藤圭子と宇多田照實及びヒカル〜奇跡を生んだサイコパシーの関係性(その1)
今回は、藤圭子と宇多田照實氏夫婦の関係性と宇多田ヒカルを生み出した暗黒のエネルギー(尊敬すべきブロガーのタイトル名)について、考えます。
仮に照實氏が、事実を少しねじ曲げた嘘を多くつき、自分の都合の良い方向へとねじ曲げても良心的痛みは感ぜず、相手の利益を横取りして平然と生きてきたとしたら、つまり、サイコパスな男性とも言えるのではないだろうか。もともとサイコパスとは、「感情の一部が欠如している」という点において特筆される精神病質者のことで、自分以外の人間に対する「愛情」「思いやり」などの感情が著しく欠けており、そのためにきわめて自己中心的に振る舞う傾向にある。(そのように論評するひともいれば、そうではなかったというひともある。だから仮定しての考察になります。)
長身でハンサムな男性は、女性が掲げる最も一般的な「理想の恋人」の基準でもある。しかし、カナダのブロック大学に通う博士課程学生、クリストファー・ブラジルが実施した最新の研究により、実際には、女性はサイコパスな男性に最も惹かれやすいという事実が判明したそうである。この研究論文は、2019年9月に、学術誌『Evolutionary Psychological Science』に掲載されている。
クリストファーはこの実験を行うために、46人の男性に、初デートには何をするか、恋愛に求めるものは何かについて話した2分間の動画を作成してもらったという。さらに同じ男性たちには、サイコパス(反社会性パーソナリティ)の度合いを測定するテストを受けてもらっている。
続いて、女性108人に、全ての動画を見たあと、46人の男性を魅力的な順にランク付けしてもらったところ、よりサイコパスな特性を持つ男性のほうが、女性は魅力を感じるという結果になった。
その理由としては、サイコパスな傾向にある男性ほど自分に自信があり、落ち着いていて、気持ちを和ませてくれるためであり、魅力ある男性を演じるスキルを有しているため、女性に好かれるためにはどのようなセリフを言えばいいかなどを熟知していると、この研究は解説している。
海外メディア『PsyPost』の取材に対しクリストファーは、「サイコパスな男性は、彼らの魅力や刺激的な性格を駆使して、信頼や欲望を引き出そうとしますが、彼らの最終的なゴールは自己満足だけです」と話している。毎回悪い男に惹かれてしまうのがこういう理由だとわかれば、次回は相手をクールに見極められるかもしれない。
さらに、一般の人はサイコパスの特徴を恋愛対象として絶対的に好む傾向が総じて低い一方で、人格障害を持つ人々の多くでこの傾向が強いとの研究もあり、藤圭子もまた、このような傾向があったのかも知れない。
精神病質(psychopathy、サイコパシー)とは、精神障害の一種であり、社会に適応することが難しい恒常的なパーソナリティ障害、 または、精神病と健常との中間状態。精神病質を持つ者は精神病質者サイコパス( psychopath)と言う。
ただ、精神病質者か社会に適応することが難しい反社会的で恒常的なパーソナリティの性格を持つものの「差異」は判然としない。
近年、「性」の多様性として「LGBT」と言う言葉が世間を賑わせている。「LGBT」は、生殖機能としての性別とは別に、「SOGI」(「性的指向(Sexual Orientation)」)と「性自認(Gender Identity)」の多様性に着目し、男と女のほかに、レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(性同一性障がい者を含む、心と出生時の性別が一致しない人)のアルファベットの頭文字が「LGBT」と言われ、「性的少数者の総称」として用いられている。
精神病質(psychopathy、サイコパシー)もまた、「LGBT」と同じように、総じて多様性を帯びている。精神病質の概念は、脳科学が発展するなかで「脳機能由来」のものや、生体の外部や内部に起こった情報に対応し、体内において特定の器官で合成・分泌され、血液など体液を通して体内を循環し、別の決まった細胞でその効果を発揮する生理活性物質(ホルモンの作用など)の「生理学由来」や、さらには、神経病理学に基づく「心理学由来」の「精神病質のグラデーション」が「性格」として「自我」に組み込まれ、遺伝子によって「遺伝」することすらあるのだ。
話しを戻そう。 藤圭子という天才歌手が、宇多田照實という「天才」によって、宇多田ヒカルという天才歌手を生む奇跡には、三者三様のサイコパシーの関係性について考えなくてはならないと筆者は考えている。藤圭子が娘宇多田ヒカルを一流の歌手に育てるまでと、宇多田ヒカルが日の目を見始めると同時期に、宇多田照實は藤圭子を徹底的に排除し、娘宇多田ヒカルにも母藤圭子との接触を禁じた結果、母への思慕の情や憐憫の情が歌詞としてほとばしり出て、数々を名曲を生み、結果として、この三者が藤圭子の「夢」を実現したとも言えるのである。
