55歳、俺、母になる!?⑨【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】
吐き気とだるさに耐えながらの1週間は、
相変わらず過酷だった。
身体だけでなく、心も限界に近づいていた。
つわりは波のように押し寄せ、
まともに食べられるのはフライドポテトと
ポテトチップスくらい…
身体に良くないとわかっているが、
これしか食べられないのが現実だった……
匂いにも更に敏感になり、
洗剤やシャンプーの香りだけで吐き気を感じるようになった。
朝も夜も関係なくトイレとリビングの
往復ばかりの毎日。
( 55年生きてきた中で間違いなく、
経験したどの病気よりも今が1番つらい、、 )
こんな身体で仕事をすることは、
想像するのも恐ろしい。
(こんな生活、いつまで続く?……妊婦はみんなどうやって仕事してるんだ……すごすぎだろ……)
誰にも会えず、ため息ばかり吐いていた。
「これ、本当に毎日続くのか……」
(なんで、俺がこんな目に……)
ベッドの上で膝を抱えて、思わずそう呟いていた。
美弥になったことを後悔しているわけじゃない。
でも、「一人で耐える」ということの意味を、
今さらながらに痛感していた。
気づけば涙が頬を伝っていた。
情けない。
弱音なんて、吐いちゃいけないのに…
でも、限界だった。
ふと手に取ったスマホに、無意識のまま指が動く。
莉緒に震える指でメッセージを打った。
《莉緒……ちょっとだけ、
話せないか……もう無理だ……》
ほんの数分後、
《 夜会いに行く!待ってて!!》
という返事が返ってきた。
夜になり、インターホンが鳴る。
玄関の扉を開けると、莉緒の顔があった。
「……莉緒……」
言葉にならない想いがあふれ、泣き崩れた。
莉緒は何も言わず、ただ背中をさすってくれた。
「一人でよく頑張ってるね…おっさん。
そして美弥の身体と赤ちゃんも…」
優しい声が張り詰めていた心を
そっと解いていった。
***
そんな中、1ヶ月ぶりに検診の日がやってきた。
体調はきつかったが、エコーと心音を聞けることに少しでも安心を求めて、支度をして病院へ向かった。
病院では真鍋が穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「こんにちは、美弥さん。体調はどうかしら??」
「……正直かなりキツいです」
そう答えると、真鍋は優しく目を細めて言った。
「……今、つらいわよね…
でもね、つわりは“ちゃんと妊娠してる”ってことなのよ。あなたの身体が、毎日命を育ててくれてる証! 」
健一は 真鍋の言葉にじっと耳を傾ける。
「 誰かに褒められることもなくて、
“たかがつわりで” なんて言われることもあって……
でも、あなたは、毎日戦ってるのよね 」
ふいにかけられた優しさに、張りつめていた感情が崩れて、涙が止まらなくなった。
「すごいわ、美弥さん。ほんとに、よく頑張ってる!“ただ生きてるだけ”に見えても、あなたの今日には、すごく大きな意味があるから…!」
その言葉が、じんわりと心の奥に届いていった。
エコー検査が始まる。
モニターに映し出されたのは、小さな命。
少しずつ人間らしい形になってきている胎児が
そこにいた。
トク…トク…トク……
小さくて、でも確かに力強い音。
その音を聞いた瞬間、
健一は また、涙がこぼれそうになった。
「……ちゃんと、生きてるんだな」
今まで耐えてきたすべての苦しみに、
意味があった。
そう思えた。
病院の帰り道、吐き気はまだ残っていたけれど、
少しだけ足取りは軽かった。
家に戻ると、莉緒から《検診どうだった?》と
メッセージが届いた。
《心音、ちゃんと聞こえた。元気だった》
《よかった……!お疲れ様。 》
このやりとりだけで、
張り詰めていたものがほどけていく気がした。
───────────────────────
検診に行った後から、
健一は少しだけ気持ちの持ち方を変えてみた。
毎日しんどいのは変わらない。
吐き気は続いていて、
ふとした瞬間に込み上げてくる匂いへの過敏さに、何度もトイレに駆け込む。
でも、「お腹の子は生きている」。
その事実だけが、
ぎりぎりのところで健一を支えていた。
窓の外を眺めて深呼吸したり、
莉緒と短いやりとりを交わして気持ちを整えたり。
無理のない範囲で気分転換をしながら、
健一は一日一日をやり過ごした。
──けれど
時間が経つにつれ、
再び気持ちが沈んでいくのがわかった。
終わりの見えないつわりとの戦いに、
心が折れそうだった。
「いつまで続くんだ……」
ぼそりと漏れた声は、部屋の中で虚しく響いた。
健一は布団にくるまりながら、お腹を見つめた。
「……なあ、元気?」
手のひらをそっと当てながら、
ぽつりと問いかける。
思えば、こうしてお腹に話しかけたのは
初めてかもしれない。
すると、ほんの少しの間を置いて——
ぽん、と軽く中から叩かれたような感覚がした。
「……え?」
一瞬、何が起きたのかわからず、息を止める。
そしてもう一度、手のひらを当てながら
同じ場所をじっと見つめる。
ぽこっ。
「……動いた……?」
ひとりぼっちじゃない。
ここに、小さな命が確かに存在している。
涙がにじむ視界の中で、健一はゆっくり笑った。
「……そっか、がんばってるんだな……」
この身体の中で、小さい命が歩みを進めている。
だったら俺も、
もう少し、踏ん張らないと……そう思った。
***
それから3日程が経った、ある朝のことだった。
目が覚めた瞬間、健一は思った。
(なんだか、いつもと違う)
身体が重たいことには変わりないけれど、
胃のムカムカが少しだけ、和らいでいる気がする。
「……これは……もしかして……」
試しに電子レンジで冷凍していた、
ご飯を温めてみた。
今までなら湯気と匂いだけで
気分が悪くなっていた。
けれど今日は、少し鼻をつまみながらでは
あるものの、吐き気は来なかった。
「……いけるか…?!」
さらに冷凍庫にあった焼き鳥をレンジで温めてみる。
湯気とともに立ち上るタレの匂いに、
一瞬身構えたが、吐き気は来ない。
そっと口に運ぶ。……噛めた。……飲み込めた。
思わずガッツポーズ。
「……米、食えてる…肉も…いけた…っ!」
思わず大声が出た。
健一は泣きながら笑った。
いつ終わるかもわからないつわりに、
不安ばかりが募っていた。
それがどれだけ不安だったか……
毎日が辛くて、
ゴールのない階段を、
膝をつきながら登るような苦しさだった。
でも――。
(……ほんとに、少しずつ、
終わりに近づいてるのかもしれない )
嬉しくてたまらなかった健一は、
すぐにスマホを手に取り、
莉緒にメッセージを送った。
《今日は、ご飯と肉を食べても吐かなかった。
久しぶりに、ちゃんと食べられた気がする。》
莉緒からの返信はすぐだった。
《よかった……本当によかった……!》
《今度、気分転換に外出できそうな日、ありそう?》
「外出……?」と首を傾げながらも、
《今日みたいに調子よければ、大丈夫》
と返すと、莉緒はすぐにこう続けた。
《じゃあ、明日どう?体調いいならで全然大丈夫!朝に決めてもらっていいから!》
《 わかった。明日の朝、また連絡する 》
明日は今日より、もっと元気だといいな。
そんな小さな期待を抱えながら、
健一は布団に潜り込んだ。
──第⑩話へつづく
