地球文化調査員、進路希望欄に「かわいい文化」と書きかける
進路希望欄の空白
高校一年の十月、望月澪の机の上に、一枚の紙が置かれた。
「進路希望調査」と書かれた紙だった。
将来のことを、まだ形になっていないまま、いくつかの欄に書き込むための用紙。
一番上には、卒業後の大まかな進路。
大学、短大、専門学校、就職、その他。
その下には、興味のある学部・分野。
さらに、志望理由を書く欄が小さく用意されている。
教室のあちこちで、ボールペンの先が一斉に動き始めていた。
すでに具体的な大学名を書いている者もいれば、「まだ未定」と大きく書いている者もいる。
前の席では、誰かが「理系にする」「文系で迷ってる」と小声で話していた。
澪は、ペンを持ったまま止まっていた。
卒業後の進路――。
彼女の「卒業後」は、地球の高校というスケールより、ずっと長い。
宇宙人によって設計された人工生命体である澪には、老化がない。
十六歳の身体は、十年後も、二十年後も、見た目にはほとんど変化しない。
医学的な検査でも、細胞の劣化は検出されないだろう。
そういう設計になっている。
だが、ここではそういう話はしない。
ここで求められているのは、「三年後」だ。
卒業して数年先、どこで何をするか。
澪はあらためて紙を見た。
進路希望調査。
地球の高校の一年生は、十月にこういうものを書くらしい。
それ自体は、データとしてすでに知っていた。
だが、自分がそれを書く番になると、話は少し変わる。
澪は、上の欄に小さく○をつけた。
「大学進学(四年制)」。
手は迷わなかった。
高校を卒業したあと、どこかの大学に行きたい。
そう思っている自分は、確かにいた。
彼女は人工生命体であり、地球文化の調査員であり、任務は高校生の女子として暮らすことだった。
だが、その任務を「終えたあと」のことを、最近よく考えるようになっていた。
このまま地球の日本に残って、女の子として暮らしていきたい。
その考えは、任務からは少し外れる。
だが、完全に逸脱しているわけでもない。
日本の女子高生文化を調査する。
その延長として、日本の女子大生文化、日本の若い女性の生活文化を調査する。
そう考えれば、まだ許容範囲に見えた。
ただひとつ大きな問題がある。
十六歳の見た目が、変わらないことだ。
澪は、学部・分野の欄に目を移した。
「文学部・人文系」。
大学のパンフレットやネットの情報を見た限り、人文学の中には「文化」「表象」「言語」「ジェンダー」など、さまざまな分野があった。
そのどれもが、「かわいい」という概念を研究する余地を含んでいる。
日本の女子たちが使う「かわいい」。
服やメイク、キャラクター、仕草、言葉、記号、SNSの文化。
それは地球文化の中でも、特に複雑で、特に境界が曖昧な領域だった。
理系は、選択肢から外れていた。
主人公の星、つまり、澪を作った宇宙文明では、科学技術はすでに地球よりはるかに進んでいる。
物理法則、情報技術、生命工学――。
地球の理系の学問は、すでに理解したことの「再確認」にしかならない。
内蔵された知識を、そのまま出すわけにはいかない。
かといって、わざと理解していないふりをするのも、不自然だ。
文学部なら、まだ未知がある。
人間の感性、言語の揺らぎ、価値観の変遷。
特に「日本人の女の子の『かわいい』文化」は、データとしても、まだ輪郭がはっきりしない。
そこを調査することには意味がある。
少なくとも、澪はそう考えていた。
文学部。
その文字を、澪はゆっくりと書き込んだ。
進路希望調査の紙の上で、インクが淡く滲んだ。
家族会議、二度目
その日の夜、澪はリビングで両親に話をした。
茶の間のテーブルには、スーパーで値引きされた惣菜がいくつか並んでいる。
唐揚げ、ポテトサラダ、白身魚のフライ。
母がパート帰りに買ってきたもので、少し冷めているが、温め直せば十分におかずになる。
父はビールを飲んでいた。
テレビは消されている。
「進路希望調査を渡されました」
澪は、淡々と切り出した。
「もうそんな時期か」
父がグラスを置く。
母は箸を持ったまま顔を上げた。
「何て書いたの?」
「大学進学希望、文学部と記入しました」