そこには、様々な悲劇があり、思惑があり、対立があったが、運命は過酷にも出産と同じく命がけで血みどろになりながら、 次代の天才を生み出していくのだ。
この過程をこれまでと同じく年次毎に、藤圭子、宇多田照實、宇多田ヒカルの三者に光を当てながら、三者ともにコミュニケーションの行き違いを見ていき、三者三様のサイコパシーの関係性を明らかにしていきたい。
最初に藤圭子の人間像を見ていきたい。関係する幼少期から歌手デビュー、歌手引退から宇多田ヒカルのブレイク付近までは、かなりの文献がある。まずは藤圭子本人の著者「演歌の星 藤圭子物語」(71年/ルック社)、沢木耕太郎著「流星ひとつ」(13年/新潮社)、石坂まさを著「きずな 藤圭子と私」 (13年/文藝春秋)、石坂まさを著「藤圭子と宇多田ヒカル、三世代の母娘の物語」(13年/文藝春秋)、大下英治著「悲しき歌姫 藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾」(13年/イースト・プレス)などがある。
1970年明星6月号によると、「8;からだのサイズは?」と聞かれた圭子さんは「藤;身長150、体重41、バスト77、ウエスト55、ヒップ83です。男っぽい体つきなの。グラマーになりたい」、「9;性格も男っぽいの?」「藤;それは女っぽいの。寂しがりやだし、自分からすすんでなにかやろうとも思わないし、いつもだれかに頼って生きてるっていう感じですね」「10;すると〝神だのみ”っていうわけで、神様も信じているの?」「藤;ええ。別に信仰している宗教はありませんが、神様はいると信じていますし、いつも神に感謝する心を持ち続けています」、「11;あなた座右の銘または、好きな言葉は?」「藤;『お互い様』です。いつも相手の立場になって考えたり、行動するようにしています」と書かれている。信仰について、宇多田ヒカルは母藤圭子を無神論者のように言っているが、「幼いとき実母の目が治るよう近くの神社に手を合わせていた」という圭子さんの話しを目にするにつけ多くの日本人がそうであるように、神道と仏教が一体となった日本的宗教観(日本教)を持っていたと確信している。
一方で、「彼女の人生は確かに歌詞とだぶっていたが、レコード会社の売り込み戦術だった。彼女の生活に悲惨さはなく、暗い性格でもない。小学校、中学校時代は成績もよく聡明(そうめい)な少女だった。話し方も立て板に水、実に頭の回転の速い少女だったが、生まれ育った環境から、激しい性格だと聞いていた」と、芸能評論家の肥留間正明氏は語る。
潔さ、誠実さ、そして芯の強い人であったことは、以下の詩をみてもわかると思う。
阿部純子(藤圭子)さん16才頃の詩
誠実ということ
自分に嘘をつかないで
誠実に生きて行きたい
たとえ泥まみれの人生にだって
小さな遊びを見つけたい
私は私なりの手さぐりの
信念ではあったが
青春をせいいっぱい生きて来たつもり
そしてこれからもそうありたい
だけど世の中は思いどおりには行かない
淋しいことだけど…
だから誠実に生きて行きたい
泥まみれになっても
傷だらけになっても
この詩をみても感覚がすごく、研ぎ澄まされていた。
藤圭子の特徴的性格は、敏感すぎる気質、潔癖症、男を立てる優しさ、大事なことは「お互いに」ということ、自分はコンプレックスのかたまり、他人に迷惑をかけたくないというものだ。
藤圭子は言っている「大事なことは「お互いに」ということ。「人に迷惑をかけたくない」、阿部純子としては「歌は好きだ」、「歌を聴いて泣ける」、「だから歌を愛してる」、藤圭子としては「歌は仕事だ」…「自分のために歌うこと」、人が喜んでもらうために歌う」。 自尊心、自我があるから… 歌をとったら自分から歌を追うと思う。自分一人で生きているわけではない。まわりの人によって環境によって左右される。人の喜び怒り悲しみに左右される。しかし、自分ひとりの喜び怒り悲しみはない」と。
このように藤圭子は、幼いときから、つまり阿部純子さんのときから、藤圭子さんになって以降も変わらぬが、「誰かの役にたちたい」という純粋な精神もあいまって、幼くとも毅然とした考えと我慢強さがありました。
同時に貧困や世間体については少なからずコンプレックスを持っていたようです。しかし、これらは同時代を生きた人たちの持つ普通の精神でした。「負けてたまるか」「いつか夢を叶える」「苦労した両親に楽をさせたい」「ボロは着てても心の錦」「今にみていろ」など、純子さんの生きた同じ世代の共通な気持ちだったのです。
ですからはじめは藤圭子を育ててくれた母親に楽してもらうため、歌手で身を立て「苦労した親に楽をさせたい」そのために「役にたちたい」一心で頑張ったのです。そこに恩師になる石坂まさを氏と出会い、持ち前の負けず嫌いの心で石坂氏の鉄拳指導さえものともせず、見事「阿部純子」から「藤圭子」と言う大輪の花を咲かせたのです。
