藤圭子 石坂まさをと新栄プロダクションの時代
阿部純子さん(後の藤圭子さん)と澤ノ井龍二氏(後の石坂まさを)があったのはいつ頃だったのであろう。圭子さんが東京に出てきたのは、昭和42年(1967年)だった。中学を卒業してすぐの時期である。圭子さんは「あざみの歌」などで有名な作曲家野洲秀章(やしまひであき)氏のもとでレッスンを受けながら、16歳から17歳にかけて錦糸町で流しをしていた。澤ノ井龍二氏とはじめて出会うのは、同じく作曲家の上条たけし氏宅である。澤ノ井龍二氏からプロポーズならぬコンビの申し出(口説かれるの)は浅草の冬の時期であった。「貴女に賭けてみたい」という澤ノ井龍二氏の言葉に導かれ彼の家に住み込みで弟子になるのである。その時、澤ノ井龍二氏は27歳、売れない東芝の専属作詞家であった。
その時、阿部純子さんが淡い恋心を抱いていたのは、オリーブというグループのマミーと呼ばれた男性であった。後に澤ノ井龍二氏もオリーブのメンバーと仲良くなり澤ノ井宅に呼ばれようになっていたが、何故かマミーだけは呼ばなかった。澤ノ井龍二氏が意図的に呼ばなかったようである。澤ノ井龍二氏が阿部純子さんに特別な感情はなかったと言えない何かを感じざるを得ないのである。
1969年9月25日 に阿部純子さんは「藤圭子」の名前で RCAレコードより「新宿の女」で歌手デビューする。18歳の時である。そのとき澤ノ井龍二氏も「石坂まさを」をなのるのである。そして、1969年11月10日「新宿25時間キャンペーン」で知名度を上げ、1970年2月「女のブルース」、同年4月25日 「圭子の夢は夜ひらく」が発売され、オリコンシングルチャートで10週連続1位を獲得する大ヒットとなり一躍、藤圭子ブームが到来するのである。
「かつて、純子(藤圭子の本名)と私は同じ時代を闘った「戦友」だった。昭和43年の秋に出会ってから、阿部純子は歌手「藤圭子」となり、私は藤圭子を育てるために、澤ノ井龍二という名を「石坂まさを」に変えた」。厳しい環境の中で育ったにもかかわらず素直でまっすぐなまま、阿部純子さんは、「藤圭子」になったが、石坂まさを氏との奮闘ぶりは結構面白い。「彼女をボクの手もとに引き取ってからデビューまで、ずいぶんとシゴいたもんだ。ボクはいささか女をバカにする傾向があるんで、曲のことで意見がぶつかったりすると、ついぶん殴っちゃうんだな」と石坂まさを師が証言すれば、藤圭子さんも「沢の井先生は気狂いになったみたいに私をシゴいていきました」「しょっちゅう意見の衝突があり、ケンカもしました。二人とも怒りっぽいので、すぐに売り言葉に買い言葉とでもいうのでしょう。『表へ出ろ』『出るわよ』というわけで、あわや取っ組み合いのケンカになることもしばしば」と発言している。
こうやって石坂まさを氏と阿部純子(藤圭子)さんは、「戦友」とは書いているが、まるで「恋人」か「夫婦」のように「藤圭子」づくりをすすめていくのだが、そこに石坂まさを氏の後に妻となる花井清子さんが登場すると、阿部純子(藤圭子)さんの立ち位置が微妙に変化していく。懸命に歌い続ける圭子さんは、病気で声が出なくなる。このことを1970年6月発行の週刊平凡が伝えています。「死ぬまで歌います!」5月24日、川崎東映のワンマン・ショーに出演中、楽屋で倒れた藤圭子の悲壮なカスレ声。”謡人結節”(肥厚性声帯炎)という歌手独特の病気にかかりながら、この2ヶ月間がんばってきた彼女だが、積み重なる疲労には勝てなかった。しかし、周囲の強固な入院勧告にもかかわらず、楽屋で応急手当を受けただけで、この日も3回のステージをつとめ上げるというド根性ぶり。同時期に、 澤ノ井龍二(石坂まさお)花井清子と結婚。当然阿部純子(藤圭子)さんは、師である石坂まさをさんを思慕しながら、一方で花井清子さんを「お姉さん」として位置づけその後師石坂まさをさんの花嫁にしようとする「乙女心」が切ない。「先生、お姉さん、おめでとうございます。私は先生に拾われてここまで育ててもらいました。お陰で、歌手の仲間入りをさせてもらいました…」とあいさつをし花束を渡す姿はまるで「恋仁義」(1971年5月「 恋仁義」)に出てくるようなシーンだ。(石坂まさをの「きずな」(1999年・文藝春秋)から)♪惚れていながら 身を引く心 それが女の それが女の 恋仁義♪
藤圭子さんが売れだした直後、両親がカネを無心しに来た話を明かしている。藤圭子さんは両親から逃れるように、人気絶頂期の1971年に歌手の前川清と結婚する。このいきさつが興味深い。
また、沢木耕太郎著「流星ひとつ」から引用してみよう。「しかし、何だって、(前川清氏と)そんなに結婚を急いだの。まだ、あなたは、そのとき十九歳だったのに」「急いだわけじゃないんだけど…」「結婚したかったわけ?前川さんと、早く」「そんなことはない。前川さんは結婚したかったみたいだけど…あたしは、別に」「よくわからないね、その辺の事情が。まさか営業用の結婚というわけでもないだろうし…」「そんなことすると思う?あたしが、そんなことを」「思わない。でも、なぜ…」「それはね、売られたわけ」「えっ?売られたって、あなたが?」「週刊誌に、ネタをうられちゃったの。あたしと前川さんの仲についてのネタを、沢ノ井さんに」「沢ノ井さんが売ったって?」「そうなんだ、沢ノ井さんが売っちゃたの、話題作りのために」…「それであたし、意地になったの。そんあことをするなら、絶対結婚してやる、って。…」
