?」
「見えます」
彼女は布をもう一度ゆっくり持ち上げた。
本当に月の光を洗っているように見えた。
いや、そうとしか見えなかった。
「月の光って、洗うんですか」
ようやくそう尋ねると、彼女は小さくうなずいた。
「ええ。溜めっぱなしにすると、少し重くなるの」
「重く……」
「そう。だから、洗って干すの」
「……洗濯、なんですね」
「そうとも言うわね」
私は、その言葉のあまりの当たり前さに、かえって何も言えなくなった。
彼女は私の反応を見て、くすりと笑った。
「そんなに変?」
「変、というか……」
「うん?」
「すごく、きれいです」
そう答えると、彼女は少しだけ目を丸くして、それから本当にうれしそうに笑った。
その笑い方が、夜露のように静かだった。
「ありがとう。じゃあ、少しだけ手伝ってくれる?」
「えっ、いいんですか」
「見られたら、もう隠す理由もないし」
それが、私と篠宮さんの最初のまともな会話だった。
そしてその夜から、私は彼女の暮らしの気配を、少しずつ知るようになった。
篠宮さんは、月の精霊だった。
もちろん、最初からそう信じたわけではない。
けれど、説明のつかないことを何度も見てしまうと、人は案外すぐに「そういうものだ」と思ってしまう。
月の光を絞る白い布。
満月の夜にだけ現れる体の軽やかさ。
曇りの日に、少しずつ乱れていく息遣い。
それらを前にすると、月の精霊という言葉のほうが、むしろ自然だった。
彼女の部屋は、驚くほど普通だった。
小さな本棚。
白い食器。
安いけれど清潔なテーブル。
窓辺の観葉植物。
冷蔵庫の上に置かれたケトル。
屋上で月を洗う人の部屋としては、あまりに生活感がある。
でも、その普通さが、かえって彼女を本物にしていた。
「月って、どうして洗うんですか」
ある晩、私は屋上で彼女の隣に座りながら聞いた。
その日は満月で、コンクリートの床まで淡く白かった。
洗い桶には、水がなみなみと張られている。
彼女はその水面を指先でそっと撫でながら答えた。
「月の光は、ためっぱなしにすると、生活がちょっと偏るの」
「生活、ですか」
「眠りすぎたり、食べすぎたり、悲しくなりすぎたり。そういうのが、少しずつ増える」
「月のせいなんですか」
「半分はね。残り半分は、体質」
「体質?」
「ええ。私は月に近すぎるの」
その言い方は、冗談なのか本気なのかわからないくらい、あっさりしていた。
けれど、彼女は本気でそう言っているのだと、私はすぐにわかった。
「満月のころは、いちばん調子がいいの」
「そうなんですか」
「ええ。夜が明るいから。家事がしやすいし、気持ちも整う」
「月って、家事に関係あるんですね」
「かなりあるわよ」
私は思わず笑ってしまった。
月の精霊の口から出る言葉とは思えないほど、生活の話だったからだ。
でもその生活の話が、なぜだか好きだった。
彼女は、宇宙の広大さや神秘を語る人ではない。
昼の道路が渋滞しているとか、大新聞より夕刊紙のほうが面白いとか、卵は半熟より少し固めがいいとか、そういうことを静かに言う。
女子大生の私には、正直よくわからないことも多い。
けれど、わからないまま聞いているのが心地よかった。
彼女の言葉は、遠い場所の話ではなく、私の暮らしの隣に置ける感じがした。
「夕刊紙、読むんですか」
ある夜、私がそう聞くと、彼女は少し驚いた顔をした。
「読むわよ」
「意外です」
「なぜ?」
「なんとなく……もっと難しいものを読んでそう」
「難しいものは疲れるでしょう」
「それはそうです」
「夕刊はちょうどいいの。大きなニュースが、少しだけ小さく見える」
「なるほど」
「道路の渋滞もね、夜になると、あの人たちもみんな少し機嫌が悪いでしょう」
「わかる気がします」
「そういうのを見るのが、案外好きなのよ」
私は、その「案外好き」という言い方がとても好きだった。
好きだと大げさに言わない。
でも、たしかに好き。
そういう控えめな肯定が、彼女の生活そのもののようだった。
それから私は、遅く帰る夜が楽しみになった。
屋上に彼女がいるかもしれない。
いれば、少しだけ話ができるかもしれない。
そんな期待を抱いてしまう自分が、少し可笑しくもあった。