藤圭子は名声と財産を得で母親に楽させることには成功するのですが、もともと「歌手」は「苦労した親に楽をさせたい」ための手段だったんでしょう、「歌手」にはさほど未練もなく、ただ莫大な財産をもたらしてくれたファンへの感謝は忘れず、いつしかファンの為に歌を歌い役にたちたいと思っていたように感じられます。石坂氏は「藤圭子」を元の「阿部純子」にもどし、女の幸せをつかんで欲しいと思ったのでしょうが、圭子さんは、ファンのためにも「当分の間は、歌手をしなければ」と思ったに違いありません。
そして宇多田照實氏との結婚(再婚)後の藤圭子について、叔母である竹山幸子さんの話よると、「結婚当初、純ちゃんと照實さん、姉が広尾のマンションで暮らしていた時期がありました。家のクローゼットには、照實さんのブランド品がずらっと並んでいましたね。純ちゃんは、男を立てる性格で、照實さんに全部つぎ込んでいました。ですがら、自分じゃお金を全然もっていないんです。2000円のものを買うのでも、照實さんに、買っていい?と聞く。純ちゃんの稼ぎで、照實さんが贅沢をするという関係でしたね」と述べています。
これも藤圭子の人生観とも関係しています。藤圭子は、「相手の男性より自分のほうが収入多すぎると、女として幸せじゃないと思うのね。たくさん稼いでもてはやされてチヤホヤされるような女にはなりたくない」、「人生って苦しいことの方が多いけど、歌があったからまあいいっか、と言えるような死に方をしたい」と言っています。
筆者は、藤圭子である「純子」が、「ボロは着てても、心の錦」を地でいく人間であり、小さいときから大変苦労し、両親が不在なときもあり淋しさが一番嫌いで我慢づよく意地っ張りな性格は、私には良く理解できた 。彼女が石坂まさをという同じ匂いをする男に出会い、互いの夢を重ねてスターダムにのし上がる様は、私には痛快で、しかも唄声は私だけの耳に届くような気がして一変に大好きになった歌手でもあった。
この藤圭子の精神病質(psychopathy、サイコパシー)については、2006年10月の帰国後、旧知の芸能記者に「久しぶりに日本に帰ってきたけど、話す人がいない。寂しい」と孤独感を吐露し、「感情を抑えることができない。パニック障害と診断された」と自ら述べていた。
また、藤圭子が自死後の娘宇多田ヒカルと元夫宇多田照實氏がこのように述べている。宇多田ヒカルは、「彼女(藤圭子)はとても長い間、精神の病に苦しめられていました」と「精神の病」を明らかにしています。そして病状については、「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました」と書かれています。
また元夫宇多田照實氏は、「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な「気まぐれ」な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのことです。自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。とても辛そうな時が多く見られるようなった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることとなってしまいました」と。
しかし、宇多田照實氏と結婚をする前にも同様な精神病質(psychopathy、サイコパシー)があったことが、沢木 耕太郎著「流星ひとつ」で明かしている。1975年から1978年までの3年間のロック・グループ『ジュテーム』のリード・ボーカル・宮本ヨシミとの恋と破局、また1977年ごろからの小林繁投手との恋と破局。その裏で、私生活の悩みとともに「声の手術をしてから声がきれいになって、なかなか声にあった歌い方がつかめなくて悩んだ」りして、「夜になると考えるようになったんだ」「しっかりしてくれないと、そんなつまらない男のために…」「だから、それだけじゃないんだって、歌っても歌っても絶望なわけじゃない。歌うのがつらすぎるようになっちゃったんだ。それがいちばんひどくなってしまったのが、デビュー十周年の舞台(1979.5- デビュー10周年記念公演(日劇)(5月9日~13日))」…「大事な舞台だったわけだよね」「そうなんだけど、舞台恐怖症みたいになって上がれなくなっちゃったんだ」ということがきっかけで、「歌を歌うのが辛い、絶望だ。だったら、やめればいいわけじゃない。簡単なことではないですか。そう思ったの…」と言う思いが「もっと違った生き方をしたい、何か違ったことを勉強して生きてみたいという気持ちが強く」なってきて、引退宣言に至るのである。(詳細は、藤圭子と新栄プロダクションの時代と引退への軌跡(心情編その1)のとおり)