澪は正直に答えた。
隠す必要はない。
むしろ、それを前提に話したかった。
「文学部」
母が少し目を細める。
「理系じゃないんだ」
「理系の内容は、ほとんど既知です」
「……そうだった」
父が苦笑した。
この家族にとって、「既知」という言葉は、地球の範囲を越える意味を持っている。
知らないふりをして暮らしているだけで、本当はかなりのことを知っている。
「文学部で何をしたいの?」
母の問いは、素朴だった。
澪は、あらかじめ整理していた言葉を口にした。
「日本人の女の子の『かわいい』文化を研究したいです」
父と母は、同時に固まった。
数秒の沈黙。
やがて、ほぼ同時に笑い出した。
「澪らしい」
「そう来たか」
澪は、少しだけ首をかしげた。
「おかしいですか」
「おかしくはないよ」
母は箸を置き、真面目な顔に戻る。
「でも、あんたらしいなって」
「あなたの任務に、一番近い気はする」
父も頷いた。
「かわいい文化は、たしかに日本の女の子の中心にあるもんね」
澪は、静かに頷いた。
「はい。服装、言動、写真、SNS、グッズ、すべてに『かわいい』が関係しています。
それを解読することは、地球文化の理解に有用だと考えます」
父はビールをひと口飲んでから、テーブルに置いた。
「でも、その前に問題がある」
ハの字に置かれた箸の先が、わずかに揺れる。
「このまま地球に残りたい、って話だろ?」
澪は黙った。
質問としては正しい。
答えとしても、もう準備している。
「はい。このまま、日本に残って暮らしたいと考えています」
母は息を吸い、少し置いてから吐いた。
「澪」
名前を呼ぶ声は、いつもより少し大人びていた。
「あなたは人工生命体よ」
「はい」
「見た目は十六歳の日本人の女の子だけど、この姿のまま、何年も何十年も変わらない」
「はい」
「それは、不自然なの」
母の声は、責めてはいない。
ただ、事実を確認しているだけだった。
父も続ける。
「人間の高校生は、二十歳になれば顔つきも変わるし、三十歳、四十歳と、年齢なりの変化が出る。クラスメイトは大人になっていくのに、お前だけ今のままっていうのは、たぶん、どこかでおかしく見える」
澪は、その通りだと思っていた。
すでに何度も自分でシミュレーションしたことだ。
同じクラスの誰かが、将来的に母親になったとする。
別の誰かが、別の町に引っ越す。
就職し、結婚し、子どもができる。
そのとき、十年前と変わらない顔で現れる同級生がいたら――。
不自然だ。
疑われる。
噂になる。
調査される。
正体が露見する可能性は高い。
「その点は認識しています」
澪は、静かに言った。
「でも、なんとかならないでしょうか」
母が少し眉をひそめる。
「なんとか?」
「任務としての調査が終わっても、地球に残る方法はないか、一緒に考えてほしいです」
哀願、という言葉が似合うかどうかはわからない。
だが、自分の声が少しだけ低くなるのが、澪にはわかった。
父と母は顔を見合わせた。
父は腕を組み、天井を一度見上げた。
母はテーブルの上の惣菜をひとつ、片付けるように箸で寄せた。
「次回の連絡のとき、話してみる」
父が言った。
「本星への報告のとき、その件も一緒に伝える」
「すぐに答えは出ないと思うけどな」
母も頷く。
「でも、言わないままよりいい。ね?」
澪は小さくうなずいた。
「お願いします」
それで、その夜の家族会議は終わった。
結論は出ていない。
だが、「伝える」という約束だけが残った。
澪の中では、それだけでも少し前進に思えた。
担任との二者面談
十月の半ば、進路希望調査をもとにした二者面談が行われた。
放課後の教室。
一人ずつ名前を呼ばれ、担任の席の前に置かれた椅子に座る。
窓の外では、夕陽が少し傾いている。
黒板の文字は半分ほど消されていて、教室は日中より静かだ。
澪が呼ばれたとき、担任は、彼女の進路希望票をもう一度確認していた。
「文学部志望になってるね」
「はい」
椅子に座ると、澪は背筋を伸ばした。
面談のマナーは、すでにデータとしても、生活の中でも身についている。
担任は四十代の男性教師で、普段は数学を教えている。
目元に少し笑い皺があり、話し方は穏やかだ。