冬は空気が澄んでいて、月がきれいだった。
私は講義のあと図書館に寄り、レポートを書き、駅前のスーパーで安い豆腐やキャベツを買って帰る。
アパートへ戻ると、階段の途中で屋上のほうを見上げる。
そこに白い布が干されていれば、彼女がいる合図だった。
「こんばんは」
そう声をかけると、彼女はたいてい、振り向きながらこう返す。
「おかえり」
その言い方が、私はたまらなく好きだった。
満月の夜は、篠宮さんの台所がいちばん賑やかになる。
白い器。
湯気の立つ鍋。
切った野菜。
小さな音で沸くケトル。
月の光を洗ったあと、彼女は私にご飯を勧めることが増えた。
「一緒にご飯食べない?」
「え、いいんですか」
「ひとりで食べるには少し多いの」
その誘い方が、あまりに自然だった。
月の精霊に夕飯へ誘われるのに、私はなぜか少しも構えなかった。
それどころか、その言葉を聞くたび、胸の奥がふっとあたたかくなる。
鶏とねぎのスープ。
卵とじのうどん。
焼いた厚揚げ。
安いトマトを切っただけの皿。
特別な料理ではない。
でも、篠宮さんの食卓には、どういうわけか上品さがあった。
料理の味つけも、器の置き方も、箸のそろえ方も、全部が静かだった。
「月を洗う人のごはんって、もっと変わってるのかと思ってました」
私がそう言うと、彼女はくすりと笑った。
「変わったものを食べると、体がびっくりするでしょう」
「しますかね」
「するわよ。月だってそう」
「月もびっくりするんですか」
「すると思う。だから、普通のもののほうがいいの」
その答えが、なぜかすごく好きだった。
普通のもののほうがいい。
その言い方には、彼女の生き方がそのままにじんでいた。
「一緒にお茶飲まない?」
土日の昼には、彼女はそう言ってくれることもあった。
昼の彼女は、夜より少しだけ柔らかい。
窓辺の光の中で、髪をゆるく結び、湯のみを両手で包む。
ときどき、カーテン越しに風が入る。
そのたびに、白いレースが小さく揺れた。
「遅く帰ってくるの、楽しみなの」
ある昼、彼女がそう言った。
私は湯のみを持つ手を止めた。
「え」
「話し相手がいると、月のことを忘れすぎなくて済むから」
「私でいいんですか」
「あなたがいいの」
「……うれしいです」
「そう」
篠宮さんはそれ以上何も言わなかった。
でも、その一言だけで十分だった。
私はそのとき、自分が彼女にとってただの隣人ではなくなりつつあることを、うっすら感じていた。
そんなふうに、静かな夜が積もっていくはずだった。
けれど、季節は曇りを連れてきた。
六月に入ると、空は少しずつ鈍くなった。
雨が降るわけではないのに、月だけが見えない夜が増えていく。
雲が厚く、星も隠れ、空全体がぼんやりと重たくなる。
私はそれを、ただの梅雨前の気配だと思っていた。
でも篠宮さんにとっては、違った。
最初の変化は、ほんの小さなものだった。
洗い桶の位置が少しずれる。
布のたたみ方が、いつもより揃わない。
お茶を淹れる間が、少し長くなる。
笑うタイミングが、わずかに遅れる。
私は最初、疲れているのだと思った。
けれど、曇りの日が重なるにつれ、彼女の調子は目に見えて崩れていった。
夜になると眠れない。
朝になるとやけに眠い。
食欲が不安定になる。
屋上へ出ても、すぐに肩を押さえて座り込む。
それでも彼女は洗濯をやめなかった。
「今日はやめましょう」
私がそう言っても、彼女は首を振る。
「だめ」
「どうしてですか」
「止めると、明日がもっと重くなる」
「こんなにふらふらなのに」
「ふらふらだから、やるの」
その言い方は、少し頑固で、少し子どもっぽかった。
私は、彼女がこんなふうに意地を張るところを初めて見た。
ある夜、私は図書館で遅くまでレポートを書き、帰り道の途中で空を見上げた。
雲は薄く、月の輪郭は見えない。
私はなぜだか胸騒ぎがして、急いでアパートへ戻った。
屋上の扉は半開きだった。
私は足音を抑えながら階段を上がり、そっと扉を押した。
篠宮さんは、洗い桶のそばに片手をつき、もう片方の手で白い布を持っていた。
けれど、その姿はいつものように美しいとは言えなかった。
肩が少し落ちている。
髪をまとめる手つきも、どこかゆるい。
そして、顔色が少し青い。