「舞台恐怖症みたい」の前触れも「流星ひとつ」で述べている。「……そうなんだ。あたし、ヒステリーを起こしたんだよね」、「誰に?」、「お母さんに」、「いつ?」、「(1979年)四月頃」、「どこで?」、「クラブで、クラブの楽屋で」、「あなたみたいな人でも、人並みにヒステリーを起こすんですか?」、「起こすんですよ、これが。すごいヒステリーを起こしちゃった」…「ここ十年で最大のヒステリー」…「お母さん……びっくりしたんだって。血の気が引くような思いをしたんだって。そのヒステリーの起こし方がとてもお父さんに似ていたらしいの。そっくりだったんだって。ああ、この子にもやっぱり、あのお父さんの血が流れているんだろうか……」…、「それが直接の原因だとしても、もっとほかに、いろいろあったわけだね、心が痛む、何かが」、「うん」、「どうして?」、「えっ?」、「どうして心が痛むようなことがあったの、その、野球をやってる人との恋愛で」…、「…..裏切られたんだ」、「男の人を尊敬したいって思ったんだ。女がどれだけ頑張っても、やっぱり女なんだよね。できることなら、女は、やっぱり男に支えられて、そうやって生きていくことが幸せ何じゃないか、と思ったの。尊敬できる男の人と、一緒に生きていきたいと思ったんだ…でも…駄目だった」…「うん…結構、真面目に考えていたんだよ…結婚を」…、「別れたあとだね?クラブの楽屋でヒステリーを起こしたっていうのは」、「うん…」…「惚れるのは、いつも変なのばかり、か」、「そう」…、「くだらない、駄目な男ほど、女の人にとっては魅力があるものなんだろうし…」、「そうなんだろうね、たぶん」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」「七杯目の火酒」より)
ヒステリーとは、心的外傷への自己防衛として、自己同一性を失う神経症の一種です。つまり藤圭子は何かの「心的外傷」があったのです。それは、父阿部壮の存在であり、父親は、気性が激しく暴力的で(その恐さは)、「そんなんじゃないんだよ。そんなところの恐さじゃないんだよ。カッとすると、何をするかわからない人なんだ。怯えてた。子供たちはみんな怯えてた。お母さんも、みんな怯えてた。しょっちゅう、しょっちゅう、殴られっぱなしだった」、「理由はないんだよ。殴ったり蹴飛ばしたりするのは、向こうの気分しだいなんだ。」(沢木耕太郎著「流星ひとつ」から)と述べ、また、「父親、殺してやりたいくらい」(大下英治著「藤圭子と宇多田ヒカルの宿痾ー悲しき歌姫」より)とも述べている。そうドメスッチク・バイオレンス(DV)が藤圭子の「心的外傷」の原因だと考えて良いでしょう。
次に、 宇多田照實氏の人間像を見ていきたい。
宇多田 照實(うただ てるざね、1948年7月21日 - )は、日本の音楽プロデューサー。U3 Music(有限会社ユースリー・ミュージック)代表取締役。東京都出身。
東京都中野区出身。ベトナム戦争に参加した経験を持つ。16歳で渡米した事もあり英語が堪能である。
ドラム、ギターなど演奏出来るマルチミュージシャンである。ただしこれらの経歴はあくまで自称であり、妻であった演歌歌手の藤圭子のマネージャーとして業界入りする以前の素性は明らかではない。
藤とは何度も離婚と再婚(復縁)を繰り返しており、中には離婚してから2週間後に再婚したこともあった。娘は歌手の宇多田ヒカルである。
プロデューサーや作家の名義によっては、Sking U、宇多田 Sking 照實、宇多田 Skingg 照實などの名前を用いることもある。かつては楽曲提供もしていたが、現在はプロデュース業に専念している。ヒカルの音楽のプロデュースに積極的に参加している。しかし、ヒカルが単独名義(Cubic U名義でU3からソロ・デビュー、宇多田ヒカル名義で正式デビュー以後)で発表した作品には楽曲提供で参加したことはない。
現在メディアへの露出は少ない。ヒカルの公式ウェブサイト「Hikki's WEBSITE」内のStaff Diaryで度々コメントを寄せることがあったが、2010年9月からはTwitter(@u3music)を開始。以後はヒカルのファンとの交流を頻繁にしている。ヒカルの所属レコード会社・東芝EMIがかつて推進していたコピーコントロールCD(CCCD。その後セキュアCDに移行も2006年、CCCD<コピーコントロールCD(CCCD)とは、パソコンにおける再生や複製を防止するために作られた特殊なCDのこと>から事実上撤退)に疑問を持ち続け、彼女の作品のCCCD化を一貫して拒絶して来た。2002年5月6日、「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングにヒカルが出演する予定であったが、彼女の卵巣腫瘍(良性)が発覚。当日は術後療養中のため出演できず、急遽、彼女の代わりに出演した。(Wikipediaより)
