藤圭子と宇多田照實及びヒカル〜奇跡を生んだサイコパシーの関係性(その2)

 24歳になった宇多田ヒカルは、2007年3月に紀里谷和明氏と離婚します。「2007.03.22 歌詞に行き詰まって徹夜で家を大掃除 そう、まじめな話になるけどね、これは早く書かなきゃと思ってたんだ。今月発売されたMUSICAっていう雑誌に掲載された私のインタビューが、その後も部分的にマスコミに取り上げられてね。普通のインタビューよりもいろいろなことを深く掘り下げた内容で、私の中でママは非常に大きな存在だから、自然と彼女の話になったの。誰でも親という存在(もしくは不在)にたいして特別な感情や複雑な心理を抱いて、いくつになってもそれを永遠のテーマとして生きていくんだろうと思うんだけど・・・。私の発言が、想像以上にママに対してネガティヴな印象を与えてしまったみたいで、すごく後悔してるの。ものすごくパーソナルなトピックに中途半端に触れてしまって。娘の私からみても、変わった人だなぁ、と思うことがよくあるけど、私が今まで出会ったことのある誰よりも純粋で、正義感にあふれてて、とっても魅力的な人なの。すごく誤解されやすいんだけど。ママを守らなきゃいけない私がその誤解に加担してしまったのが非常に心苦しくて、ここでちょっと釈明させてもらいました。私はママが大好きだし、いつももっと近づきたいと思ってる。要するにそれが言いたかったのだ。読んでくれてありがと!」(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikkiより)とヒカルは書いている。

 「MUSICA」は、日本の最新の音楽情報を発信する音楽雑誌で2007年3月15日に創刊され、創刊号には「宇多田ヒカルインタビュー」の記事がメインに載っている。目次をみると、「●宇多田ヒカル、すべてを語る新曲"Flavor Of Life"でトップに返り咲いた今だからこそすべてを語る――「アメリカ」を相手に闘ったUTADAでの挑戦とその総括、『ULTRA BLUE』で再び目覚めたもの、"ぼくはくま"の本当の意味、両親と家庭、そして離婚について……。「日本で一番力強く、そして孤独なアーティスト」が自らの本質を初めて語った画期的ロング・インタヴュー! 」と謳っている。

 では、宇多田ヒカルは母である藤圭子について何を語ったのであろうか。筆者は今になっては古書扱いの本だが、何とか購入し熟読してみた。
 2006年の藤圭子の事件直後の記事であり、前回仮説をたてた続きを覗きみたい衝動に駆られたのである。

 「歌手は一流でなければ嫌、私は自分を取り戻すために、英語の勉強から始めます」と27歳で歌手を引退することを決めていた意志の強い藤圭子とは異なり、宇多田ヒカルは「MUSICA」の中でこんな事を話している。「歌詞を書こうとすると「私は何を出したんだ?」って思う。で、「これは悲しいって感じでもないような、楽しいって感じでもないような.....」って思ってるうちに、一言出てきちゃって、その言葉を使いたいためにそこから膨らませたりするんですよね。必ず曲を作っている途中に、「あ、これこれ、この方向に行きたいのよ。これがゴール!」っていう、「今そっち行ってる!」っていう感覚が1回あって、その時が一番我れを忘れているというか、気持ちいいというか。でも何か辛い、みたいな感覚。それはいつも変わらないんですよ」どの曲をやってても---」と話している。
 「MUSICA」の中で、宇多田ヒカルのサイコパシーを感じる言葉がある。それは、「私、何もしていないと、本当に存在しないくらい何もないんですよ。自分としては存在感が凄く薄い、気持ちとしては幽霊なんですよね。だからひとりでいると一番自然って感じ」という言葉である。少し文脈を辿ってみよう。
 インタヴュアーが、「ぼくはくま」の楽曲に触れている。この曲は、2006年10月から11月にかけてNHK「みんなのうた」で「ぼくはくま」(宇多田ヒカル作詞作曲歌唱)が放送される。その放送中に、2006年10月藤圭子が帰国、「2006年3月3日藤圭子が、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港にて大金を没収される事件」に関連してテレビインタビューに応じている。
 インタヴュアーが、「ぼくはくま」の楽曲について、「常に突破していきたい、常に移動していきたいひとなんですよね」の問いに、宇多田は「そうそう」と同意し、インタヴュアーは続けて、「いつもその気持ちが淡々と綴られてますよね。”ぼくはくま”なんてまさにそう思うですよ。いろんなタイミングと偶然から曲かもしれないけど、自分の表現の移動を本能的に意識してたんじゃないかと思う」の問いに、宇多田は「今までで一番、作ってよかった思った曲。本当にポロッとできちゃったんだけど」と本音を語らせている。この曲については、以前筆者は、「歌詞のまんなかにフランス語があります。「Bonjour! Je m'appelle Kuma. Comment ça va? こんにちは。ぼくはくま。元気?」とあります。母藤圭子が現れた直後の宇多田ヒカルが感じた母へに話しかけようとする様子が覗えます。言葉に途惑いながら、「ぼくはくま。元気?」と、まともに母藤圭子に対峙できないもどかしさが伝わってきます」と述べたが、さらに、この詩の終わりの方に「ぼくはくま 九九 くま ママ くま くま」とあり、言葉遊びだけでない「ママ」の文字が唐突に出てくるのである。まるで宇多田ヒカルの無意識の発露のように。

 さらにインタヴュアーはヒカルに切り込んでいく。「ダイレクトに聞きますけど、この歌が出た頃ってお母さんのことが世の中で報道されていましたよね。そういう意味でも、あのタイミングであの歌を出すのはリスクが高いと思わなかったの?」の問いに、ヒカルはこう答えている。
 「そういう自覚はなかんですよ、まぁ母も有名人だし、有名人じゃなくてもプライヴェートなことだからペラペラ話すこともないと思ってんだけど、「絵本で出ちゃった、あら?」みたいな感じですかねぇ」と答えて、問われてないことも続けて話している。「どっちかというと、ファザコンに見られるんですよ。お父さんがフィーチャーされてるし仲よさそうってことで、お父さんを慕っているみたいな。でも、お父さんはかなり客観的に好きな人間って感じで、最近やっと仲良くなれてきたみたいな感じなんです。本当にこの1年くらいで仲良くなれて。それまではお互いのプライヴェートとか全然しらなくて。まぁ不器用な親子というか、お互いに侍的なところもあるから悩みとか話し合わないし、むしろ弱いところは家族に一番見せたくないみたいな感じですよ。だから仕事の話しかしなくてーーそれは子供の頃からなんです。でも、この1年くらいはだんだん、たぶんお父さんも円く柔らかくなってきて、私もだんだん「もうちょっと触れ合いがあってもいいな」見たいに素直になってきた感じもあって」と本音を明かしている。

 問題の母藤圭子については、父親の関係に続いて次のように語っている。「母のほうは、凄い歪んだマザコンみたいな感じ。憧れなんですよ、ずっと。凄い距離が遠くて絶対に触れ合えない、みたいな。凄く独特の世界を持っている人で、ある意味凄く閉じた人なんですね。「彼女がそう思ったらそう」みたいな感じの人。だから私に対しても彼女なりに確立した私の見方があるんだけど、でも私としてはあんまり彼女が私を見ている感じがしない、みたいな。彼女から見える私の輪郭と、そこから一步下がっている私っていうかな...直接関わったって気分はまったくしないんですよ……諦めてるんですかねぇ」と答えている。インタヴュアーはさらにヒカルを追い詰めている。「きっと昔から、いろいろなことを受け止めてきたんだろうね。だから最近のお母さんの行動もそれによって莫大なショックを受けたわけでもなくーー。」と話しを向けると、ヒカルは「全然なんてことなかったですね。強がりじゃなくて、あれは大したことじゃなかったんですよ。(中略)ーー今までのことを知っている内側の人間からすると、「え、これが何?何でそんなに騒いでるの?」って感じなんですね。マスコミがそんなに騒ぐのも、わかんなかったし。その辺の感覚のズレーー私は今さらママが何しても受け入れる、「ええぇ!?」とはもうならないの」と答えている。筆者は、ヒカルの意識に何か欠落した部分を感じてしかたがない。