「篠宮さん」
私が駆け寄ると、彼女はゆっくり顔を上げた。
「……おかえり」
「大丈夫ですか」
「少し、遅かっただけ」
「少しじゃないです」
「そうね」
彼女は、弱々しく笑った。
その笑い方が、普段の彼女とはあまりに違っていて、私は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。
「今日はやめましょう」
「だめよ」
「どうして」
「曇っていても、少しは洗わないと」
「でも、こんなにしんどそうなのに」
「しんどいわ」
「じゃあ」
「でも、月の光は完全には消えないの。見えないだけ」
「……」
「見えないからこそ、洗わないと」
私は、何も言えなくなった。
彼女は、ひどく静かに、自分の弱さを受け入れていた。
それが痛々しくもあり、同時に強くも見えた。
「何かできること、ありますか」
ようやくそう尋ねると、彼女は少しだけ目を閉じた。
「ここにいて」
「え」
「あなたがいると、少し楽になる」
「それだけでいいんですか」
「それがいいの」
私は、屋上の縁に並んで座った。
雲の下の空は重く、夜風は湿っていた。
月のない夜だった。
それなのに、彼女の横顔は妙に美しく見えた。
たぶん、それは弱っているからではない。
自分の崩れかけた体調を隠そうとせず、それでも夜をやり過ごそうとしているからだ。
「月が見えないと、本当にそんなに違うんですか」
私は小さく聞いた。
篠宮さんは、少し考えてから答えた。
「輪郭がぼやけるの」
「輪郭」
「自分の境目が、少し溶ける感じ」
「怖いですか」
「怖いわ」
「……」
「でも、怖いからこそ、洗うのよ」
その答えが、胸に深く落ちた。
私は、彼女の手の甲にそっと触れた。
冷えていた。
でも、その冷たさの奥に、確かに生きている熱がある。
曇りは、思ったより長く続いた。
晴れそうで晴れない空。
雨は降らないのに、空気だけが湿っている夜。
私は大学から帰るたび、彼女の部屋を気にした。
屋上に布が干してあるか。
電気がついているか。
窓のカーテンが少し開いているか。
そういうことばかり見てしまう。
そして、彼女のほうも、私の帰りを待っているようだった。
「一緒にご飯食べない?」
遅い夜にそう声をかけられると、私はほとんど迷わず頷いた。
簡単なうどん。
卵スープ。
レンジで温めた焼売。
そういう、素朴な食事が増えた。
彼女は食べることを疎かにしない。
むしろ、調子が悪いときほど、食卓を整えようとしていた。
「気分が落ちるときほど、ちゃんと食べるの」
彼女はそう言った。
「どうしてですか」
「食べないと、月が戻るときに間に合わないから」
「そんなに大事なんですか」
「ええ」
私はそのころになって、ようやく彼女の生活が、月の満ち欠けとほんとうに結びついているのだと理解しはじめた。
月が出る。
彼女は整う。
月が隠れる。
彼女は少しずつ崩れる。
それは感情の問題ではなく、呼吸や体温に近いものなのだ。
だからこそ、私は彼女のことを、余計に放っておけなくなった。
ある土曜日の昼、私はスーパーで買った小さなプリンと、安い桃をひとつ持って彼女の部屋を訪ねた。
チャイムを鳴らすと、少ししてからドアが開いた。
彼女は薄いカーディガンを羽織っていて、目の下に少し影があった。
「一緒にお茶飲まない?」
彼女が先にそう言った。
私は、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「はい。ちょうど、プリン持ってきました」
「まあ、うれしい」
「桃も」
「あなた、今日は優しいわね」
「いつも優しいです」
「そうね。そういうことにしておく」
昼の彼女の部屋は、カーテン越しの光に満ちていた。
テーブルの上には、湯のみと小皿、そして私が持ってきたプリン。
お茶を注ぐ彼女の手は少し細く見えた。
「曇りが続くと、やっぱりしんどいですか」
私は尋ねた。
彼女は湯のみを両手で包みながら、少しだけ黙った。
「しんどいわ」
「……」
「でも、悪いことばかりじゃないの」
「どういうことですか」
「曇っていると、人の気配がよく見えるの」
「人の気配?」
「ええ。窓を閉めた部屋の灯り。誰かが洗濯機を回している音。帰ってくる靴音。そういうの」