1948年生まれの宇多田照實氏は18歳で渡米し、大学1年で戦闘機とA級ライセンスの免許取得 、残り3年間ベトナム戦争で戦闘機パイロットとして従軍。その後NASAのテストパイロットになるも日本政府からストップ。 大学在学中にピサの斜塔の傾きを止める方法を考案、今でもメールで問い合わせが来る 。さらには、ブルース・リーの映画オファー断るなど信じがたい話しが流布されている。
実際、宇多田ヒカルは「2011年1月9日深夜、Twitter(ツイッター)で自分の過去を書き込みしており、自身が生まれた瞬間の出来事をファンたちに伝えていた。宇多田ヒカルさんの心肺停止体験「そうだ、産まれた時の話。予定日から3週間以上過ぎてヤバいってことになって帝王切開で出されたんだけど心肺停止で、父(宇多田照實氏)は医者に「残念ですが…」とまで言われるも、父の必死のマッサージで うわああゴールされてもーたーーー!(ヒカルはサッカー観てるため叫んでいる)」「で、真っ青な私を父は泣きながら必死にマッサージしまくって名前も決めてたから「ひかるー!」と呼びかけてたら、徐々に血の気が戻ってきて蘇生したんだって。この間、藤圭子は麻酔で意識無し。父に感謝! ママもママで小さい身体で大変だったろうなあ」、「出産ではそんなに珍しい話でもないんじゃないかな?心肺停止からの蘇生。産まれるって本当に有り難いことだよね。生きてるってことは誰かに愛されたってことだよね。今生きてる人はみんな、赤ちゃんの時に誰かが一生懸命育ててくれたんだもんね」 とつぶやいています。
筆者にはこの話しも信じがたい。さらには藤圭子の自死後、宇多田照實氏の「ご報告と謝辞」では、「所属事務所代表として、また25年間連れ添った元夫として心からお詫びを申し上げます」と事件についての「お詫び」からはじまり、宇多田ヒカル氏の言を補強するように、「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類い稀な「気まぐれ」な人としか受け止めていませんでした。僕にとっては十分に対応出来る範囲と捉えていました。この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのことです。
自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。とても辛そうな時が多く見られるようなった際には、病院で診察を受け、適切な治療を受けるよう勧めたことも多々ありましたが、このアドバイスは逆に、僕に対する不信感を抱かせることとなってしまいました。
結果、本人が拒絶し続けた治療が成されないまま、彼女の苦しみは年を追うごとに重症化したものと思われます」と自殺直前の状況については間接的な言い方をしています。
これも報道によると、照實氏自らの言動とはかけ離れている。 「25年間連れ添った元夫」と照實氏が述べているにもかかわらず、宇多田ヒカルは「父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした。夫婦だとか夫婦ではないなんてこと以上に深い絆で結ばれた二人でした」と離婚後も戸籍上は夫婦であり続けていることを示唆しているのです。
さらに、「宇多田光が5歳くらい」のときは、ヒカルが生まれたのは1983年1月であるから1988年ごろにあたる。その頃は藤圭子の実母の間での金銭トラブルと愛娘を預けて「どさ回りしていたのではないだろうか」と石坂氏は推測する時期だ。また、「ママ、どうしてお仕事に行くの、ヒカル淋しいの」と書いたあの頃です。藤圭子と親交のあるカルーセル麻紀が、「彼女は表に発散するタイプではなかった。悩みがあると内にこもるところがあった。最近ではよく吐いて顔がむくんでいた。」と話していたあの頃なのです。
実兄の藤三郎(本名阿部博)氏は「宇多田君は借金があったようで、おふくろに「金をくれ、ないんだったらマンションを売って手配してくれ」といいい、難色を示すと「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」と怒鳴る。すごい喧嘩になったのです。姉なんて、宇多田君に突き飛ばされた。結局、おふくろはマンションを売って、三千万ぐらいを宇多田君に渡したのです。一方で宇多田君は圭子に「お前は母親に金を取られている」、「お母さん、本当は目が見えているぞ」等と吹き込んで。二人の仲を引き離そうとした」と語っています。