 藤圭子は、以前こんなことを言っていた。「・・・「お母さんは曲師だったの?」、「そうじゃなくて、お母さんも浪曲師なの。お父さんも、お母さんも」、「しょっちゅう、旅に出ていたわけだ、二人して」、「うん」、「子供の頃は、一緒だったんでしょう?」、「でも、その頃のことって覚えていないんだ、全然。小学校へ上がる前だったし。ただね、話しによると、巡業で汽車を乗り継ぐでしょ、そうすると駅の名前を読んだらしいの。なんだか、そうやって字を覚えたんだって。だから、あたし、学校に上がる前から字が読めたらしんだ」…。「それじゃ、小学校に上がった前後のことは覚えている?」、「全然」、「えーと、一年のときの担任の先生は?」、「覚えていない。二年のときも、三年のときも」、「ほんとに?」、「校舎も、友達も、何も覚えていない」、「欠陥商品ですねえ、あなたの記憶装置は。どういうのかなあ…その時代のころは、まっしろけの感じなの?」、「まっくらけの感じ」、「だとすると、いつ頃の記憶からあるようになるのかな」、「小学校五年から。カムイへ引っ越してから」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「二杯目の火酒」より)」とある。

 筆者は、藤圭子には解離性健忘(解離性健忘の主な特徴は、心的外傷(戦争、天災、事故、犯罪、虐待といった強い精神的衝撃)や、強いストレスとなる出来事の記憶(数時間~数日間の記憶)を思い出せなくなること)があり、パニック障害(不安障害の一種。突然に激しい不安に見舞われ、息切れやめまいなどの発作に襲われる)、社交不安障害(社会不安障害)もあることから、「藤圭子の精神の状態を参考にして(藤圭子の)精神の病とは何かを考えると、子供時代父親から、DVを受けていたことが遠因となり、ヒステリーや身体化障害、疼痛や不定愁訴(「2006年9月のテレビ朝日のインタビューでの「原因不明ですけど、この20年間、吐きまくりの人生です。週に3回は吐いてる。今でもそう。だからどっか悪いと思うんだけど」と体調不良を告白していること」)、引退する1979年の5月頃には、舞台恐怖症(解離性とん走)、母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言(被害妄想)、「デビューするとき、藤圭子っていう名前をもらったとき、生まれ変わったと思ったんだ」、「竹山純子には戻れないと思うよ」と言う自意識(人格の解離)が伴う複合的な心的外傷後ストレス障害 (C-PTSD)と考えています」と述べた。 つまり、境界型だが精神的障害を持つ性格であったと思うのである。

 また宇多田ヒカルも、同じく「意識に何か欠落した部分」つまり「解離性健忘」を伴う「境界型だが精神的障害を持つ性格」が見られると筆者は思うのである。何故そうなったかと言うと1999年から2002年にかけての、家族関係、特に母親との関係がヒカルに心的外傷後ストレス障害 (C-PTSD)を与えていると考えている。それこそが宇多田ヒカルのサイコパシーなのだ。

 ヒカルは、「MUSICA」でさらに続けて、「寂しいことは寂しいですよね。でもいろいろ求める感じとか、『ママァ〜』みたいな感じは届かないっていうか、あんまり上手く行かないんですよ。それはもう、完全に子供の頃から諦めてた感じですね。『この人にそれは通じないんだ』みたいな。自分からあまり積極的に求めないっていうのも、そこに大きく関わっているだろうし。母だけじゃなくて、世界に対して、私のコントロールはまったく及ばないって思ってるんですよ。」、「……中途半端に受け入れられないんだったら、そういうことを求めない。願いが叶わないってことを学んだら、もう願わないっていう、防御的なことって誰でもするじゃない? 傷つくのを恐れて自粛する、みたいな。それを中途半端にやってると、結局は凄く願ってるっていうのがあるから辛いと思うんですよ。でも私は、『結局は凄く願ってるな』っていう地点から離れ切っちゃったから。音楽を作る時には時々その人を呼び出すんだけど、それ以外の時はもう全然、それこそ他人って感じ。完全に離れちゃえばもう大丈夫よ!みたいなところがある」と述べ、ヒカルの夫である紀里谷氏との離婚を先駆けて話している。「彼の方が大変だったと思いますね。要するに、孤独みたいな私の像を救おうとしてくれたんですよね。でも結局、私は救われようとしなかったのかな……というところに帰結するんですかね。何か違う救われ方を望んでるのかもしれないですね」、「彼の言っている救いみたいなものが、私は違う気がしちゃったのかな……(中略)私に欠けてたものを与えてくれようとはしたんだけど、結局、私は割と元のまんまで。(中略)でも自己解決しちゃったって言えば、それだけのことかもしれないですね」と語っている。
 ヒカルが言う「私、何もしていないと、本当に存在しないくらい何もないんですよ。自分としては存在感が凄く薄い、気持ちとしては幽霊なんですよね。だからひとりでいると一番自然って感じ」とは、母藤圭子との別離に繋がった「一言」とその「ヒカルの自我」を忘却することで、心の安定を図っている、まるで崩れそうなガラス細工の心を吐露した若干24歳のヒカルの素顔だったのである。

 以上のような話しからヒカルは、2006年の10月頃に母藤圭子と同じホテルに同宿するも正面に話しをすることもできず、また長野まで出向いたもののすれ違いのまま、母とのわだかまりが解消することも無かったと筆者は推察している。ヒカルは何故か母親の像が、肌の感覚や髪のに匂いなど生身の母親ではなく、抽象化された「美しい」「憧れ」「遠い存在」などの観念が母親の形になっていくのである。
 
 2008年ヒカルが25歳の頃、音楽の仕事は多忙を極めている。
 HEART STATION レーベルモバイル「レコード会社直営♪」CMソング
 Fight The Blues EMIミュージック・ジャパン「モバえみ」CMソング
 TBS系『報道特集NEXT』テーマソング[300]
 Prisoner Of Love フジテレビ系ドラマ『ラスト・フレンズ』主題歌
 Eternally -Drama Mix- フジテレビ系ドラマ『イノセント・ラヴ』主題歌

 そんな多忙のヒカルさんは、楽曲に暗号のような歌詞をたくさん書いています。
 「Prisoner Of Love」を2008年3月にリリースします。ドラマ『花より男子2』の挿入歌ではありますが、その歌詞には母藤圭子との再会を暗示するような箇所があります「I'm a prisoner of love, prisoner of love, just a prisoner of love/I'm a prisoner of love, a prisoner of love/平気な顔で嘘をついて 笑って /嫌気がさして 楽ばかりしようとしていた/ないものねだりブルース/皆安らぎを求めている/満ち足りてるのに奪い合う/愛の影を追っている/退屈な毎日が急に輝きだした/あなたが現れたあの日から/孤独でも辛くても平気だと思えた/I'm just a prisoner of love/Just a prisoner of love…」、そして中盤から終盤かけて、ヒカルの思いを告げるような歌詞が並びます。「病める時も健やかなる時も / 嵐の日も晴れの日も共に歩もう / I'm gonna tell you the truth / 人知れず辛い道を選ぶ/ 私を応援してくれる / あなただけを友と呼ぶ /...../ Ohもう少しだよ / Don't you give up / Oh見捨てない 絶対に /.../ ありふれた日常が急に輝きだした 心を奪われたあの日から / 孤独でも辛くても平気だと思えた /.../ Just a prisoner of love / Stay with me,stay with me / My baby, say you love me / Stay with me, stay with me /一人にさせない/」と言う言葉で終わり、母と娘の再会と和解の期待が混ざり合った感情が透けてみえます。

 同じくフジテレビ系月9ドラマ「イノセント・ラヴ」の主題歌「Eternally -Drama Mix-」では、「ありふれた 愛だけど 私には幸せすぎでした/Innocent Love Innocent Love/満ちてゆく 生きてゆく/教えてよ 悲しみのない 世界など 何処にあるのか/教えてよ あなた一人で さよならを 頂いてゆくのを/聞かせてよ 夢の続きを 夜明けまで 抱き合いながら/聞かせてよ 幼い頃の あなたのこと 抱きしめるから/.../愛を選んだ人 愛を忘れた人/愛を憎んだ人 愛を捨てた人/そうね 愛なんて知らなくても/生きて ゆけたのに/口を閉じて 想い出して くやしくて…/」と何か心の底に眠る情念があふれ出ている歌詞である。

