メジャー未満、メン地下以上。そのシーンにはなぜ熱狂が生まれないのか
熱狂を生むのは「物語」だとよく言われる。
確かにそう思う。
でも、「物語」はどこから来るのか。演出やドラマを作るべきなのか。
「必要」とされて作られる「物語」とは何なのかが引っ掛かっていた。
先日、何かのきっかけで流れてきた、Crimson Crat ClanのメンバーであるミナトさんのYouTubeを見ていた。
動画で語られていたのは、メジャーでもメン地下でもない、中間層の男性グループたち(=ミドルシーン)の閉塞感だった。
ワンマンライブで1,000人を動員することもできる。でも、そこから先へ行くロールモデルが見当たらない。
Da-iCE以降、このシーンから大きく飛び出した成功例が思い浮かばないという。
ファン人口は限られ、外部流入も少なく、界隈の中でファンが移動する。
なかでも印象に残ったのが「熱狂がない」という言葉だった。

最初、私は市場規模の問題だと思った。
ファンが少ない、流入が少ない、だから盛り上がらない、と。
でも、ファン人口が少ないことと、熱狂がないことは同じなのか。
規模が小さくても熱狂しているコミュニティは、多分ある。
では、問題の本質はどこにあるのか。
物語の源泉は、思想にある
熱狂を生むきっかけとして「物語」が必要なのは、ミナトさんも動画の中で触れていた。
例えば、最近ブームになった「時計じかけのマリッジ」
3人の女性が、30日後の結婚を目指すバラエティ番組だ。
視聴者がその行方を熱心に追ったのは、単に婚活の様子を見ていたからではないと思う。
未来があり、本人の価値観に変化が見え、ゴールとの距離が見えた。だから「物語」になった。
アイドルも同じだ。
汗だくのビラ配り。日々の練習。SNS更新。
どれも尊い努力だが、それ単体では物語にならない。
努力そのものより、「その努力は何のために、どこへ向かっているのか」に人は感情移入し、愛着と応援が生まれる。
では、物語はどこから来るのか。
物語の背景には、だいたい逆境や困難がある。
でも逆境や困難の発生は、ただの事象だ。
大切なのは、何を信じるのか。
誰に何を伝えたいのか。
どんな世界を目指しているのか。
その中でどう行動するか。
その思想や価値観から生まれた行動は、積み重なって生き様になり、その生き様が物語として人に伝わるのではないだろうか。
つまり、物語は作るものではなく、思想から結果として生まれるものだ。
SKY-HIがBE:FIRSTを輩出したオーディションが多くの人を惹きつけたのも、単に「デビューを目指す若者たちのドラマ」だったからではないと思う。
才能が埋もれる業界を変えたいという思想が先にあり、彼は多くのものを賭けて挑戦した。
主役はオーディションに出る若者だけでなく、それはSKY-HI自身の物語でもあり、視聴者はその過程に夢中になった。
ただし、思想があるだけでは動かない。
それが行動になるのは、熱量があるからだ。熱を持った思想と言葉が圧倒的な行動になり、その行動が目撃者を生む。
SKY-HIが人を惹き付けたのも、思想の正しさより熱量だったと思う。
ファンは曲や顔だけを好きになるわけではない。
ファンは人を、その熱を持った言葉や生き様を好きになる。
物語は、目撃者によって広がる
思想や熱量が物語を生むとして、その物語はどうやって広がるのか。
私は最初、SNSの発信量や動画の本数の話だと思っていた。
たしかにそれは重要な要素ではあるが、公式や本人がいくら発信しても、それがバズる(=外部流入に繋がる)かどうかは別の話だ。
橋本環奈の「奇跡の一枚」は象徴的だ。
あれは本人が投稿した自撮りではなく、ファンが撮影した一枚だった。
自撮りは自己紹介だが、第三者が切り取った写真は証言になる。
モナキがバズる前のライブ動画を見ていても似たことを感じた。
アーティスト本人が「今日もライブありがとう!」と投稿するより、ファンが「こんな小さなステージで汗だくになりながら最後列までファンサしていた」と書く方が、知らない人には魅力が伝わりやすい。
そこには情報ではなく、景色がある。
景色は物語の一コマとして積み重なっていく。
オーディション番組も同じだ。
視聴者は候補生だけを見ているわけではない。
ボイストレーナーが本人のために厳しい言葉を言う。
ダンストレーナーが合否の結果に号泣する。
プロデューサーが陰から成長を語る。
周囲の人たちの反応を通して、候補生の変化が確認され、愛着が育まれる。
物語は当事者だけでは成立しない。目撃者がいて初めて成立する。
ファンが推しの魅力を語り広めることを「布教」と言う。
でも、ファンは推しの魅力を広めているようで、実は物語を共有しているのではないか。
「この人カッコいいんだよ」より「こんなエピソードがあって」の方が語りやすい。ファンは自分が見た景色を共有している。
だから熱狂には、目撃者が必要なのだと思う。
このシーンにとってそれは何を意味するのか
思想と熱量が物語を生み、目撃者が物語を広げる。その連鎖が熱狂になる。
一方で、ミドルシーンには、目撃者(ファン)の構造が歪みやすいという固有の難しさがある。
チェキや特典会という距離感それ自体が商品になるからだ。
写真が撮れる。会話できる。認知される。
すると新規ファンが増えることは、必ずしも既存ファンの利益にならない。
新規ファンが増えれば特別感が薄れ、距離が遠くなる。
だから「売れてほしい」と「遠くに行かないでほしい」が同時に存在する。
これはファンの心が狭いからではなく、シーンの構造の問題だ。
つまり、熱狂の連鎖に必要な目撃者が、このシーンでは外に向かいにくいのではないか。
だからこそ、熱を持った言葉や思想の発信が重要になる。
ファンの欲求を「認知されている私」から「まだ知られていない頃から見ていた私」へ、関係性承認から発見者承認へと移行させる力が、思想や熱量にはある。
何を変えたいのか。どんな未来を見ているのか。
その言葉や行動に共鳴したファンは、物語を外へ語り出す目撃者になるかもしれない。
熱狂の種は、バズの前にある
ミナトさんは動画の中で「バズは無価値」という話もしていた。
バズれば変わる。有名になれば変わると思っている人がいるが、ワープは出来ないのだと。
認知の”手段”としてバズに意味があるのは確かだ。でも、熱狂の種はバズの前にある。
思想と言うと壮大なものに聞こえるかもしれないが、思想はゼロから作るものではない。
なぜこの仕事を選んだのか、どんな困難を越えてきたのか。
どんな時にやめようと思って、なぜそれでも続けているのか。
それは作り出さなくてもすでに答えを持っている。
思想から生まれた行動には、目撃者がつく。
目撃者が景色を語り、景色が物語の一コマになり、物語が広がっていく。
熱狂とは、その連鎖の先に生まれるものだと思う。
※カバー画像は、YouTube「ヒトリのミナト」からお借りしました。
