異国でひらく茶葉ー第3話 英国人はなぜ紅茶を飲むのかー【長編小説】
翌日の午後。
ロンドンの空は相変わらず曇っていた。
灰色の雲が低く垂れ込めているのに、不思議と気分は沈まない。
私はエドワードと並んで石畳の道を歩いていた。
昨日の老人の言葉が、まだ頭から離れない。
――人は物語を買う。
和紅茶は何を語るのか。
答えはまだ見つからない。
だからこそ、今は見て、聞いて、知るしかなかった。
やがて一軒の店の前でエドワードが立ち止まる。
深緑色の扉。
白い窓枠。
店先には小さな鉢植えのラベンダーが並んでいる。
看板には金色の文字でこう書かれていた。
「Rose & Bell Tea Room」
「ここだ」
「ティールームですか?」
「ああ。昔からある店だ」
扉を開く。
小さな鈴が、ちりん、と鳴った。
その瞬間だった。
香ばしい焼き菓子の香り。
温かな紅茶の香り。
木の家具の匂い。
それらが混ざり合い、身体を優しく包み込む。
店内には十数席ほどのテーブルが並び、思った以上に多くの客で賑わっていた。
若い女性同士。
新聞を読む老人。
親子連れ。
スーツ姿の会社員。
皆それぞれに紅茶を楽しんでいる。
「こんにちは、エドワード」
カウンターの奥から声がした。
現れたのは、小柄な老婦人だった。
白髪を綺麗にまとめ、薄い青色のワンピースを着ている。
年齢は七十代後半だろうか。
だが、その動きには不思議な軽やかさがあった。
「元気そうだな、ローズ」
「ええ、おかげさまで」
老婦人は私を見る。
優しい目だった。
「あなたが日本から来たお嬢さんね」
「ミサキです」
「ようこそ」
彼女は微笑んだ。
「私はローズ。この店の主人よ」
席へ案内される。
窓際のテーブルだった。
外では小雨が降り始めている。
ガラスを叩く雨音が心地よい。
ローズがメニューを置いた。
「何を飲む?」
私は少し迷った。
だが、ここで和紅茶を頼むわけにはいかない。
「おすすめはありますか?」
ローズは嬉しそうに笑った。
「それならイングリッシュブレックファストね」
ほどなくして運ばれてきたティーポットから、湯気が立ち上る。
深い琥珀色。
私もよく知る紅茶だ。
けれど不思議だった。
この場所で見ると、少し違って見える。
ローズはカップへ注ぎながら訊いた。
「ミサキは紅茶が好き?」
「はい」
「なぜ?」
私は少し考える。
好きな香り。
落ち着く時間。
仕事でもある。
だが、答えに迷っていると、先にローズが笑った。
「英国人に同じ質問をしたらね」
彼女は自分のカップを持ち上げた。
「たぶん大半は答えられないわ」
「え?」
「だって当たり前すぎるもの」
窓の外を指差す。
「雨が降るでしょう?」
私は頷く。
「寒いでしょう?」
頷く。
「だから飲むの」
あまりにも単純な答えだった。
けれど。
なぜか納得してしまう。
ローズは続けた。
「嬉しい時も飲む」
「悲しい時も?」
「もちろん」
「仕事中も?」
「もちろん」
「何もない時も?」
ローズは声を立てて笑った。
「特に何もない時こそよ」
私は言葉を失った。
日本でお茶は飲む。
けれどそれはどちらかというと"飲み物"だった。
しかし彼らにとって紅茶は違う。
もっと生活そのものに近い。
「紅茶はね」
ローズが静かに言った。
「飲み物じゃなくて時間なの」
その言葉が胸に残った。
時間。
それは昨日、メアリーから感じたものと同じだった。
スコーン。
会話。
笑顔。
紅茶はその中心にある。
しばらくすると、一人の男性が店へ入ってきた。
四十代くらいだろうか。
作業着姿で、靴には泥が付いている。
「いつものを頼むよ」