 「2008.10.31 女であること」で「(宇多田ヒカル)自身、予定されなかった妊娠で産まれた子だし。(親は避妊してたってことね。昔聞かされたけど。しょうがないから産んだみたい)。そんな子もいるわけだしさ笑」とあるし「まあうちの親が「しょうがないから産んだみたい」っていうのはちょっち言い方が悪かったかな。ただその、「なんで産むことにしたの?」って昔ママに聞いたら、「てるざねに悪いかな(中絶したら)」ってな感じのことを言われたんでなんとなくああいう言い回しになっちゃった (;´▽`A``」(2008.11.04あざ〜っす - Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikkiより )とある。まるで、母親から捨てられた娘のような発言である。

 2009年には、前述のケネディ国際空港で没収された現金42万ドルが圭子さんに、全額返還が決定されています。(計約4900万円)この時期、藤圭子さんの携帯電話がつながらなくなり、奇行が始まったと言われています。「携帯電話は勝手に解約しちゃうし、誰も連絡が取れない。北海道のすすきのや、四国の山中で目撃されたこともあった。娘の宇多田も母親の所在を把握しておらず、心配していた」(芸能プロ関係者)と言います。(日刊サイゾー 2010年8月16日より)

 2009年ヒカルさん26歳の頃です。
 Passion スクウェア・エニックスゲームソフト
 『KINGDOM HEARTS 358/2 Days』テーマソング
 
 Beautiful World -PLANiTb Acoustica Mix-
 クロックワークス/カラー映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』
 テーマソング

 ヒカルさんは、リリースした「Beautiful World」の歌詞に「.../ もしも願い一つだけ叶うなら / 君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ / .../ 夢見てばっか 自分が好きじゃないの / 何が欲しいか分からなくて / ただ欲しがって ぬるい涙が頬を伝う / 言いたいことなんか無い / ただもう一度会いたい / 言いたいこと言えない / 根性無しかもしれない / それでいいけど / もしも願い一つだけ叶うなら / .../ 君の側で眠らせて どんな場所でもいいよ/」と心境を吐露している。
 その寂しさを埋めるためか、9月には日本画家・福田天人さんとの同棲が報じられ、「人間活動に専念するため」と歌手活動の休止を発表するのである。※「福田天人さんとの交際が報じられたのは、2009年9月のこと。福田さんは宇多田ヒカルさんより8歳年上の日本画家です。交際当時、二人はロンドンで同棲生活を送ってい」たと報道されています。(女性セブン2013年9月19日号より)

 藤圭子の視点でこれまでのことを復習いしたいと思います。「藤圭子28歳の時、歌手引退し渡米します。そこで、最愛の夫・宇多田照實氏に出会います。ふたりは結ばれ、ひとり娘が生まれます。歌手復帰を望む声を頼りに、宇多田純子となった「藤圭子」は、過去の栄光をかなぐり捨てて、夫とともにひとり娘を一流の歌手に育てるため、地方巡業も厭わず音楽一家の牽引車として働きます。
 このストレスが、パニック性不安を生み、これに伴う鬱状態がパニック障害を生み、消化器系の身体症状が表れ「原因不明ですけど、この20年間(1987-2006)、吐きまくりの人生」が続くことになります。

 パニック障害にみられる、うつ病は悲観、落胆、希望のなさ、絶望感とともに身体的訴えが強いこと。また、パニック性不安うつ病の特徴は、抑うつ気分が強く、仕事や活動面の障害度が高く、消化器系の身体症状が多く、ふがいなさ感と絶望感が強いと言われています。

 ひとり娘が一流の歌手になると、「藤圭子」の過去の暴力団体質が悪影響を及ぼすことを恐れ、音楽一家から遠ざかることになります。失意の中、「好きな旅に思い立ったら出かけるという生活」と言う名の「放浪の旅」に出ます。そして、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港にて大金を没収された事件が起こります。これは、宇多田純子となった「藤圭子」が絶対に起こしてはならない「醜聞」でした。

 宇多田純子は、「藤圭子」を怨み、純子を「藤圭子」にした実母と恩師を怨みます。しかし、怨みきれない「藤圭子」がそこにいました。宇多田純子となった「藤圭子」は、このような葛藤を胸に、今や世界の歌手となったひとり娘に悪影響を及ぼさないよう世間から隠れるように生活を送ります。しかし、2009年頃になると、一カ所に居続ける暮らしを一変させるべく転地療養を兼ねて、同居人と共に日本の各地を旅したのかも知れません。しかしこれも「奇行」とされてしまったようです」。

 恐らく誰かがヒカルに、母親は「精神の病に蝕まれ、ヒカルマネーで散財・豪遊し遂には、麻薬がらみの「2006年ケネディ国際空港で没収事件」を起こし、弁明のため一度姿を見せたが、翌2007年には父以外の男性(元マネジャー)とマンション暮らしをはじめ、父照實氏は離婚されてしまった」とのストーリーをヒカルに植え付け、母親が別の人になってしまったことを吹き込まれたのではないだろうか。

 ヒカルは、「悲しい歌はすごい歌いやすいんですけどね。わたしの持ってる魂の色は、よっぽど悲しい的なもんなんだろうな、と思いました」、「う~ん、遺伝とかもちょっとあるのかなあ。さすがにあの母の子だなみたいな。あの母親にしてこの子ありなとこはちょっとあるなって自分でも思いますね」、「私が曲をつくる原動力って結局“恐怖”と“哀しい”と“暗い”なんですよ、全部」と「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」(大下英治著、イースト・プレス)にある。
 以前ヒカルは、こんなことも言っていた。「音楽は逃げ道でもあり、本家でもあり、みたいな。不思議なとこにあるんだよね、音楽って。この前、音楽をやってる自分をどう思うって聞かれて、「呪いですね」って言ってたら、横でお父さんが「因果って言ってよ」って言っていたんだけど(笑)」と。(ソニー・マガジン「Gb」[ライター/早川加奈子]より(2001年5月)

 宇多田ヒカル氏が27歳(2010年)の時に、公式ブログで、2011年以降アーティスト活動を一時休止することを発表した。「これは「引退宣言」ではありません!でも、「休養」でも「充電期間」でも無いんです。」と明言し、「むしろ熱心に、そして謙虚に、新しいことを勉強したり、この広い世界の知らないものごとを見て知って感じて、一個人としての本当の自分と向き合う期間になると思います。それは「アーティスト活動」とは違う、「人間活動」かな、と。」と綴っている(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikki 2010.08.09より)。もちろん「気持ちよく「人間活動」に突入するためにも、今年いっぱいは、ぱ〜っと音楽活動したいと思います!まず、秋に、シングルコレクションvol2をリリースします。vol1以降、けっこうシングルもたまってたからね。今回は、新曲も入るよ!4曲くらいになるかな。できたら5曲・・・!最近の私の気持ち、心境の変化が伝わるような、新曲たちになるように、がんばってレコーディングしてる真っ最中です。発売日が決まったらすぐ発表するからちょっと待っててね。
それ以外にも決まってることあるんだけど、おいおい発表していくよ!久しぶりに出演もするCMとかね・・・いろいろありますので!」とも言っていてCMも忘れていません。

2010年
光 スクウェア・エニックスゲームソフト『KINGDOM HEARTS Birth by Sleep』テーマソングスクウェア・エニックスゲームソフト『KINGDOM HEARTS Re:coded』テーマソング
Hymne à l'amour 〜愛のアンセム〜 サントリー食品「ペプシネックス」CMソング
Can't Wait 'Til Christmas
Goodbye Happiness 「レコチョク」TVCMソング
嵐の女神 森永製菓「1チョコ for 1スマイル」キャンペーンソング

 この年藤圭子は、母からの遺伝による眼疾患が悪化し、体調が一層悪くなる中、気掛かりな娘の恋人(福田天人氏)の家に行き「娘をよろしく」と伝え、また長く絶縁していた実母にも会いに行きます。

 ヒカルの恋人(福田天人氏)の家に行ったと言う報道についてですが、「週刊文春」(文芸春秋)によると、宇多田は現在、英・ロンドンで09年に交際が報じられた8歳年上の画家・福田天人氏と同棲中。藤(圭子さん)さんは生前、1回だけ福田さんに会い、「娘を、よろしくお願いします」と福田氏に告げたという。「二人が同棲を始めてからのことです。ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」と語るのは福田氏の祖母である。恋人の母親の急な来訪。…困惑をよそに、こう藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」とこれだけ言うと、藤は帰っていったと言うものでした。
 この記事は外見的には英・ロンドンに藤圭子が訪ねていき、福田天人氏に会い「娘(ヒカルさん)を、よろしくお願いします」と告げていたと読めます。確かに藤圭子は外国に行くのは慣れていたかも知れませんが「身を隠している藤圭子」がわざわざ宇多田ヒカルの恋人の家に行くのは不自然です。この記事は「週刊文春」以外でも報道されていますが一様に「二人が同棲を始めてからのことです。ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」と語るのは福田氏の祖母である。恋人の母親の急な来訪。…困惑をよそに、こう藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」とこれだけ言うと、藤は帰っていった」と同じ内容を伝えています。ここから読み取れるのは「二人が同棲を始めてからのこと」と言う時期と、「藤(圭子さん)は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」」という事実と「ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」という福田氏の祖母の伝聞で構成されていることです。