このことにより、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたと思い、藤圭子は精神的にひどい危機状態に陥っています。一時は精神科病棟に強制入院されていたと言います。藤圭子の母澄子さんの妹で叔母にあたる竹山幸子さんが、その当時の藤圭子の様子を話しています。それによれば、藤圭子は澄子さんを「鬼」とののしり、澄子さんが自分を毒殺しようとしているという妄想まで生じていたといいます。
このことが本当なら、宇多田照實氏は当事者であって、「光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象」とか、「感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する」とか言える立場ではなく、藤圭子本人にダメージを与えた張本人である可能性すらあり、このことに何も触れていないコメントからみれば、宇多田照實氏はサイコパスであった可能性があります。それこそが、宇多田ヒカルがブレイクすると、これまでの功労者である藤圭子をパッと斬り捨てて平然とといられたことを考えても、彼のサイコパシーが原因だと考えるのが妥当だと思います。
そして、そこにはもうひとり、母藤圭子を慕いつつも母と決別し自らも母親との関係を絶つことができた宇多田ヒカルの存在があります。ここで、少し宇多田ヒカルのサイコパシーについて考えていきたいと思います。
ヒカルさんの幼い頃、つまり5歳くらいのころに何を経験しているのでしょうか。ヒカルさんは著書「点-ten-」で、次のように述べています。「5才くらいまでは、ゲームに負けたりピアノがうまく弾けなかったりした時、根っからの負けず嫌いなために悔しくて悔しくてその度に泣いた記憶がある。それがだんだん、悔しい時も悲しい時も、泣かない子になった。母の前で泣くと、ひどく怒られたから。悲しくて泣いてるのは私なのに、なぜか彼女の方が傷ついて、泣いて、私を責めた。すると私は泣く気が失せた。泣くよりももっと深い悲しみを知った。彼女に悪気は無いんだ、って分かってしまう自分が、体の芯からひんやりしていくようで、こわかった」と。
また、別の箇所で、「私は、外界に振り回されたくない、と言いながら自分の殻の中で必死にもがいているだけだった。なんでも受け入れる、なんて言いながら、ただ現実を無視しようとしていた」とある。
先に述べたとおり、宇多田ヒカルが5歳くらいのころと言うと、(藤圭子の実兄藤三郎が)「宇多田君は借金があったようで、おふくろに「金をくれ、ないんだったらマンションを売って手配してくれ」といいい、難色を示すと「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」と怒鳴る。すごい喧嘩になったのです。姉なんて、宇多田君に突き飛ばされた。結局、おふくろはマンションを売って、三千万ぐらいを宇多田君に渡したのです。一方で宇多田君は圭子に「お前は母親に金を取られている」、「お母さん、本当は目が見えているぞ」等と吹き込んで。二人の仲を引き離そうとした」と語っています。
このことにより、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたと思い、藤圭子は精神的にひどい危機状態に陥っています。藤圭子さんは精神的にひどく不安定となり、母親らによって精神科病棟に強制入院させられています。退院はしたものの、精神的に消耗がひどく、歌も満足に歌えなくなったのでしょう。そうした危機的状況を救ったのがヒカルの存在です。
藤圭子さんはヒカルを世界に通用する歌手に育てることに生きる意味を見出したのです。ヒカルが5歳頃のときに杉並の自宅マンションに、ヒカルのレッスン用の鏡を取り付けたという業者の話が掲載されています。このように「 世界に通用する歌手に育てること」が藤圭子の人生後半の最大目標となっていきます。藤圭子は、学校は中学卒で音楽でも楽譜もろくに読めない中で歌手になっていますから、娘のヒカルには、こんな引け目を感じさせたくないと、厳しく育てていたため、母親と歌手藤圭子の想いの狭間で苦悩していたのだと思っています。しかし、無邪気なヒカルさんにとっては、母親は「嵐の女神」にしか映っていたのではないだろうか。
「ママ大好き、ママこわい、お父さん大好き、お父さん嘘つき」。「ママの公演をステージのそでからずっと見てる、すごい音、光、闇、集中力、熱、ママ泣いてるみたい、お客さんの方を向いている、私の方は見てない――」という宇多田ヒカルの経験は、彼女のサイコパシーを形成するのに十分であったようである。「私は、外界に振り回されたくない、と言いながら自分の殻の中で必死にもがいているだけだった。なんでも受け入れる、なんて言いながら、ただ現実を無視しよう」とする意志が、ヒカルの家族関係にも影を落とし、いつしか家族がバラバラになっていくのである。
