もうひとつの藤圭子伝説について(その3)
1981年7月29日に圭子さんについては、藤圭似子の名で復帰するとの報道が突然流れます。会見では、「広い世界を見て自分なりに充実した人生を送りました。でも、何度も何度も(歌手復帰を)説得されて」復帰に至ったことを説明しています。「引退時の涙は嘘か?」との質問には「嘘でも何でもないし、2年間たてば世の中動いてますし」とかわしています。復帰の本当の理由や圭子さんの復帰の時期と宇多田照實氏との同棲の時期については明確な資料がありません。
渡辺正次郎氏を囲む「アクセスジャーナルTV第10回「渡辺正次郎氏が語る藤圭子の思い出」」(https://www.youtube.com/watch?v=IGUvXpZrsgg&t=1596s)では、六本木ヒルズの近くの鉄筋のアパートの一室に圭子さんと宇多田照實氏が同棲しはじめた頃の様子について話題になり、後に圭子さんが妊娠しアメリカに行き娘の宇多田ヒカルさんを生むことになることが話されています。その中で、同棲していたアパートは、テレビ朝日の前にあったと言っています。恐らく、「好きな男女が一緒になって、どこが悪いんですか。古いですね」とニュージャパンプロダクションの社長と対立した時期である1981年1月より前と考えられます。藤圭似子(藤圭子)の復帰にあたり、ニュージャパンプロダクションは、様々な仕掛けをして復帰に花を添えています。藤圭似子のためといえる主演ドラマ「新・海峡物語」(原作五木寛之)も用意されました。その主題歌が、新曲「蛍火」(1981年11月リリース)でしたが、「新・海峡物語」も低視聴率のため1981年10月15日から同年12月24日まで(放送回数11 回 )で打ち切られ、「蛍火」も売れ行きが芳しくない状況でした。藤圭似子の名ですが、ドラマ「新・海峡物語」の主人公が「藤圭似子」であることに由来します。
ニュージャパンプロダクションとは、圭子さんと照實氏の同棲をめぐって(藤原成郷氏の)事務所(ニュージャパンプロダクション)と対立し裁判にまで発展します。しかし、圭子さんは1982年6月に宇多田照實氏と再婚し、妊娠、そして1982年の後半にはニューヨークへ帰って行きます。
その後、圭子さんは、1983年1月19日に宇多田光さん(芸名宇多田ヒカル。以下ヒカル)を出産します。その時のことをこう語っています。「追悼 藤圭子さん 懐かしい、歌とトーク♪1998年平成10年11月5日放映」では「「(胸に)突き刺さってきますね。やっぱり特にね。最初の子どもって生まれるとき不安って言うっかね。元気な子が生まれるかどうかってあるですけど、それ以前に、自分がもう怖くてしょうがないんです。お腹がこんな大きくなっちゃってもうどうしていいか本当わからない。…陣痛もなくって。出産もすごい誘発剤してもぜんぜんダメで「危ないかもしれない」っていわれて、それで「このままだと両方(母子)危ないから」って帝王切開になったんですけど。…自分麻酔かけられているからもうわかんないんですよ。意識がなくて、ただ、あの主人が傍にいてくれたから。もうその顔みただけで安心して、そのまま麻酔きいちゃって。で、無事に生まれて。(ヒカルさんの)元気な顔みてたんだけど、…後で話をきいたら、生まれた時もぜんぜん紫で、もう全然産声なくって、それでもうピンピンたたいたりして、なんかして、やってたら、しばらくして、「ギャー」って凄い突然声あげたんだって話を後からきいて。「あぁ本当によかったな」と思っ」たと話しています。
しかし、ヒカルさんは「2011年1月9日深夜、Twitter(ツイッター)で自分の過去を書き込みしており、自身が生まれた瞬間の出来事をファンたちに伝えていた。宇多田ヒカルさんの心肺停止体験「そうだ、産まれた時の話。予定日から3週間以上過ぎてヤバいってことになって帝王切開で出されたんだけど心肺停止で、父(宇多田照實氏)は医者に「残念ですが…」とまで言われるも、父の必死のマッサージで うわああゴールされてもーたーーー!(ヒカルはサッカー観てるため叫んでいる)」「で、真っ青な私を父は泣きながら必死にマッサージしまくって名前も決めてたから「ひかるー!」と呼びかけてたら、徐々に血の気が戻ってきて蘇生したんだって。この間、藤圭子は麻酔で意識無し。父に感謝!ママもママで小さい身体で大変だったろうなあ」、「出産ではそんなに珍しい話でもないんじゃないかな?心肺停止からの蘇生。産まれるって本当に有り難いことだよね。生きてるってことは誰かに愛されたってことだよね。今生きてる人はみんな、赤ちゃんの時に誰かが一生懸命育ててくれたんだもんね」 とつぶやいています。(筆者は圭子さんの話はよくわかりますが、宇多田照實氏の心肺停止からの蘇生の話は作話に感じています。)
