見出し画像

春は一度しか来ない世界

プロローグ

この世界では、人生で一度しか春が来ない。

暦の話ではない。
気候の話でもない。

それは――
身体と心が、はじめて完全に一致する瞬間。

その日、桜は一瞬だけ満開になる。
誰にでも訪れるわけではない。
待ち続けて終わる者もいる。

高校二年の春。
如月 凪(きさらぎ なぎ)は、まだ春を迎えていなかった。

クラスメイトたちは、次々と「春」を迎えていく。
急に表情が変わる。
声が落ち着く。
歩き方が決まる。

何より、迷いが消える。

凪だけが、置いていかれていた。

鏡を見るたび、微かな違和感が胸に刺さる。
制服の襟元が、どこか他人のもののように思える。

――自分の春は、どこにあるのだろう。

校庭の桜は、まだ三分咲きだった。


春を迎えた人たち

春を迎えた人間は、静かになる。

それがこの世界の共通認識だった。

騒がしく変わるのではない。
むしろ逆だ。

迷いが消えることで、余計な音がなくなる。

クラスメイトの真琴が春を迎えた日、彼は突然、柔らかな声でこう言った。

「やっと、自分の高さに立てた気がする」

背丈も、顔立ちも変わっていない。
けれど、立ち姿がまるで違った。

凪は屋上へ向かう。

ここは、まだ春を迎えていない者が来る場所だった。

そこに、一人の少女がいた。

白いブラウスに、薄いカーディガン。
長い黒髪が風に揺れている。

凪は見覚えがない。

「あなたも、まだ?」

少女は微笑んだ。

「うん。まだ。でもね」

彼女は空を見上げる。

「春は待つものじゃない。選ぶものだよ」

その言葉は、どこか予言のように響いた。

凪は胸がざわめく。

選ぶ?

何を?

自分の身体は、今ここにある。
変えられないものだと思ってきた。

少女は言う。

「あなた、鏡を見るとき、少しだけ呼吸が浅くなるでしょう?」

図星だった。

「春はね、外から来る奇跡じゃない。自分に許可を出したときに、来るの」

風が吹く。

桜が一枚、屋上に落ちた。

凪は、はじめてその少女の瞳に、深い決意を見た。


置いていかれる感覚

それから、凪は少女――名を春待(はるまち)と知る――と、屋上で話すようになる。

春待は不思議な存在だった。
クラスも学年も違うらしいが、誰も彼女のことを詳しく知らない。

「焦ってるでしょう?」

春待は言う。

「……うん」

周囲はどんどん変わっていく。
男子は低い声を受け入れ、女子は自分の輪郭を肯定する。

凪は、どちらにも立てなかった。

制服を着るたび、胸の奥で何かが縮む。
女子のスカートが風に揺れるのを見るたび、理由のわからない羨望が刺さる。

春待は言う。

「あなたの春は、もうすぐだよ」
「どうしてわかるの?」
「目が、もう選びかけてるから」

凪は、自分の名前を心の中で何度も唱える。

如月凪。

けれど、その音が、少しだけ遠い。

夜、自室で鏡を見る。

そっと囁く。

「もし、選べるなら――」

その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

春待の言葉が響く。

――許可を出したときに、来る。

凪は、はじめて自分に問いかける。

「本当は、どうなりたい?」

答えは、ずっと前からあった。

怖くて、見ないふりをしていただけだ。


春を選ぶ

三月最後の日。

校庭の桜は、まだ五分咲き。

その夜、凪は屋上へ向かう。

春待が立っていた。

「決めた?」

凪は震える声で言う。

「うん」

風が止む。

世界が静まる。

凪は目を閉じ、はっきりと告げる。

「私は――春を選ぶ」

その瞬間、桜が一斉に開いた。

音もなく、夜空いっぱいに。

光が降るわけでもない。
UFOも現れない。

ただ、身体の奥から、ゆっくりと何かが再配置されていく。

痛みはない。

むしろ、安堵。

骨格が整い、輪郭がやわらぐ。
髪が流れ落ちる。

制服はそのままなのに、中身が違う。

凪は目を開ける。

春待が、涙ぐんで笑っている。

「おめでとう、凪咲」

その名前は、ずっと前から心にあった。

如月 凪咲(きさらぎ なぎさ)。

鏡はない。
けれど、自分が“思い切り美少女”になっていることを、凪咲は感覚で理解していた。

長い黒髪。
透き通る肌。
しなやかな指先。

だが何より違うのは――
呼吸が深いこと。

世界と、ぴたりと重なっている。

桜は満開になり、
そして一瞬で散った。


一致するということ

翌朝。

教室に入ると、空気が変わる。

誰も驚かない。

この世界では、春は自然現象だから。

「如月さん」

そう呼ばれる。

違和感はない。

凪咲は席に座る。

制服は少し直され、
スカートが揺れる。

窓に映る自分。

美しい少女が、穏やかに笑っている。

けれど凪咲は知っている。

これは奇跡ではない。

選んだ結果だ。

屋上へ向かう。

春待はいない。

ただ、屋上の柵に、
一枚の桜の花びらが残っている。

そこに、小さな文字。

――春は一度しか来ない。でも、選んだ人だけが迎える。

凪咲は空を見上げる。

もう焦りはない。

置いていかれることもない。

一致するというのは、
完璧になることではない。

揺らぎごと、抱きしめること。

春は、外から与えられるものではない。

自分で、自分を許すこと。

それが、春。


エピローグ

数年後。

大学のキャンパスに桜が咲く。

如月凪咲はベンチに座り、新入生たちを眺めている。

まだ春を迎えていない顔。
焦る視線。

あの日の自分と同じ。

一人の少年が、屋上を見上げている。

凪咲は立ち上がる。

「まだ?」

少年は驚く。

「……はい」

凪咲は微笑む。

「春はね、待つものじゃないの」

風が吹く。

花びらが舞う。

「選ぶものなのよ」

桜はまだ咲ききっていない。

けれど凪咲は知っている。

彼の春も、きっと訪れる。

世界には、一度しか来ない春がある。

けれどその瞬間は、自分で選べる。

如月凪だった少女は、如月凪咲として歩き出す。

春は、もう逃げない。

そして桜は、静かに、もう一度だけ揺れた。



一度きりの春は、空から降らない。
わたしが、わたしを選んだときに咲く

いいなと思ったら応援しよう!