ここで、藤圭子と宇多田ヒカルの関係について焦点を当ててみたい。宇多田ヒカルは、1983年(昭和58年)1月19日に誕生する。同年6月に藤圭子さんは夫照實氏とともにヒカルを抱いて一時帰国をします。帰国したのは圭子さんの前事務所(ニュージャパンプロダクション)の藤原成郷氏とのトラブルが裁判ためだった。その後、親子3人でニューヨークから東京へ引っ越します。はじめは、広尾のマンションに圭子さんの母澄子さんと同居していたのである。「圭子と結婚した当時の照實氏…とても裕福とはいえない状況でした。さらに借金も抱えており、照實氏はあるとき圭子さんの母(竹山澄子)に「金をくれ。ないんだったら、マンションを売って手配してくれ」と迫ったこともあったといいいます。当然、母は難色を示しめしましたが、「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」と怒鳴り、口論に発展。結局は(広尾マンションを)を売却して、3000万円ほどの金を照實氏に渡すことになった」そうです(圭子さんの実兄の話)。それにより、母澄子さんは綾瀬のマンションに移ります。そして、圭子さん一家は、杉並のマンションに移ります。(後の有限会社ユースリー・ミュージックの事務所兼自宅)
これは有名な話しであるが、藤圭子は一人で、ハワイで2年くらい(1983〜1984)居候生活を送っている。筆者は、カラオケ教室を開き生活の糧を求めたが結局断念したと思っている。裁判になっているニュージャパンプロダクションとの契約でも月200万円の給料であったことから、同程度の稼ぎは無理だと考えたのだろう。可能ならそこで親子三人での暮らしを夢見ていたに違いない。
(生前藤圭子は、照實さんとの離婚回数を「書類上6、7回。実質は13回くらい」と明かしていたと言うから、もしかしたらこの時期も離婚していた可能性はある。筆者は6回の離婚再婚は後述のように措定している。)
ヒカルが1歳の1984年、圭子さん33歳のとき、石坂まさを夫妻と交わした会話がある。「もう、わたしのお母さんとは、付き合わないでちょうだい」。それを聞いた清子(石坂まさをの妻で、圭子さんは「お姉さん」と呼んでいる)は、最初、何を言っているのかわからなかった。〈あんなに仲がよかったのに、どうしちゃったの?〉心底びっくりした清子は、言い返した。「純ちゃん、何を言ってるの?」それでも、藤は態度を崩そうとしない。「だから、お姉さん、わたしのお母さんと付き合うというなら、わたしはお姉さんと、今後、いっさい付き合いません」「どうして?」そう訊く清子に、藤は理解できないような理由をあれこれと言った。そのうちの一つに、こんな理由があった。「今、生活が大変なの。お母さんがお金を管理していて、わたしに、一銭も出さなくなったのよ」。…そう答える藤を、言葉通り信じることは清子にはできなかった。…(清子さんはこの後で澄子さんに電話で確認したところ、藤圭子に澄子)「お金を渡したら、すぐ、そのお金を使かちゃうからね」と、そんな理由で、本当にお金は渡していないようだった」とある。(大下英治著「悲しき歌姫」より)
これは前年の実母とのやり取りについてのことで、藤圭子はもともと、歌手引退前まで、圭子さんが稼いだ「ギャラなどのお金」は、母親の竹山澄子の銀行口座に振り込んでいたからであって、必要によって母親から出してもらっていたからだ。もちろん広尾のマンションも綾瀬のマンションも藤圭子が買ったものであった。
ヒカルさんが2歳になった1985年には、圭子さんは、ヒカルに歌を教えています。それも「七つの子」「おててつないで」と「女のブルース」です。(圭子さん34歳、ヒカルが2歳4か月)。同じ年、藤圭子の未発表曲シングル盤「母子舟/恋して母は」をレコーディングします。なお、圭子さんの実母竹山澄子さんの話では「1985-1989、7歳頃(2〜6歳)まで孫(宇多田ヒカル)の面倒を見ていた」と話しています。
ヒカルさんが3歳になった1986年10月に1回目の圭子さんと照實氏の離婚をすることになるが、17日後には「ヒカルの幸せのために」と再婚している。またこの年に、圭子さんの前事務所(ニュージャパンプロダクション)の藤原成郷氏との裁判が、1月に判決が下され、藤圭子は受け取った契約金のうち2,000万円をプロダクションに返し、プロダクションは藤圭子に未払いの給料200万円を支払え、という判決が下っている。
ヒカルさんが4歳になった1987年2月には「新宿挽歌」をリリース。B面の「北国流れ旅」は圭子さんのお気に入りの一曲となっている。この頃から家族問題、経済問題も絡み「嘔きまくり人生」がはじまる。
そしてヒカルちゃんは、渋谷区松濤にある青葉インターナショナルキンダーガーテンというアメリカンスクールの幼稚園に入園させています。
「歌手は一流でなければ嫌、私は自分を取り戻すために、英語の勉強から始めます」と27歳で歌手を引退することを決めていた藤圭子は、こんな率直なコメントを残して1979年にニューヨークへ渡ったわけで、娘に自らの夢を託したのかもしれない。(小西良太郎著「女たちの流行歌(はやりうた)」産経新聞社より)