彼は進路希望票を見ながら、ゆっくりと口を開いた。
「望月の成績なら、どこを目指しても大丈夫そうだね」
「そうですか」
「テストも安定してるし、授業中の理解度も高い。正直、どこの大学でも狙えると思うよ。日本に限らず、海外の大学でも」
それは、澪にとっては想定内の評価だった。
人工生命体としての処理能力を使えば、地球上の大学の入試問題は、ほとんど対応可能だ。
言語の問題もない。
英語、フランス語、中国語、アラビア語、その他の主要言語はすでに扱える。
だが問題は、そこではない。
「理系ではなく、文学部にした理由は?」
担任の問いは、まっすぐだった。
澪は少しだけ目を伏せてから、答えた。
「理系の内容は、ほとんど既知です」
担任が目を瞬いた。
「既知?」
「はい。今さら学習する必要性が低いと判断しました」
担任は数秒沈黙したあと、苦笑した。
「……そういう言い方をする高校一年生、なかなかいないな」
「そうですか」
「普通は逆なんだよ。理系のほうが未知が多いと思われがちで、文学や人文系は『役に立たない』みたいに言われることもある」
「はい。知っています」
「でも望月にとっては、理系のほうが“わかりきっている”わけだ」
「はい」
担任は少しだけ興味深そうに澪を見た。
彼女の真剣さは、冗談ではないとわかる。
テストの点だけでなく、日々の授業態度からも、理解度の高さは感じていた。
「文学部で、何をやりたい?」
澪は少しだけ呼吸を整えた。
ここをどこまで言うかは、事前に考えていた。
「日本人の女の子の『かわいい』文化を研究したいです」
担任の眉がわずかに上がった。
そして、すぐに元に戻る。
驚きと、納得と、少しの感心が混ざった顔だった。
「また、面白いことを言うね」
「面白いですか」
「僕は面白いと思う」
担任は紙に何かメモをとりながら、言葉を続けた。
「今の時代、『かわいい』って、ファッションだけじゃなくて、SNSやポップカルチャー全体に関わるキーワードになってるからね。真面目に研究してる人たちもいるよ」
「はい。文献は確認しました」
「さすが」
担任は小さく笑った。
「望月なら、文学部でも文化人類学でも、メディア論でも行けると思う。
ただ、ひとつだけ聞いておきたい」
「何でしょう」
「大学を出たあと、どうしたい?」
その問いには、澪の言葉が少しだけ遅れた。
大学を出たあと。
文学部で「かわいい文化」を研究し、そのあと何をするか。
地球に残るための方法は、まだ見つかっていない。
本星への報告で検討されるとしても、結果がどうなるかはわからない。
「まだ、正式には考えていません」
澪はそう答えた。
「ただ、このまま地球の文化を見続けたいとは思っています」
担任は、彼女の目を見た。
「このまま地球に?」
「はい」
「日本に?」
「はい」
彼は、少しだけ笑った。
「悪くないと思うよ」
「そうですか」
「今の世の中、どこへ行っても不安はあるし、どこにいても全部わかるわけじゃない。それでも、『ここで見続けたい』って思える場所があるのは、悪くない」
澪は、その言葉を静かに受け取った。
「ありがとうございます」
面談は、それで終わった。
明確な進路が決まったわけではない。
だが、「大学に行きたい」「文学部に興味がある」「地球にいたい」。
その三つだけは、紙の上にも、言葉の上にも、残った。
コミュニケーションの一歩遅れ
教室に戻ると、友人たちが面談の結果を聞いてきた。
「どうだった?」
「先生、なんか言ってた?」
澪は、少しだけ考えてから、簡潔に答えた。
「どこの大学でも行けると言われました」
「それはそうだろうね」
「成績いいし」
「文学部で何やるか聞かれました」
「なんて答えたの?」
「『かわいい文化を研究したい』と言いました」
友人たちは一瞬ぽかんとして、それから同時に笑い出した。
「やっぱりそういう方向なんだ」
「澪らしい」
「でも、面白そう」
澪は、彼女たちの反応を観察した。
笑いは、軽い。
でも、否定ではない。
からかいでもない。
むしろ、「らしさ」として受け取られている。
そのことは、澪にとって重要だった。
彼女は世界中の言語に対応できる。