これを普通の文章にすると「(二人が同棲を始めたとされる)2010年のある夜、突然、藤圭子が訪れ(どこを)「娘を、よろしくお願いします」と告げたと、宇多田ヒカルの恋人である福田天人氏の祖母が話した」という取材記事だと考えられます。
だから「ロンドン」は場所を言っているのではなく時期を意味していて、また藤圭子が訪れた場所については明らかにされていないのです。ただ、「娘を、よろしくお願いします」と告げたと、宇多田ヒカルの恋人である福田天人氏の祖母が話したと言うことですから、藤圭子が出向いた先は、「ロンドン」でもなく「福田天人氏の祖母のところ」でもないはずですから、消去法で「長野県の安曇野の福田天人氏の身内(特に両親のどちらか)に違いないと考えています。

 また藤圭子が、「長く絶縁していた実母にも会いに行」ったことは、週間文春誌上(2013年9月12日号)の記事で「3年前(2010年)、孤独に追い込まれた藤圭子は、兄藤三郎氏が言うのには、絶縁状態になっていた母、竹山さんの元を訪れて、3000万円を渡したこと」、また、「竹山澄子さんの妹で藤圭子の叔母に当たる竹山幸子さんの話を引用」として「姉は2010年11月に亡くなりました。同じ年の2月、純ちゃんが「お母さん、今までごめんなさい」と言って突然訪ねてきた。1週間ほど姉の高島平のアパートに泊まっていたそうです。「親不孝してごめんなさい。お母さんと一緒に住みたい」純ちゃんはそう言ってきたそうです。...姉は当時すでに体調が悪くなっていて「住み慣れた場所から離れたくないけど、純子とも暮らしたい」と悩んでいました。私はずっと音信不通だった純ちゃんがそう言うのよ。住んだらいいじゃない」と言いました・姉はこのときに純ちゃんから西新宿のマンションに住んでいるとは聞いていた。自殺の時、同居していた男性についても、「宇多田さんから(純ちゃんの)マンションに一緒に住むように指示されていた人」だと言っていたそうです。純ちゃんの体調はあまり良くなかった。アパートで血を吐いたりしていました。鮮血を吐いたんです。あの子は1日にコンビニのおにぎり1個しか食べなくて、体も細かったから本当に体調が心配でした。私は「純ちゃん、まず体を治さないとだめよ」って声をかけました。医者に行きたがらないから。でも、姉が診てもらっている北里研究病院なら行くと言ってくれて。病院も近いという理由で三田にマンションを買うことになったのです。ところが1週間、姉と暮らしたけれど、「もういい」と気が変わってしまって帰ってしまった。当時も精神的に不安定なところがあったようで、それっきり連絡が途絶えてしまった。」とありますから事実と思われます。

 ただ、恩師石坂まさを氏を訪問していません。藤圭子の体力も限界にあり世間へのインパクトも考えてのことだったのでしょう。
 この頃、藤圭子の恩師石坂まさをは、「あいつは才能に溺れて、他人への恩義など忘れてしまったんじゃないのか!」(あるベテラン芸能ジャーナリストが聞いた作詞家の故・石坂まさを氏の晩年の言葉)と言う記事が報道されている。(藤圭子「恩師も呆れた晩年」2013年8月29日Asagei+)そして、「あいつ」呼ばわりされているのは藤圭子で、「結局、石坂氏は寂しかったんだと思います。もとより病弱で、糖尿病で左目を失明し、最後はガンを患っていた。なのに、藤は見舞いに訪れないだけでなく、音信不通になっていた。長い闘病の末、今年3月に亡くなったのですが、晩年の石坂氏は恨み言とはいえ藤のことばかり話していた。これも愛情の裏返しでしょうね」と記事は伝えている。

 スポニチの阿部公輔記者が最後に藤圭子と会ったのは3年前(2010年)で、ちょうどヒカルと音信不通になっていた時期だ。圭子は阿部にポツンと告げている。「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」と( 2013年10月4日「藤圭子と「昭和歌謡」の怨念(12)ヒカルの母に対する“ボーカリストとしての尊敬”」より)。このことが、実際に「自殺」の予兆だったのであろうか? しかしこの時点で、藤圭子自身の「死」に言及しているとしたら、 その直前(2009年頃)までは、もう一度家族と暮らしたいとの思いが強くあったのではないかと考えています。

 その頃のヒカルはどうだったのだろう。
 2010年にリリースした 「Goodbye Happiness」の歌詞をみると「So goodbye happiness / 何も知らずにはしゃいでた / あの頃へはもう戻れないね / それでもいいの / Love me / .../人は一人になった時に / 愛の意味に気づくんだ / 過ぎ去りし days / .../ Only you / ありのままで生きていけたらいいよね / .../ あの頃へ戻りたいね baby / そしてもう一度 kiss me 」とある。
 同じ年にリリースした 「嵐の女神」の歌詞をみると、「嵐の女神 あなたには敵わない/心の隙間を埋めてくれるものを探して/何度も遠回りしたよ/たくさんの愛を受けて育ったこと/どうしてぼくらは忘れてしまうの/嵐の後の風はあなたの香り/…/「許し」ってなに?/きっと...与えられるものじゃなく、与えるもの/どうして私は待ってばかりいたんだろう/お母さんに会いたい」とある。

 まるで愛しい人(母)が遠くへ行ってしまったという情感が伝わってくる。

 しかし報道はヒカルの熱愛に注目している。「宇多田は今年9月、8歳年上の画家・福田天人氏との交際が明らかになり、本人もブログで交際を認めた。「互いの家を行き来する仲」「すでに半同棲状態」とも報道され、来年にはゴールインとの見方が強まっている。宇多田は、来年1月15日から2月12日までニューヨークやロンドンなどを回る初の海外ツアーを控えており、ツアー後の3月入籍が最有力」(2011年03月08日メンズ・サイゾー)。
 「彼とは8歳年上の画家で、2009年9月に週刊誌がスクープした人物。宇多田は彼との関係について、自ら知人達もいる飲み会の席で口にしたという。「彼女は結婚するというわけじゃないけど、真面目に一般人としての付き合いがしたいんですよ。かっこ悪い自分になりたくないと。きっと当時から活動休止について考えていたんでしょうね。ふたりは、お互い決めたことには干渉せずに応援するというスタンス。だから、彼も宇多田の決断を尊重し、見守ってくれるのでしょうね」(音楽関係者)
 ただ話しは加熱し「2011年3月に画家の彼氏と婚前旅行にでかけていた」とか「天人さんの実家周辺では、宇多田の目撃情報がどんどんでてきた。近くのそば店でも宇多田が目撃されたという声があるので行ってみた。すると店内には、宇多田のサインが飾られていた。日付けは2008年10月22日だった」とか、さらには「宇多田ヒカルは2010年8月に人間活動に専念するために歌手活動を無期限休止し、その後ロンドンへと渡った。天人氏は宇多田ヒカルの後を追いかけた。2人でロンドン生活を送っていた」などの報道がされているが、事実はどうだったのかは調べようもないのです。

 無期限休養を発表した翌月の2010年11月21日宇多田ヒカル氏は、東京・六本木でFM局・J-WAVEのラジオ番組「TOKIO HOT 100」の公開生放送に出演した際、「50歳くらいになった時、マネージャーなしじゃ何もできないおばさんにはなりたくなかった。イタイ大人になっていくのはかっこ悪い」とも言っています。(暗にマネージャー(同居人)と共同生活を送っている藤圭子さんへの皮肉にも聞こえます。もしかしたら、そのことも承知していたと考えています。 )