「なんか、いいですね」
「いいでしょう」
「月がなくても、ちゃんと夜はあるんですね」
「もちろん」
私は、その言葉を聞いて、なぜだか少し泣きそうになった。
彼女は月の精霊なのに、月のない夜をこんなふうに語る。
それは、諦めではなかった。
むしろ、欠けたものの中に残る生活を、ちゃんと見ている目だった。
曇り空の季節がいよいよ重くなったころ、篠宮さんはとうとう屋上に上がれない夜を迎えた。
階段の途中で立ち止まり、手すりに額を寄せるようにして、しばらく動けない。
私は背中に手を添えながら、どうしたらいいのかわからずにいた。
「今日は、無理しないで」
「……だめね」
「だめじゃないです」
「だめよ。ここまで来たのに」
「休みましょう」
「休むと、月が遠くなる」
その言葉を聞いたとき、私は、はじめてはっきりと恐ろしいと思った。
月が遠くなること。
彼女の生活の輪郭が、失われていくこと。
それは、天体の話ではなく、彼女自身が少しずつ薄くなっていくことに近かった。
「だったら、私がここにいます」
私は思わず言った。
篠宮さんが顔を上げる。
少し驚いたような目だった。
「あなたが」
「はい」
「何をしてくれるの」
「何もできないかもしれないけど」
「……」
「月が見えなくても、いっしょにいます」
「それは」
「だめですか」
「だめじゃないわ」
彼女は、少しだけ笑った。
その笑い方は、疲れているのに、あたたかかった。
その夜は、屋上まで行かず、彼女の部屋で過ごした。
私は近くのコンビニで温かいスープを買って戻り、彼女はそれを見て、まるで当然のように「ありがとう」と言った。
窓の外は曇っていて、空の輪郭はない。
でも部屋の中には小さな灯りがあり、テーブルがあり、湯気があった。
「月の光を洗えない夜って、どうやって過ごすんですか」
私が聞くと、彼女は少し考えてから答えた。
「待つの」
「待つだけ?」
「ええ。待つだけでは足りないから、食べて、寝て、お茶を飲んで、誰かと話すの」
「誰かと」
「そう。そうすると、月が戻ってきたときに、すぐ気づけるから」
「……」
「人の声って、結構大事なのよ」
私は、その言葉をずっと覚えていた。
月の光は、ひとりでは洗いきれない。
誰かの声が必要だ。
その事実が、私にはとても大切なものに思えた。
やがて、空が少しずつ割れはじめた。
朝の雲が薄くなる。
夕方の空に、ほんのわずかな青が戻る。
夜の端に、月の気配がにじむ。
その変化は小さかったけれど、篠宮さんの顔色には、はっきりと違いが出た。
彼女はある夜、洗い桶の前で深く息を吐いた。
その日は雲がまだ残っていたが、空の向こうに月の輪郭がうっすら見えた。
「来るわ」
彼女がつぶやく。
「月ですか」
「ええ。やっと」
「よかった」
「ほんとうに」
その声は、心から安堵している響きだった。
私は隣で桶を支えながら、布を一枚持ち上げた。
湿った白布に、薄い月光が落ちる。
彼女はそれを受けて、丁寧に絞った。
水滴が、ぽたりと落ちる。
その音が、久しぶりに澄んで聞こえた。
「もう少し」
彼女が言う。
「はい」
「この布が終われば、だいぶ軽くなる」
「本当に?」
「ええ。月は、戻ってくるたびに少しやさしいの」
私はその言葉に、何かを確かめるようにうなずいた。
月はただ照らすだけのものではない。
彼女の生活を支え、乱し、また整える。
まるで呼吸のように。
洗濯が終わるころには、雲の切れ間が広がっていた。
そしてついに、満月がそのまるい顔を出した。
「あ……」
思わず声が漏れた。
篠宮さんは、月を見上げたまま、ほんの少しだけ目を細めた。
その横顔は、いつも以上に美しかった。
いや、美しいだけでは足りない。
長く曇りの中にいた人が、ようやく自分の輪郭を取り戻す瞬間の顔だった。
「やっと来たわね」
「遅かったですね」
「ええ。長かった」
彼女はそう言って、ゆっくりと布を物干し竿へかけた。
月明かりを吸った白布が、夜の風に揺れる。
その光景は、派手ではないのに、胸に深く残った。
「大丈夫ですか」
私が尋ねると、彼女はうなずいた。
「今なら、だいぶいい」
「よかった」
「あなたがいてくれたから」
「え」