英語も、フランス語も、中国語も、文法や語彙のレベルでは問題がない。
しかしいつも、目の前の会話では、一拍遅れることがあった。
冗談の意図に気づくまで、一秒かかる。
沈黙が冗談だと気づかないこともある。
暗黙の了解を理解するために、いくつかの可能性を頭の中で並べる時間が必要だ。
その一拍の遅れが、日常のあちこちで彼女の足を引っ張っていた。
一方で、ときどき逆のことも起こる。
誰もまだ言葉にしていないことを、先に理解してしまう。
相手がうまく説明できない感覚を言語化してしまいそうになる。
でも、それを口にすると、驚かれすぎる。
だから澪は、少しだけ抑える。
少しだけ遅らせる。
少しだけわからないふりをする。
そうやって、日々の会話をやり過ごしてきた。
「かわいい文化」を研究するには、フィールドワークが必要になるだろう。
現場で観察し、人に話を聞き、インタビューをして、言葉にならない感覚を引き出す。
そのときに、自分の「一拍遅れ」が障害になるかもしれない。
「コミュニケーションは、難しいです」
帰り道、澪は小さくつぶやいた。
隣を歩いていた友人が、顔を上げる。
「何か言った?」
「いえ。独り言です」
「そう?」
彼女は気にせず、コンビニの期間限定スイーツの話を続けた。
澪はそれを聞きながら、歩幅を揃えた。
人間のコミュニケーションは難しい。
その報告は、すでに何度も本星に送っている。
だが、そこにこそ、研究の価値がある。
夜の記録と小さな冗談
その夜、澪は机に向かい、端末に今日のことを記録した。
進路希望調査。
文学部志望。
かわいい文化の研究。
地球に残りたいという希望。
両親との会話。
本星への報告の約束。
担任との面談。
「どこでも行ける」と言われたこと。
コミュニケーションの一拍遅れ。
最後に、彼女は一行だけ冗談を書き加えた。
「UFO研究家になることも可能だが、それは絶対にしてはいけない」
端末の画面には、その一文が静かに表示された。
UFO研究家。
宇宙人とチャネリングができると本を出す人たち。
そういう人々を、澪は資料として何度か見たことがある。
彼らの語る「宇宙人」は、ときにロマンチックで、ときに不気味で、ときに都合が良すぎる。
現実とはかなり違う。
だが、誰もそれを本気で検証しようとはしない。
それはそれで、ひとつの文化だった。
「チャネリングはできません」
澪は小さな声で言った。
本当は、定期的に本星と通信している。
宇宙のどこかにある基地と、定まった間隔で情報をやり取りしている。
だが、それはチャネリングではない。
ただの報告と更新だ。
地球人に対しては、それを決して言えない。
言ってしまえば、すべてが変わってしまう。
彼女の高校生活も、調査も、友人との関係も、進路希望調査の紙も。
だから、話さない。
だから、冗談として書くだけにする。
端末の画面を閉じる。
窓の外では、秋の虫が鳴いている。
夜風は涼しく、空気は澄んでいた。
澪は、自室の明かりを落とし、ベッドに横になった。
暗闇の中で、天井を見上げる。
目を閉じなくても、暗さに慣れれば輪郭が見える。
この部屋で過ごした時間。
この家で暮らした日々。
通った学校。
出会った友人たち。
このまま地球に残りたい。
その願いは、任務の延長としても、個人的な欲求としても、確かに存在していた。
結論は、まだ先だ。
本星への次回の報告で何が言われるかはわからない。
許可されるかもしれないし、拒否されるかもしれない。
別の選択肢が提示されるかもしれない。
だが、今はまだ、高校一年の十月だ。
進路希望調査の紙は、担任の手元にある。
そこには、「文学部」とだけ書かれている。
その文字の周りには、たくさんの未定が残っている。
澪は目を閉じた。
外では風が吹いている。
虫の声が続いている。
東京近郊のどこにでもある夜が、そのままそこにあった。
いつか、自分がこの星からいなくなる日が来るのかもしれない。
あるいは、姿を変えて、誰にも気づかれない形で残るのかもしれない。
それはまだ、わからない。
ただひとつだけ確かなのは、今この瞬間、彼女は日本の高校一年生として、進路希望調査のことを考えているということだ。
それだけで、今は十分だった。