 ヒカルが28歳になった2011年3月に、画家の彼氏と婚前旅行にでかけていたという報道があった。「よくふたりで自転車で出掛ける姿を見かけますよ。このマンションの駐輪場は、宇多田さんの自転車の隣にピンクとブルーのお揃いのヘルメットが並んで置いてあり、いつもそれをかぶって仲良くでかけますよ」(同じマンションの住民)音楽活動を休止している宇多田ヒカルは、人間活動宣言から3ヶ月、彼と一緒の生活を楽しんでいたようだ。そんなふたりが2011年3月1日都内のマンションから姿を現した。タクシーを止めて乗り込むと向かった先は東京駅。
 「急いで、時間がないから」と彼に急かされた宇多田は、小走りで駅のホームへ。「いきなりすっぴんの宇多田さんが飛び込んできたので、もうびっくりです。男性に見せる笑顔と声ですぐ宇多田さんだとわかりました」(同じ車両に乗ってた人)ふたりが下車をしたのは、終点の伊豆急下田駅。ふたりは大柄な男性が迎えにきた車に乗り込みどこかえ消えていった。
 「宇多田さんは花見が大好き。2011年3月初旬のひな祭りの時は、早咲きの河津桜が伊豆一帯で咲き誇るシーズンです。この時期は桜まつりで賑わうので、花見旅行だったのではないでしょうか?」(音楽関係者)。気になる伊豆駅で宇多田を迎えにきた男性についてだが「彼のお父さんでしょうね。お父さんは信州で自然のよさを楽しめる宿泊施設を経営しているのです。宇多田さんもそんな彼の父親に影響を受けているようです」(音楽関係者)と報道されている。「2011年1月放送された宇多田の特集番組でも、最近は田舎によく行くようになったと話していましたから、彼の父の影響なんでしょう」(芸能レポーター)。

 一方宇多田照實氏だが、「2年ほど前(2011頃)だったろうか、照實さんと会って、いろんな話をしたのだが、この時夫婦は既に、何回目かの離婚をしていたのだが、「何といってもヒカルの母親だからね。純子が望むことには出来るだけ応えて、サポート出来ることは、したいと思っているんだよね」と、保護者のような、あたたかな表情で、元妻を語る照實さんにも驚いた」(残間里江子ブログ 駄目で元々雨、アラレ)とあります。

 「藤圭子」は、今や世界の歌手となったひとり娘宇多田ヒカルに悪影響を及ぼさないよう世間から隠れるように生活を送り、 人間活動に専念する娘宇多田ヒカルは画家の彼氏と行動をともにし、夫(世間では元夫)の宇多田照實氏は「何といってもヒカルの母親だからね。純子が望むことには出来るだけ応えて、サポート出来ることは、したいと思っているんだよね」と優しい言葉を忘れないのだが、三者三様に直接の連絡を避け、音信不通の状態でいたのだ。「藤圭子」も宇多田照實氏も、娘宇多田ヒカルのことを大切に思い見守っているし、娘宇多田ヒカルも距離(Distance)を置きながらも、両親特に母「藤圭子」に会いたいという気持ちがあるのに三者はバラバラに過ごしていたのでした。このことが、三者三様のサイコパシーが綾なす「悲劇」への前奏であったのです。

 2012年 圭子さん61歳、ヒカルさん29歳、照實さん63歳の時である。
 「ヒカルは3年前に“人間活動”と称して、いっさいの芸能活動を休止しています。実は、この行動は母親のためにヒカルさんがとった行動にほかなりませんでした。ヒカルさんは、母とうまくいかない原因が、自分が得たお金にあるのではないかと気にかけていました。歌手としてではなく、娘としてなら、藤さんとまた向き合うことができるはず、そう考えたのでしょう」(音楽関係者)。
 芸能活動を休止してまで、母親の身を案じはじめたヒカル。音信不通になったままの藤さんへの思いは、募るばかりだった。藤さんの全盛期時代に一緒に仕事をしたレコードディレクターの榎本襄氏は、ヒカルの気持ちをこう代弁する。「休業してからも、やっぱり彼女は母親のことを気にかけていたんでしょうね。今年の春(2013年)から月1度、インターFMで『KUMA POWER HOUR』のDJをはじめました。そこには、『自分の声を発信していれば、母親に届くかもしれない』、またリスナーから藤さんの情報がもたらされるかもしれないという思いもあったことでしょう」
 去年(2012年)7月、藤さんの誕生日に、ヒカルはツイッターでこうつぶやいている。「《『面影平野』歌うカーチャン、すごくかっこ良くて美しい》一時代を築いたシンガーがほかの誰より憧れたのは、自分を歌手へと導いてくれた母だった。娘の切なる願いは、音信不通となった母に最後まで届くことはなかった。母娘にとって、あまりにも悲痛すぎる結末だったーー」と2013年8年27日づけの「女性自身」on Webで「宇多田ヒカル「娘として…」人間活動とDJ始めた深いワケ」と題して報道している。

 藤圭子の報道は自死後様々に報道されているが、2010年の福田天人氏と実母竹山澄子宅への訪問後の消息はあまりはっきりとしていない。藤圭子の自死関連の報道して、「マンションの住人によれば、「足元のおぼつかない藤さん(実際は自殺するまで藤とは気づかなかった)を男性が手を引いてエレベータに乗せていた。かなり足腰が弱っている印象だった」と話す。その住民によれば、親子のように見えたという。
 さらに、「藤圭子さんとは知りませんでしたが、13階に住んでいる女性は普通の主婦っぽくなくて目立ちました。目が少しうつろで、ボ~ッとしているようにも見えました。よく若い男性が手首を引いて「こっち! こっち!」とやっていたので“息子さんかな”と思いました」と話し、また別の50代女性は「マンションの玄関前で、若い男性が「阿部さん、阿部さん」と呼んでいるのを見たことがある」と言います。さらに、また亡くなる10日ほど前には藤さんの姿がマンション内で目撃されと言う情報もあります。

 このように2011年、2012年と藤圭子に関する話題は報道されていない。ただ2011年には、「ヒカルさんは「2010年秋、シングル・コレクション『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』をリリースしていますが、2011年以降アーティスト活動を一時休止」した報道や、「2年ほど前(2011頃)だったろうか、照實さんと会って、いろんな話をしたのだが、この時夫婦は既に、何回目かの離婚をしていたのだが、「何といってもヒカルの母親だからね。純子が望むことには出来るだけ応えて、サポート出来ることは、したいと思っているんだよね」と、保護者のような、あたたかな表情で、元妻を語る照實さんにも驚いた」(残間里江子ブログ 駄目で元々雨、アラレ)とある程度の報道で、2012年には、去年(2012年)7月、藤さんの誕生日に、ヒカルはツイッターでこうつぶやいている。《『面影平野』歌うカーチャン、すごくかっこ良くて美しい》と。

 だからスポニチの阿部公輔記者が最後に藤圭子と会ったのは2010年に、藤圭子が阿部にポツンと告げた「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい‥‥」というのは、体調の悪化や孤独から発せられた言葉であり、娘のヒカルのため身を隠している藤圭子が、すすんで自殺を考えていたとは考えづらいのである。 ただ藤圭子の死ついては、娘のヒカルにダメージを与えないように考えていたに違いない。

 翌2013年の3月18日に恩師石坂まさを氏(本名澤ノ井 龍二)が死去します。71歳でした。晩年病床中の恩師石坂まさをは、藤圭子に会いたいあまり「あいつは才能に溺れて、他人への恩義など忘れてしまったんじゃないのか!」と洩らしていたいうベテラン芸能ジャーナリストの話しが報道されていた。
 藤圭子は葬儀にも行かれないかと逡巡します。しかし葬儀に出席することは叶いませんでした。しかし、故石坂まさを氏(作詞家)を偲ぶ会が8月23日午後6時から東京都千代田区のホテルルポール麹町でひらかれることが決まります。もちろん藤圭子にも出席を求める声がかかります。
  会の主催者は(世間的には行方不明だったので)当然藤圭子に直接連絡できませんからユースリーミュージックの宇多田照實氏に連絡を取ったに違いありません。そして、同居人を通じ藤圭子に伝えられていたと考えています。

 音楽プロデユーサーを務めた酒井政利は、藤圭子と共通の知人を介して、「藤圭子が8月23日に行われる石坂まさをを偲ぶ会に出席する」と聞いていたと話しています。しかし藤圭子は、その日の前日(2013年8月22日)に自殺しているのです。
 「藤圭子が8月23日に行われる石坂まさをを偲ぶ会に出席する」と聞いていたとすると、誰かが「偲ぶ会」の主催者に「出席する」旨を連絡しているはずです。
 初代林家三平さんお妻の海老名香葉子さんは、石坂さんが亡くなった時も「探したけれど、ロサンゼルスの病院に心身の病気で入院していると聞いた」と述べていているから多くの方が海外にいるものと考えていたに違いない。