このように藤圭子さんと前川清氏の結婚は、言葉が悪くなるが、圭子さんと澤ノ井氏との痴話喧嘩なよう状況で生まれたもので、結果はご承知のとおりである。1972年 に離婚、約1年間の結婚だったが実質的な結婚には至らなかったようだ。
1973年12月に演歌全集8枚組100曲中の85曲目に圭子さんは喉を痛めている。そして1974年圭子さんが23歳のときに謡人結節(肥厚性声帯炎)の手術を受ける。
「あたしの、歌の、命まで切り取ることにな」ったといいきる藤圭子。「みんな、おかしい、おかしい、と言い出して、もう一度やるんだけど、同じなんだ。高音が、澄んだ、キンキンした高音になってしまっていたわけ。あたしのそれまでの歌っていうのはね、意外かもしれないんだけど、高音がいちばんの勝負所になっていたの。低音をゆっくり絞り出して・・・高音に引っ張りあげていって・・・そこで爆発するわけ。そこが聞かせどころだったんだよ。ところが、その高音が高すぎるわけ。あたしの歌っていうのは、喉に声が一度引っ掛かって、それからようやく出ていくところに、ひとつのよさがあったと思うんだ。・・・ところが、どこにも引っ掛からないで、スッと出ていっちゃう。・・・」「・・・声があたしの喉に引っ掛からなくなったら、人の心にも引っ掛からなくなってしまった・・・」。喉の謡人結節の切除手術を受けたことで、低くドスのきいた声質が変わってしまう。「喉を切ってしまったときに、藤圭子は死んでしまったの。いまここにいるのは別人なんだ。別の声を持った、別の歌手になってしまったの……」(沢木耕太郎『流星ひとつ』) 。1974年の紅白落選、1975年1月15日 澤ノ井音楽事務所を退所。約6年間のことであった。
1975年1月頃に新栄プロダクション移籍する。
その後、1975年から1978年までの3年間は、圭子さんは母親と住んでいるマンションでロックグループ『ジュテーム』のボーカルと同棲していた。これも、沢木耕太郎著「流星ひとつ」から引用してみよう。3年間一緒だったというと……暮らしていたわけ?」
「別々のときもあったけど、あとからは一緒に暮らしてた」「どこで?」「あたしの……」「マンションで? お母さんも一緒に?」「うん、そう」「へぇ。その彼は、何をする人だったの?」「歌を歌う人だったんだ。無名だったけど、とてもうまい人でね。グループを組んでボーカルをしたりしてたの」「どういうキッカケで知り合ったの?」「その人が歌っている店に行ったのかな……」。
また、「藤の恋人として登場しているのは、ロック・グループ『ジュテーム』のリード・ボーカル・宮本ヨシミ、まだ19歳の青年だ。2人が出会ったのは今年6月。六本木のサパークラブ『バルバラス』に遊びに行った藤が、たまたま出演中だった宮本を見そめ、わざわざ自分の席に呼んで、お酒をごちそうしたのがきっかけということになっている。」と週刊平凡1975年11月27日号が報じている。
さらに1977年9月、怪物中の怪物だった江川卓。プロ野球界に大激震を走らせた「ドラフト空白の一日」。1997年9月の事件はもう、語りつくされている。私はまだ、駆け出しの整理記者だった。球界を揺るがす、いや、社会を騒がせたドラフト会議。その陰で恋模様があった、とは知らなかった。古い資料を引っ張り出していたら、目に止まった。江川は栃木・作新学院のエースだった。このころが一番球速があった、といわれている。完全試合2回、ノーヒットノーラン9回。いや、そのことはここでは、どうでもいい。理事長は自民党副総裁・船田中(あたる)。巨人命だった江川家は船田に託した。
秘書の蓮見実が動いた。後の空白の一日、その後の阪神との強い要望のトレード悲劇。小林繁(故人)との巨神電撃交換。その動向は、皆さんご存知だ。小林繁投手はは数時間かけて考えた末、阪神へのトレードに同意し、1979年2月1日午前0時に球団事務所で記者会見を開いた。
だがその裏で、圭子さんとのこんな色恋沙汰があった。蓮実はいう。「巨人は小林の女癖の悪さに頭を痛めていたんだよ。記者発表された直後のこと、私の家にある女から電話がかかってきた。“蓮実さん、小林さんを阪神にトレードで出さないで下さい”と。、“小林さんは私の友達なんです”と。“小林は恋人なのか?”と尋ねても“友達です”と返すから“じゃあ大事な人なのか?”と聞くと“そうです”と。2人はデキているんじゃないかとピンときた。…電話の主は藤圭子だった。
そして…小林の阪神移籍した年の1979年10月17日に圭子さんは、 突然引退を表明したのだ。