「曇っているあいだ、ひとりだったら少し危なかった」
「……」
「でも、ここにいてくれた」
「そんなの」
「大きいのよ」
その言葉を聞いた瞬間、私はもう自分の気持ちをごまかせなくなった。
彼女を見上げるたびに感じていた憧れ。
夜に会えるのがうれしい気持ち。
ご飯を一緒に食べるだけで落ち着くこと。
それらが、静かにひとつの形へまとまっていく。
「篠宮さん」
「なあに」
「私、あなたのこと、すごく好きです」
言ってしまってから、自分でも驚いた。
でも、不思議と後悔はなかった。
彼女は少しだけ目を見開いて、そして、ゆっくり笑った。
「うん」
「え」
「知ってる」
「えっ」
「顔に出てたもの」
「うそ」
「ほんとう」
私は、恥ずかしくて、でもうれしくて、どうしたらいいかわからなくなった。
篠宮さんは、そんな私を見て、くすくすと小さく笑った。
「好きの形がまだはっきりしていなくても、大丈夫よ」
「……そんなことまで」
「月の満ち欠けみたいなものだもの」
「それ、うまいこと言いました?」
「言ったかしら」
「言いました」
「なら、覚えておいて」
その夜、私たちは屋上でお茶を飲んだ。
紙コップではない。
篠宮さんのお気に入りの小さな湯のみ。
ほうじ茶の香り。
洗い終えた布が風に揺れる音。
見上げれば、くっきりとした満月。
街の明かりは静かで、車の音も遠かった。
「月って、やっぱり近いですね」
私が言うと、彼女は空を見たまま答えた。
「ええ。遠いようで、暮らしのすぐ上にある」
「洗濯機の上みたいですね」
「ふふ。少し違うけれど、悪くない言い方ね」
私は笑った。
彼女も笑った。
その笑い声は静かで、屋上の夜にそのまま溶けていった。
しばらくして、彼女は私のほうを向いた。
「ねえ」
「はい」
「今夜は、一緒にご飯食べない?」
「……はい」
「それと」
「はい」
「もし眠くなかったら、少し月を見ていきなさい」
「見ます」
「じゃあ、決まり」
その声は、いつもと同じように穏やかだった。
でも私には、その穏やかさの中に、はっきりとしたやさしさがあるとわかった。
月を洗う人の手。
曇りの日を耐える体。
夜の屋上で待っていてくれる気配。
それら全部が、彼女の優しさなのだと思った。
それからの日々、篠宮さんの暮らしは少しずつ整っていった。
晴れれば、屋上へ上がる。
曇れば、無理はしない。
食べられるときに食べる。
眠れるときに眠る。
洗いたいときに洗う。
そういう、あたりまえのことを、彼女はあたりまえに続けた。
私は相変わらず大学へ通い、レポートに追われ、スーパーで安い食材を選び、夜遅くに帰る。
でも、以前のようにただ疲れるだけではなかった。
帰る先に、屋上の気配がある。
誰かが月を洗い、部屋でお茶を淹れ、私を待っている。
それだけで、夜は少しやさしくなる。
遅い夜には、彼女が「ご飯食べない?」と声をかけてくれる。
土日の昼には、「お茶飲まない?」と誘ってくれる。
そのたびに、私はうれしくなる。
うれしさの形は、まだうまく言えない。
けれど、それでいいのだと思う。
ある夜、私は部屋のベランダで洗濯物を取り込みながら、ふと空を見た。
月は半分だけ出ていた。
その光を見ていると、隣の部屋から湯気の立つ匂いがした。
扉を開ければ、きっと篠宮さんはいる。
今日もまた、「おかえり」と言ってくれるだろう。
私は、そのあたりまえが、どれほど得がたいものかを知ってしまった。
月は、ただ遠くで光る天体ではない。
暮らしの上にあり、眠りに触れ、洗濯物に染み込み、食卓を静かに照らす。
そしてときどき、人の心まで少しだけ洗い直してしまう。
私は今でも、遅く帰る夜が好きだ。
屋上に月があれば、篠宮さんはそこにいる。
いなければ、部屋の中でお茶を淹れている。
どちらでもいい。
彼女がこのアパートにいて、私を待っていて、夜の中で生活を続けている。
それだけで、私はちゃんと帰ってこられる。
終わりではない。
たぶん、これからも何度も曇るし、何度も晴れる。
月の光はまた溜まり、また洗われる。
そして私は、そのたびに屋上へ上がるのだろう。
隣人の美しい女性に会いに。
あの優雅で、静かで、少し不思議で、でもどこにでもありそうな夜へ。