 筆者が考える藤圭子の「自死」は、恩師石坂まさを氏の不義理のお詫びと「同居人」の行く末や、ヒカルさんと照實氏に「これ以上迷惑をかけたくないと言う意志」に起因しており、「私は誰にも知られずに、消えてゆくように死んで行きたい」と言う気持を優先させながらも、「石坂まさをを偲ぶ会」が迫る中で、止む無く芸名をいただいた恩師石坂まさを氏の前に「藤圭子」を献身することで「出席」に代え「義理」を果したのではないかと考えています。偲ぶ会に出席した人の中には、石坂まさをへの抗議の自殺だったのではないかと話す人もいたようですが、筆者は、むしろ後追い自殺とみなすほうが自然だと考えています。

 圭子さんとの「最後の会話」について、照實氏は「最後に僕が純子と会話をしたのは今年(2013年)の8月14日でした。純子からでした。この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました。その8日後の自殺となってしまいました」(MESSAGE from Hikki - 宇多田ヒカル https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/)とあります。そのお願いごとの中身はわかりませんが、その中に「偲ぶ会の出席」があっても不思議ではありません。

 あと照實氏は圭子さんの「遺言書」に触れ、「通夜、葬儀に関しては、故人の遺言書に書かれていた本人の強い意志に従い、執り行わないことにしました」と述べています。またヒカルさんも、「遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました。他の解釈の余地の無い、母らしい、非常に率直な遺言書です。その遺言書の内容に基づき、出来る限り母の意向に沿うべく精一杯の弔いをしています。...葬儀や告別式といったイベントを好むような人ではなかったことを、母をよく知る者、母のためを思う方なら、ご理解」してくれると、わざわざ「遺言書」を追認し、この「遺言書」を圭子さんが書いた時期を、2013年の始めとしています。
 確かに藤圭子ことRAU.が1997年に作詞作曲した「男と女」の最後の方に「もしも死んだら 海に帰して 心と身体 燃え尽きた 男の命 女の命 海に帰って また結ばれる 飛んで 飛んで ああ 夕日浴びたカモメ 海に命を 託して」とあるから、さもあらんとは思う。が日付けも「今年の始め」とか、内容が葬送のことだけとすると「遺言書」と言うより「遺書」にも見え何か不自然に見える。
 さらにこの後ヒカルがオフィシャルサイトで「2014.02.03 ファンの皆様へ、マスコミ関係者の皆様へ 近々、結婚することになります。...相手はイタリア人の男性です。...あと…喪中であるため、結婚を延期すべきか悩みましたが、母との最後の会話の中で彼の話をした際、「こんなに嬉しそうな母の声を聴くのは何年ぶりだろう」と思うほど喜んでくれていたので...予定通りに結婚」したとあります。
 そうなると、照實氏の圭子さんとの「最後の会話」が「今年(2013年)の8月14日」と言っていますから、ヒカルさんの圭子さんとの「最後の会話」もほぼ同時期となり、音信不通の母娘が会話を交わしたということはなかなか信じがたいのです。
 何故なら相手のイタリア人の男性がヒカルにプロポーズされた時期は、「宇多田は昨年の夏に15日間、男性の出身地のプーリア州ファザーノ市に滞在していた。同所をとても気に入り、「ここで結婚しよう」とリクエストしたという( 2014年2月6日スポニチ)」報道もあり、2013年の夏にプロポーズされたことになるからである。
 もしこれが事実だとすれば、ヒカルは父親にこのことを報告し、同居人の電話番号を聞き、母親の藤圭子に電話したことになります。さもなければ、照實氏の圭子さんとの「最後の会話」に何か不吉な予感がして、ヒカルの音楽事務所を通じヒカルに連絡を入れ、事情を説明し、ヒカルから母親の藤圭子に電話させたとも考えられ、その話しの内容が「イタリア人男性からヒカルがプロポーズされた」話しであったとも考えられるのである。このように余りにも偶然過ぎる内容なのである。

 いずれにせよ、2013年の始めに「遺言書」を作成し、8月14日以降に照實氏とヒカルさんが藤圭子と「最後の会話」して、22日の朝に自殺したことになります。今まで音信不通の三人が自殺の直前に会話をしていることになり、何故藤圭子の自殺を止めることができなかったのか大きな疑問が残ります。

 そして藤圭子の自死後であるが、2013年8月29日、J-CASTサイトに掲載された記事によれば、同年春頃、藤圭子が「救いのない歌詞を長年歌っていると何だか人生救いが無くなる」と言っていたと、照實氏がツイートしていたといいます。藤圭子は、自分がデビューした当時から歌っていた ”演歌” を長く歌うことで、気分が沈むようになるということを言いたかったのでしょう。そしてその気分が沈む演歌を、娘のヒカルが歌うことを強く禁止していたのだと思います。2013/04/30 Tue 宇多田照實さんのツイートを見てみましょう。
 「おはよう!ゴールデンウィーク、みんな良い時を過ごしてるかな。牧伸二さんが亡くなりました。福島被災者慰問で彼は「やんなっちゃった」って50年も言っ てると本当にやになっちゃうって。藤圭子も言ってます。救いの無い歌詞を長年歌っていると何だか人生救いが無くなるって。teruzane」
 「歌詞って歌手に知らず知らずに凄い影響を与えるんだと思う。心を込めて歌う歌手であればあるほど。悲しい歌でもどこかに救いの一行があればとっても救われるんだと。そんな歌を藤圭子は求めていました。自分でも作詞作曲するようになっていたし。teruzane」

 これを裏付けるようなヒカルさんのツイートもあります。これも見てみます。
 外国では宇多田の家族があまり知られていないことを受けて、「あまり知られていないでしょうけど、わたしの母は演歌(日本のブルース)歌手なんです。パフォーマーとして尊敬しますし、娘から見ても美しいです!」と紹介すると、「母の『面影平野』や美空ひばりの歌はよく歌います。でも、母がこのことを知ったら、殺されるかもしれませんね。演歌はすごく特殊な形式で、歌詞は暗いものが多いのです。そして、母はそのことがわたしの歌や人生に影響するのではないかと不安に思っているので……」と続く複数のツイートで、今まであまり明かされることのなかった母子関係にも言及した。
<原文>
※多田ヒカル @utadahikaru at 2010-10-12
For those of you who don't know, my mum's a famous enka(Japanese blues) singer. Amazing performer-and beautiful! Google her! "Keiko Fuji"
※宇多田ヒカル@utadahikaru
I sing my mum's songs at karaoke, esp "Omokage Heiya," and Hibari Misora's "Midare-gami" too. My mum would kill me if she knew I sang enka.
※宇多田ヒカル@utadahikaru
Enka has a very particular style of singing, lyrics are often very sad, and my mother didn't want it to influence my singing, or my life...

 ここまでの経緯について筆者なりに少しまとめたいと思います。藤圭子が1982年に宇多田照實氏と結婚し、1983年1月にヒカル(本名宇多田 光:1983年1月19日生)を出産します。
 宇多田照實氏のコメントの中で「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられました」と言っていますが、藤圭子が歌手復帰(1981年7月)前後に交流のあった残間里江子さんのブログ によると「「素敵な人と出会ったの」と、お父さんの仕事の関係で、NYで育った、宇多田照實さんを紹介され、その後2人が、結婚することになった時は、私が立会人になって、港区役所に届け出をしたのだった。それから間もなく、「子どもが出来たみたいなの」と、訪日した時には、3人で私の友人が紹介してくれた、病院へ行って妊娠を確認し、英文で診断書を書いてもらって、NYに戻り、生まれたのが、ヒカルちゃんだった。「初めてヒカルちゃんを見たのは、超音波の写真の中で、光っていた、ヒカルちゃんだったわね」、そして、「臨月の時には、NYの家を訪ね、大きなお腹で手料理を作ってくれたり、1983年に私が雑誌の編集長になった時には、創刊号でNY特集をしたのだが、取材にも協力してくれて、照實さんが乳母車を引いて、親子3人でセントラルパークを、散歩している写真を、雑誌に掲載させて貰ったのだが、この時は、いかにも幸福そうに、「宇多田純子」としての人生を、堪能していた」と述べています。

