記録されない未来予報士 【ショートショート】
市役所別館の三階、窓際の席が私の定位置だった。
エアコンの効きが悪く、午後になると書類の紙が少しだけ湿気を帯びる。
その程度の不便さが、この部署のすべてだった。
未来予測支援課。
正式にはもっと長い名称だが、誰も正確に覚えていない。
災害予測、人口動態、医療費、犯罪発生率。
国の中枢で稼働する予測AI――通称オラクル――が算出した結果を、自治体向けに整形する仕事だ。
私たちは未来を決めているわけではない。
ただ、すでに決まった未来を読みやすく並べ替えているだけだった。
その日、私は自分の名前を検索した。
理由は些細な好奇心だった。
同僚の佐伯が、笑いながら言ったのだ。
「俺さ、オラクル的には来年結婚するらしい。相手の年齢差まで出てて、ちょっと怖い」
冗談半分で、自分のデータも見てみたくなった。
それだけだった。
検索窓に名前を入力し、エンターキーを押す。
一秒。
二秒。
画面は静止したまま、やがて短い一文を表示した。
《該当する予測データは存在しません》
最初は、打ち間違いだと思った。
漢字を変え、ひらがなにし、生年月日を添えて再検索する。
それでも結果は同じだった。
エラー表示は出ない。
「未登録」「欠損」「要確認」といった警告もない。
ただ、何もない。
「ねえ、これってさ……」
隣の席の佐伯に画面を見せると、彼は少し眉をひそめてから、肩をすくめた。
「たまにあるよ。初期登録がうまくいってない人。珍しいけど、別に問題ない」
「問題、ないの?」
「だって普通に生きてるだろ?」
それ以上の説明はなかった。
確かに私は、これまで特別な不自由を感じたことはない。
健康で、仕事もあり、未来予測どおりでなくても人生は進んでいた。
それなのに、その日を境に、些細な違和感が積み重なり始めた。
佐伯は、結婚予測を外した。
相手が現れなかったわけではない。
むしろ逆で、半年後には別の人と付き合い始め、予測されていた年齢差とも職業とも違っていた。
高校時代の友人は、事故に遭うはずだった。
オラクルの地域予測では、彼女の通勤ルートで大きな衝突事故が起きるとされていた。
だが、彼女はその日、たまたま私と電話で長話をし、一本遅い電車に乗った。
「なんか助かった気がする」
電話越しに、冗談めかして言われたとき、胸の奥が冷えた。
偶然だと思おうとした。
人は予測を外す生き物だ。
オラクルだって万能ではない。
けれど、共通点がひとつだけあった。
彼らは皆、私と関わった直後に未来を外していた。
答えに近づいたのは、古い研究資料を整理していたときだった。
開発初期の設計思想をまとめた文書の中に、短い脚注を見つけた。
《観測されない対象については、未来予測を行わない》
観測されない対象。
そんなものが、今の社会に存在するのだろうか。
資料の著者名を辿り、私は一人の元研究者を訪ねた。
郊外の小さな喫茶店で、彼はコーヒーをゆっくりかき混ぜながら言った。
「あなたは未来を変えているわけじゃない」
穏やかな声だった。
「未来は、最初から決まってなんかいない。ただ、観測された瞬間に“決まったように見える”だけだ」
「じゃあ、私は……」
「観測されていない。正確には、観測の網から落ちた存在だ」
彼は説明した。
オラクルは、あらゆるデータを基に未来を予測する。
しかし、それは観測可能な範囲に限られる。
出生、医療、教育、行動履歴。そのどこかで、私のデータは結びつかなかった。
「あなたが誰かと関わると、その人の未来も一時的に観測不能になる。だから、予測が外れる」
「それって……危険じゃないんですか」
「危険かどうかは、価値観次第だ」
彼は少し笑った。
「安定した社会には不向きだ。でも、自由には近い」
数日後、私は正式に呼び出された。
登録手続きの案内だった。
責められもしなかったし、脅されもしない。
ただ、淡々とメリットが説明された。
私が登録されれば、周囲の予測精度は向上する。
社会はより正確に、効率的になる。
「あなた自身の人生も、より最適化されます」
担当者の声は、誠実だった。
私は迷った。
自分が普通になれば、世界は少し良くなる。
合理的で、正しい選択に思えた。
でも、あの電話の向こうの声を思い出した。
「助かった気がする」と言った友人の笑い声。
「少し考えさせてください」
その夜、雨が降った。
予測にはなかった、小さな通り雨だった。
私は登録しなかった。
理由は説明できるほど立派なものではない。
ただ、誰かの未来が、ほんの一瞬でも自由になるなら。
観測されない余白が残るなら。
それでいいと思った。
翌日、カフェで見知らぬ人と他愛のない会話を交わす。
窓の外で、雨がやむ。
遠くのサーバーで、オラクルが一行の注記を残す。
《予測不能:人為的要因》
私はそれを知らないまま、コーヒーを飲み干した。

登録しない選択は、反抗ではない。
ただ誰かの明日が、ほんの少し自由になることを願っただけだ。
雨上がりの街で、外した指輪がその証拠のように光っていた。