父親の照實氏の話によると「名前も決めてたから「ひかるー!」と呼」んだことになっていますが、圭子さんはヒカルさんを出産すると同時に網膜色素変性症を発症しています(元々藤の母方は目が弱い家系であり、兄も同じ病を患っていた)ので、視力が徐々に失われていた頃でしたので、「我が子から光が失われないように」という願いを込め、「光」(ひかる)と命名したと報道されていますのでさもあらんと思っています。
ついでのことですが、ヒカルさんは、自身のブログ「MESSAGE from Hikki」の2008.10.31 女であること」でこんなことを述べています。「私自身、予定されなかった妊娠で産まれた子だし。(親は避妊してたってことね。昔聞かされたけど。しょうがないから産んだみたい。)そんな子もいるわけだしさ笑 」とありますが、それにはわけがあり、圭子さんは、いつも家族にはガラス張りで感じたことを包み隠さず言ってしまうところがあったからです。(子どもが欲しいとの夫の希望に応えたのでしょう)
その前後の様子ですが、残間里江子のブログによると「臨月の時には、(1982年の暮れ、残間里江子さんが)NYの家を訪ね、大きなお腹で手料理を作ってくれたり、1983年に私が雑誌の編集長になった時には、創刊号でNY特集をしたのだが、取材にも協力してくれて、照實さんが乳母車を引いて、親子3人でセントラルパークを、散歩している写真を、雑誌に掲載させて貰ったのだが、この時は、いかにも幸福そうに、「宇多田純子」としての人生を、堪能していた」と書かれています。
そして1983年6月に藤圭子さんは夫とともにヒカルを抱いて一時帰国をします。帰国したのは圭子さんの前事務所(ニュージャパンプロダクション)の藤原成郷氏とのトラブルが裁判になり、東京地裁に出廷するためでした。(後に、この裁判は1986年1月に判決が下され、藤圭子は受け取った契約金のうち2,000万円をプロダクションに返し、プロダクションは藤圭子に未払いの給料200万円を支払え、というもので圭子さんに不利な判決でした。)
当時の様子ははマスコミにとり上げられていますが、裁判のことではなくは「光ちゃん、ママに甘えて初めての日本」としてヒカルさんと圭子さん夫妻に焦点が合わされていました。「ニューヨークで生まれた光ちゃんが、お母さんに抱かれて初めて日本の土を踏んだ時の様子がグラビアに掲載されています。生後5ヶ月余りの光ちゃんは丸々と成長しお母さんも少し重たそうです」と。「週刊女性」や「週刊明星」にも同様の記事と写真掲載。「子供って好きじゃなかったけど、産んでみると可愛くて」という圭子さんの談話からは母親となった喜びとわが子への愛情が感じられます。 (女性自身('83/7/21号、光文社))
同年、圭子さん32歳。圭子さんはヒカルさんが生まれたとき、こんな詩を書いています。「あなたが生まれたその日に 天使たちが集まって そして決めたのよ 夢を実現させようって」。これは、兄妹デュオ「カーペンターズ」の「Close To You (遙かなる影)」の詩の一節です。またこの歌は、2006年3月3日に起きた藤圭子のニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港で大金を没収される事件に関して2006年10月に弁明インタービューの際、何故「Close To You (遙かなる影)」の一節を口ずさんでいます。恐らくずっと愛娘(まなむすめ)の光(宇多田ヒカル)さんのことを思っていたのでしょう。
また、当時の宇多田夫照實氏の職業については、「翻訳業になっていたり、失業中になっていたりと」、その素性はいまひとつハッキリしていません。宇多田氏については、「親の仕事の関係でアメリカに長く住んでいただけで、向こうでは定職もなくブラブラしているだけだった。ミュージシャンは自称ですよ。もっとも藤にしてみれば、英語が喋れるだけで尊敬に値したんだろうけどね」(当時を知る芸能記者)と揶揄されることもあったようです。
前事務所(ニュージャパンプロダクション)の藤原成郷氏とのトラブルで、藤圭似子の復帰が失敗に終わることは誰の目にも見えていましたが、圭子さんはレコード会社を転々としながら、細々と歌手活動にしがみついています。