 1989年に藤圭子宛てのヒカルの便箋の中には、「ママ、どうしてお仕事に行くの、ヒカル淋しいの」とたどたどしいヒカルちゃんの字が、二行だけ淋しく泣いていたと言う。藤圭子は、娘にR&Bのリズムを体から染み込ませ、ネイティブな英語を身につけさせようと、一家でニューヨークに移住しようと考えていました。それは、日本で生きることに苦労してきた自分と同じつらさを味わわせたくないという気持ちが大きかったからだろうと思われます。

 この時期は、決して楽な生活ではなかったが、ニューヨークでの生活資金が底をつけば、帰国して日本各地を巡り、歌をうたう生活。それでも、家族3人で愛車の「ミニ」に乗って地方を旅した7年間は藤さんにとって幸せな時間だった。「裕福な生活ではありませんでしたが、以前のようにトラブルのもとになるようなお金もないですし、周囲の目を気にする必要もない。純粋に心から信じ合える家族とずっと一緒にいられることが彼女にはこの上ない幸せだったんだと思います」と宇多田家の知人が言っています。

 また、藤圭子と親交のあるカルーセル麻紀は、ヒカルが小さいころよく預かっていたほどの仲だったそうで、「彼女は表に発散するタイプではなかった。悩みがあると内にこもるところがあった。最近ではよく吐いて顔がむくんでいた。」と話していた。さらに、藤圭子と10代の頃からの親友だった歌手八代亜紀は、「テレビ局に、子どもを連れてきてはしゃぎまわっているヒカルを叱っていた姿はまさにお母さんだった。」と話しています。

 こうして見ると、藤圭子は愛娘の光を一人前の歌手に育てるため、実母とも別離するようなお金をめぐるトラブルを抱えていたことも容易にわかる。生活資金を維持するため「(日本に)帰国して日本各地を巡り、歌をうたう生活」は、正に「八面六臂」の過酷とも言える生活を続ける中で藤圭子は、カルーセル麻紀が話すように、「よく吐いて顔がむくんでいた」生活がはじまったのかも知れません。

 もう少し藤圭子の歩みを見てみよう。1992年の夏、作詞家・石坂まさをに光の歌をぜひ聴いて欲しいと迫り、ヒカルがいかに天才であるか、熱弁をふるっている。純子41歳、光8歳のときだ。しかし、石坂まさをは藤圭子の願いを叶えることはできなかった。
※9才の時、怒りとか不満といった感情が完全になくなっていることに気付いた。外界になにも求めなくなっていた。(私の求める救済はそこにはないんじゃないかな…。)その感じ始めると、外界の出来事にいちいち心を振り回されるのは時間とエネルギーの無駄にしか思えなかった。「間違ってる」と感じる他人の行動や世界のあり方を、理解しようとするのをやめた。「どうして?」なんて問うことは無意味に思えた。外の世界のことは、ただ「知る」だけでよかった。自分の内側の世界のほうが大事だった。そこには自由があった。想像と思考は無限で、最強だと思った。うちに秘めた想いには、神聖なものが宿るようだった。「諦め」という屍を苗床に、「願い」と「祈り」という雑草が、どんどん私の心を覆い尽くしていった。絶望が深くなればなるほど、この雑草もたくましさを增すようで、摘んでも摘んでもまた生えてくる、やっかいなものだった。でも「願うこと」「祈ること」は、「求めること」と決定的に違う。それは「希望」と「期待」の違い。(前者は、してもいいことなんだ…っつうかどうしようもなくね?)と気付いた。それに、願いと祈りをなくしたら私になにが残るだろう。人ではいられないだろう。ならば雑草よ、好き放題に生えるがいいっ!とにかくいろんなことを学びたい、吸収したい。楽しいことも怖いことも、良いことも悪いことも、成功も失敗も、出会いも別れも、みんな私の世界を大きくする。同等の価値がある。私を豊かにするものを拒む理由はない。どんなことも受け入れられる。——(ヒカルが)8才までに形成された、私の基本姿勢です。

 翌1993年 には、夫・照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、藤圭子自らも取締役になっている。同年のU3の唯一のアルバム「STAR」のリリースを控えてのカラーグラビア・インタビューでは、「子供の頃から歌が好きと思ったことは一度もなかった…歌えなくなって、初めて私は歌が好きだったと気がついたんです」、「新しい藤圭子も少しお聴きください」と述べている。これは、藤圭子(RA U.)、宇多田照實(SKING U.)、宇多田ヒカル(H。IKASO U.)の家族3人ユニット「U³」(キュービック・ユウ)を結成してセンチュリーレコードと契約し、アルバム「STAR」を発表、当時9歳の宇多田ヒカルもボーカルとして参加し、ニューセンチュリーレコードの前身であるセンチュリーレコードから「U³」(キュービック・ユウ)としてロック曲を収録したスタジオ・アルバムでした。事実、アルバム「STAR」の中で、宇多田光をcubic Uとして「ゴールデン・エラ Golden ERA (with cubic U)」を歌っている。その外にも「子供たちの歌が聞こえる 」(作詞・作曲:RA U. / 編曲:平岩嘉信)などcubic Uこと宇多田ヒカルの歌は優越です。

 1996年頃だった。新宿・歌舞伎町の台湾料理屋で夫の宇多田照實と藤圭子と彼女を世に出した石坂まさをと、「4人で会ったんだ。2時間ぐらいだったな。その時、デモテープを聴かされたけど、私は魅力を感じなかった。私は怨み歌の藤圭子が好きですから、そういうものではなかったから。本人は、演歌から転換したかったんだと思うけど、私は力を感じなかった。中途半端な歌謡曲って感じで。石坂さんも乗らなかった。ヒカルちゃんについては「この子はアメリカで歌の勉強をしているけれど、絶対にデビューするから」と自信満々に自慢していたけど、結局は石坂さんに自分を売り込みに来たんだよ。(大下英治氏談) 」と語っています。

 ヒカルが14歳の1997年、ここまで藤圭子は宇多田ヒカルを一人前の歌手に育て上げ、1997年1月、アメリカの「EMI USA」から「Cubic U」としてシングル「Close To You」(「遙かなる影」のカバー)、次いでアルバム「Precious」をリリースしようとしますが、「EMI USA」がなくなってしまいます。
※14才くらいからインタビューを受けるようになって気が付いた——「今まで自分のことを考えたことがあまり無かったんだな」。(ヒカル)

 しかし、1997年秋、東京のスタジオでレコーディングをしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目(東芝EMI(当時)のプロデューサー)にとまり、有限会社ユースリー・ミュージックの取締役社長でヒカルの父、宇多田照實氏にヒカルの日本デビューを持ち掛けます。ヒカルはアメリカで「Cubic U」としてソロデビューも控えていた時期でもあったのですが、演奏やソングライティングに難のあった照實と演歌のイメージの強い圭子を外し、ユニット「U³」(キュービック・ユウ)を解消させて 「宇多田ヒカル」としての契約にやっとこぎ着けました。 つまり、父親宇多田照實氏の説得により1998年1月28日に『Precious』を日本で発売し12月に「宇多田ヒカル」としてデビューする事になるのです。藤圭子は、「娘は天才なのよ。今、ニューヨークで歌の勉強をしているから、見ていてごらん。あと何年かすると、あっと驚くようなデビューを見せるから」と興奮気味に語られたといいます。

 1998年 娘・光が、謎の天才少女・宇多田ヒカルとして日本の音楽界に突如現れ、両A面シングル「Automatic/time will tell」で東芝EMIよりCDデビュー。14歳で自ら作詞・作曲を始めていたことを多数の音楽家が評価していたことと、藤の実の娘であることが知れ渡り、翌年発売のデビューアルバム「First Love」が700万枚超を売り上げ日本記録を樹立、瞬く間にトップアーティストの仲間入りを果たす。
 母親藤圭子はそんな娘を天才と信じ、尊敬さえしている。「神さまが授けてくれたんです。私はただ私のお腹を、その大きな力に貸しただけだと思う」 とまで言っています。