「はいはい」
ローズは迷わず紅茶を淹れ始めた。
私は思わず訊いた。
「毎日来るんですか?」
「十年以上ね」
ローズが言う。
「仕事前に一杯飲まないと落ち着かないんですって」
男性は照れくさそうに笑った。
「本当だから仕方ない」
店内にも笑いが広がる。
その光景を見ているうちに、あることに気づく。
誰も紅茶の味を語っていない。
どの産地かも。
どの等級かも。
そんな話はひとつもない。
けれど皆、幸せそうだった。
私はふと思いつき、鞄を開く。
そして小さな茶葉缶を取り出した。
実家の和紅茶。
ローズが興味深そうに見る。
「それが噂の日本の紅茶?」
「はい」
「飲ませてもらえるかしら」
私は頷いた。
ローズは店のキッチンを貸してくれた。
緊張しながらお湯を沸かす。
茶葉を量る。
蒸らす。
立ち上がる香りは、やはり日本で淹れる時とは少し違う。
数分後。
私は和紅茶をテーブルへ運んだ。
ローズ。
エドワード。
そして常連客の男性。
三人がカップを手に取る。
最初に飲んだのはローズだった。
ゆっくりと香りを確かめ、一口。
それから目を見開く。
「まあ」
私は息を止める。
どうだろう。
受け入れてもらえるだろうか。
ローズはもう一口飲んだ。
そして微笑む。
「やさしい味ね」
胸の奥で何かがほどけた。
男性も飲む。
しばらく考え込んだあと口を開いた。
「森みたいだ」
「森?」
「うん。雨上がりの森」
思いがけない感想だった。
けれど。
その言葉を聞いた瞬間、実家の風景が浮かんだ。
朝露。
霧。
山。
茶畑。
彼が感じたものと、自分が生まれ育った場所が重なる。
エドワードも静かに頷いた。
「昨日より美味く感じるな」
「昨日より?」
「君が誰かと飲んでいるからだろう」
そう言って笑う。
私は思わず苦笑した。
昨日は一人だった。
今日は違う。
同じ茶葉。
同じ国。
けれど飲む相手がいる。
それだけで味が変わる。
第1話で感じた疑問が、少しだけ理解できた気がした。
その時だった。
ローズがカップを置く。
「ミサキ」
「はい」
「あなた、和紅茶を売りたいのよね」
「はい」
彼女は優しく微笑んだ。
「なら、『日本の紅茶です』だけじゃ足りないわ」
昨日の老人と同じことを言う。
だが今の私には意味が分かった。
ローズは窓の外へ目を向けた。
「あなたのお茶はどこで育ったの?」
「鹿児島です」
「どんな場所?」
私は少し考えた。
そして初めて、自分の言葉で話し始める。
朝霧が出ること。
山に囲まれていること。
母が茶葉を見て天気を当てること。
父が毎朝まだ暗いうちから畑へ向かうこと。
話しているうちに、不思議なことが起きた。
ローズも。
男性も。
エドワードも。
みんな真剣に聞いている。
品質の説明ではない。
数字の話でもない。
ただ故郷の話。
けれど、それが一番楽しそうだった。
ローズは窓の外へ目を向けた。
「あなたのお茶はどこで育ったの?」
「鹿児島です」
「どんな場所?」
私は少し考えた。
そして初めて、自分の言葉で話し始める。
鹿児島の南にある知覧という町。
春になると一面が鮮やかな緑に染まること。
朝霧が畑を包むこと。
母が茶葉を見て天気を当てること。
父が毎朝まだ暗いうちから畑へ向かうこと。
話しているうちに、不思議なことが起きた。
ローズも。
男性も。
エドワードも。
みんな真剣に聞いている。
品質の説明ではない。
数字の話でもない。
ただ故郷の話。
けれど、それが一番楽しそうだった。
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