そのような時期、結婚間もなくハワイで2年くらい居候生活を送ってます。恐らく仕事が少なくなっていた時期で、「働かなければ生きていけないので、何かひとの仕事をお手伝をするなどしたい…地道な仕事をしたい」と、ハワイでカラオケ教室を成功させ、現地で有名な日本人の1人に挙げられるのが関口愛子さん(62年には「トリオこいさんず」の一員として紅白にも出場、引退後の藤圭子とも親交を持った)を頼ってそこで、将来親子でカラオケ教室で生計を立てようと考えもあったものと思われます。
3年ぶりにカムバックした藤圭子が、1983年8月21日、キャンペーンのため来阪。愛の巣づくりと育児に専念の3年間だったが「やっと子供を母に預けても大丈夫になったし、私にとってはごく自然な歌手活動の再開です」。「ねっ!見て。かわいいでしょ」ハンドバッグの中から、1歳10カ月になった長女・光ちゃんの写真を何枚も取りだして見せる。
「お父さん似だ」と言うと「そうなのよねェー」と、かたわらのご主人で、所属会社テックスの社長宇多田照實さんを見上げて、なんともうれしげにニッコリ。決して平たんではなかった人生を歩いて、いつもどこか鋭く暗いものが漂っていた藤圭子は、すっかりマイルドな雰囲気になっていた。ヘアスタイルも、トレードマークだった長いお下げ髪をばっさり切ってライトなショートに。デビューから15年、一人の人間に変化を刻むには十分な歳月で、33歳になった彼女は、口ずさむように軽い調子で「蝶よ花よと」を歌っています。
そうこうしながら、1984頃ロリーポップじゃら圭子名義で「あいつが悪い」をリリース。1984年10月には芸名を藤圭子に戻し、リバースターから「花よ蝶よと」をリリース。同年11月同名の「蝶よ花よと」のLP版を出しますが、これが最後のLPとなります。
夫の照實氏は所属事務所がなくなってしまった圭子さんのために個人事務所を設立して社長になり、圭子さんと二人三脚で営業を始めたましたが、事務所といっても所属タレントは圭子さんひとりだけでした。それでもこの時期は、いかにも幸福そうに「宇多田純子」としての人生を堪能していたようです。
1985年5月- ヒカルが2歳4か月のとき、ヒカルに歌を教えています。それも「七つの子」「おててつないで」と『女のブルース』をです。
後年、圭子さんの叔母である竹山幸子さんの話よると、「結婚当初、純ちゃんと照實さん、姉が広尾のマンションで暮らしていた時期がありました。家のクローゼットには、照實さんのブランド品がずらっと並んでいましたね。純ちゃんは、男を立てる性格で、照實さんに全部つぎ込んでいました。ですがら、自分じゃお金を全然もっていないんです。2000円のものを買うのでも、照實さんに、買っていい?と聞く。純ちゃんの稼ぎで、照實さんが贅沢をするという関係でしたね」と述べています。一説によると当時、藤の実家のある調布のマンションを借り、藤の送り迎えをやっていたという話しもあります。
圭子さんは1986年6月ポリドールから「東京迷路」をリリースします。彼女の不遇な時代の中で生まれ86年にリリースされた佳曲「東京迷路」は、言うなれば“藤 圭子meetsアーバン”。サウンドはこの頃によくあるクリスタルなシンセが心地よいライトメロウなバラードで、ジャケにも高層ビルを背景(というか合成)にしてアーバンを演出しています。しかし歌詞の内容は変わらずドスが効いていて、自分の体を売ろうが死のうが生きようが私の勝手でしょ?とやさぐれる女を昔の自分と重ねる、という70年代初期に良く描かれる世界で、歌唱も昔のままの藤圭子といった感じですが、それでも挑もうとした80年代のアーバン・フィーリング。実はこの曲、ポリドールからリリースする前に自主出版で制作していたらしく、そこに再起を図る彼女の意気込みを感じずにはいられません。ゴールデン街から副都心の高層ビル街へと渡り歩いて迷子になった新宿の女。時代に愛された歌手は、いつか時代から裏切られてしまうものなのかもしれません。そんな宿命に抗うように挑んだアーバンな時代に、藤圭子さんの居場所は果たしてあったのか……。その後の彼女の苦悩は計り知れません。
そして、1986年10月1回目の圭子さんと照實氏の離婚。 1986年、17日後には「ヒカルの幸せのために」と再婚 。最初の離婚は照實氏の「女遊び報道」を圭子さんがが真に受けたことが原因だったようです。つづく