 しかし藤圭子は、宇多田ヒカルの出現と同時期に事実上、歌手を廃業し歌手活動を「封印」しています。ヒカルがブレイクするとプロデューサーでもある父親である照實は藤圭子の暗いイメージがヒカルに影響することを恐れ、母親である藤圭子の存在をNG扱いにしたのです。ヒカルに付きっきりの父と、追いやられる母。照實氏とヒカルの所属レコード会社は、とにかく「ヒカルと藤圭子の親子関係」に触れられることを極度に嫌がっていました。何故かと言いますと、東芝EMIではもともと宇多田ヒカルを「アメリカからの帰国子女」として売り出しており、当初は宇多田ヒカルの経歴の多くは明らかにされませんでした。これこそがプロモーションの戦略のひとつでもあったのです。

 「デビュー後、宇多田ヒカルがアルバム『First Love』で累計売り上げ枚数765万枚という前人未到の記録を打ち立てるが、そんな成功し、デビュー直後から日本を代表する歌姫としての地位を確立した彼女のインタビューを紐解いていくと、歌を始めたきっかけからして「親のため」であるという驚きの真実が浮かび上がってくる。さらにその後、音楽活動を続けていくモチベーションについても「親が喜ぶからわたしも音楽やってたわけだけど」と発言するなど、立て続けにヒット作を連発する陰で「家族」「親」という「呪縛」は常に宇多田ヒカルを苦しめ続けた」のです。(2015年12月8日リテラより)

 このように、藤圭子がヒカルを歌手に育て、デビューするまでの道筋は父である音楽プロデューサーの宇多田照實の功績であり、母の藤圭子も父宇多田照實氏も、娘のデビューを心から望んでいたのです。
 ヒカルは、「わたしの母は演歌(日本のブルース)歌手なんです。パフォーマーとして尊敬しますし、娘から見ても美しいです!」、「母の『面影平野』や美空ひばりの歌はよく歌います。でも、母がこのことを知ったら、殺されるかもしれませんね。演歌はすごく特殊な形式で、歌詞は暗いものが多いのです。そして、母はそのことがわたしの歌や人生に影響するのではないかと不安に思っているので」と述べています。
 つまり藤圭子=演歌、演歌=「救いの無い歌詞を歌うと人生も救いが無くなる」、だから音楽プロデュースも藤圭子抜き、ヒカルの音楽製作も藤圭子抜きで父宇多田照實氏と二人ですすめ、いつしか藤圭子はヒカルの音楽製作現場から締め出され、ヒカルに会うことさえ禁じられ、「好きな旅」に行かざるを得なくなるのです。
 そしてヒカルからこの時期を見ると、母が生身の存在が消え、抽象化された「美しい」、「憧れ」、「遠い存在」が母の姿になり、その理想への「恋歌」がヒカルの音楽の原点となっていくのです。
 だからヒカルは、「悲しい歌はすごい歌いやすいんですけどね。わたしの持ってる魂の色は、よっぽど悲しい的なもんなんだろうな、と思いました」、「う~ん、遺伝とかもちょっとあるのかなあ。さすがにあの母の子だなみたいな。あの母親にしてこの子ありなとこはちょっとあるなって自分でも思いますね」、「私が曲をつくる原動力って結局“恐怖”と“哀しい”と“暗い”なんですよ、全部」と述べています。(大下英治著「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」(イースト・プレス)より)

 ここで言う「私が曲をつくる原動力って結局“恐怖”と“哀しい”と“暗い”なんですよ、全部」とは、ヒカルが持つサイコパシーそのもので、「その苦悩は私生活にも大きな影響を与える。彼女にとって最初の結婚である紀里谷和明との結婚、そして離婚も、父・照實が大きく関わっていた。実際、この間、ヒカルは父親との関係を一切断ち切ろうとする動きを見せたこともあるというが、結局、それをやりきることはできなかった」からこそ、「2010年8月、宇多田は「人間活動」という休養を発表することで「音楽」、つまり「親」との関係に距離を置くこととなった。そして、この「人間活動」の間、ついに彼女を「呪縛」から解き放ってくれるものが現れる。それが、イタリア人男性との再婚であった」(2015年12月8日リテラ「祝!宇多田ヒカル活動再開...宇多田を人間活動=活動休止に追い込んだ「家族」の呪縛、そして再開の理由とは?」より)。この記事は藤圭子の自死後書かれているので、「家族」「親」という「呪縛」から解き放ってくれる人物として再婚相手の「イタリア人男性」を上げているのだ。

 2016年ヒカルについては、ついに待望の復帰がなされるのです。2016年4月に配信シングル「花束を君に」「真夏の通り雨」のリリースによってアーティスト活動を再始動。2017年3月にはEPICレコードジャパンにレーベル移籍。また2018年6月27日に7枚目となるアルバム『初恋』を発表。そして今回12年ぶりのコンサートツアー【Laughter in the Dark】の開催、とまさにデビュー20周年を迎えるにふさわしい精力的な活動をみせた。

 特筆すべきは、宇多田ヒカルの『Fantôme』は、2016年9月28日にリリースされるが、「今回のアルバム制作について、インタビューである。「今回のアルバム制作は『受け入れて、受け入れられる』というプロセスでした」。また、「母(藤圭子)の死とともに全てが公になって、自分に課していたセンサーシップ(=検閲)のようなものが無くなった」、「彼女が亡くなってすぐの頃は『もう音楽なんて書けないかもしれない』と思っていたが、いざ書き初めてみると、羽ばたくぐらい自由に言葉が選べた」という。
 アルバム制作が本格的に始まったのは、2015年の3月頃で、まず最初に完成した楽曲は「真夏の通り雨」だった。同曲は、妊娠中に唯一完成した楽曲だったという。次に作ったのが「花束を君に」だった。同曲のタイアップ先であるNHKの「連続テレビ小説」が国民的な番組だったということで、宇多田は「意識的にいつにも増して間口を広げる作詞をした」という。また、宇多田は同曲を書いた後に、自死遺族の会合に行っていたといい、そこで「亡くなった人に手紙をかくと、気持ちが整理できる」ということを聞き、そこで初めて自分が同曲の制作でそれをやっていたことに気が付いたと語った。宇多田はこれについて「手紙をしたためるという、考えて考えて言葉を紙に残すというプロセス。言葉に書き残すという作業は取り消せない。一言一句、責任を感じて書かなければならない」と語っている。そして、そのようにして「すごく勇気をもって、何も隠さず、強がらず」に書いた同曲が世に出たときに、その反応がすごくポジティブだったこと、「わかってくれている」「受け入れられている」と感じたことが嬉しく、また勇気となり、その後の制作にあたって背中を押されたという。そして、(この2曲を除く)アルバムのほとんどの曲の歌詞は、そこからの約3カ月で一気に書き上げられた。また、自ら過密なスケジュールの組み方をしたために、宇多田は今回の制作ではスケジュールが一番のプレッシャーだったと語っている。「道」「ともだち」「荒野の狼」「忘却」の制作では、このスケジュールの都合により、新たな作詞方法を導入していた。それは、まずキッチンに座り、ラップトップを開き、ヘッドフォンで流れてくるトラックを聴きながら、ひたすら聞こえてきた言葉や思ったことを打ち込んでいく作業だった。これにより、これまで稀に1年もかかることのあった作詞を、わずか2日ほどで完了させることができたという。宇多田は、アルバム完成時にTwitterで心境を吐露、その喪失感を綴った。また、ファンからの質問に答える企画「#ヒカルパイセンに聞け」では、ニューアルバムについてのファンの質問に、「俺、こんな作品二度と作れねーよ」、「今回は全部の歌入れが終わった夜から、泣いたぜ」と答えた」とある(ウイクペディアより)。

 藤圭子は宇多田ヒカルの才能を見抜き、音楽の英才教育を行い歌の世界に導き入れたが、演歌のもつ日本人独特の感覚や情念を嫌った藤圭子と宇多田照實氏が、結果として宇多田ヒカルと藤圭子を遠ざけ、藤圭子自身も自ら身を隠したことから、宇多田ヒカルの”恐怖”と“哀しい”と“暗い”というヒカル独特の様々な楽曲が生まれ、過剰なまで母娘の引き離しを行った宇多田照實氏のサイコパシーが、家庭崩壊とともに藤圭子の自死へと向かわせたのです。
 しかしながら、「藤圭子の死」が再び宇多田ヒカルに息吹を与え、「亡くなった人に手紙をかくと、気持ちが整理できる」ということを聞き、そのようにして宇多田ヒカルの楽曲製作のスタイルが確立し、結果として、藤圭子の跡を継ぐに相応しい「天才歌手」として、その名を欲しいままにするという現代の「奇跡」を産み出したのです。(了)


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