ヒカルさんが5歳になった1988年3月にポリドールから「旅路」をリリースします。同年7月19日石坂まさをの母千恵が逝去。その葬儀に藤圭子は参列しています。そしてその頃、圭子さんの元夫の宇多田照實氏のコメントによると、圭子さんが心の病にかかったのは宇多田ヒカルさんが5歳(1988年)の時で、長らく絶縁していた父親から母親が以前ギャラを着服していたことや目が見えていたことを聞かされたためだといいます。そのことで藤圭子は精神的にひどく不安定となり、母親らによって精神科病棟に強制入院させられています。退院はしたものの、精神的に消耗がひどく、歌も満足に歌えなくなったのでしょう。
なぜそう言うことになったかというと、米国のニューヨークに親子三人で定住する話になって、その生活ためにまとまったお金が必要となり、再度母親にお金を出してもらおうとしましたが、出してもらえず、母親の住んでいる綾瀬のマンションも売却してます。藤は母親が住む綾瀬の家を『私が買ってあげたものなのに私の好きなようにして何が悪いの。ニューヨークで暮らすのはヒカルのためだから』と言って、勝手に売ってしまったようです。(2016年2月の日刊ゲンダイ)
ですから、上記の「 精神的にひどく不安定」になったのは、米国のニューヨークに親子三人で定住するための金銭問題に端を発するもので、その中で「絶縁していた父親から母親が以前ギャラを着服していたことや目が見えていたこと」による精神的ショックによるパニック障害に陥ったのだと考えます。
そうした危機的状況を救ったのがヒカルの存在です。藤圭子はヒカルを世界に通用する歌手に育てることに生きる意味を見出したのです。光さんが5歳頃のときに杉並の自宅マンションに、ヒカルのレッスン用の鏡を取り付けたという業者の話が掲載されてています。
※ 実兄の藤三郎(本名阿部博)氏は「宇多田君は借金があったようで、おふくろに「金をくれ、ないんだったらマンションを売って手配してくれ」といいい、難色を示すと「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」と怒鳴る。すごい喧嘩になったのです。姉なんて、宇多田君に突き飛ばされた。結局、おふくろはマンションを売って、三千万ぐらいを宇多田君に渡したのです。一方で宇多田君は圭子に「お前は母親に金を取られている」、「お母さん、本当は目が見えているぞ」等と吹き込んで。二人の仲を引き離そうとした」と語っています。
このことにより、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたと思い、藤圭子は精神的にひどい危機状態に陥っています。一時は精神科病棟に強制入院されていたと言います。藤圭子の母澄子さんの妹で叔母にあたる竹山幸子さんが、その当時の藤圭子の様子を話しています。それによれば、藤圭子は澄子さんを「鬼」とののしり、澄子さんが自分を毒殺しようとしているという妄想まで生じていたといいます。
1989年4月に藤圭子と宇多田照實氏と2回目の離婚 になりますが、これも離婚から2週間後に再婚 になりますので、実際に離婚届を出しさらに婚姻届を出すとしたら半年後の10月以降となります。
6歳になったヒカルさんは、「DVDにちゅうも〜く!!ディズニーさんのThe Little Mermaidだよ!
1989年にアメリカで公開されて、6才の私は「これだ!!!」と思ったらしく、しばらくの間、寝ても覚めてもリトル・マーメイド。何か気に入ると数ヶ月全く同じ絵を描き続けるクセがあって、この時はアリエルが岩に腰掛けてる構図の絵を死ぬほどいっぱい描いたな〜。(ちなみにその前は日本鶴。頭のてっぺんだけ赤いところが好きだったんだな、多分。)」と述べていたとおり、健やかに成長していったようである。(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikkiより)
ヒカルさんが7歳になると、ヒカルさんにR&Bのリズムを体に染み込ませると同時に、ネイティブな英語を身につけさせ、家族三人で世界を目指そうとニューヨークに移住する。1990年4月に圭子さんは、照實氏とヒカルとともに米国に移ります。ヒカルさんは、インタビューで「急に学校から帰ったら「明日からニューヨークに引っ越すわよ」と言われたことを記憶しています。かくしてヒカルさんは、小学校(ニューヨークのThe Hewitt School)に入学します。この年に藤圭子(RA U)、宇多田照實(SKING U)、宇多田ヒカル(H。IKASO U)の家族3人ユニット「U³」(キュービック・ユウ)結成。
その時から、ニューヨークでの生活資金が底をつけば、帰国して日本各地を巡り、歌をうたうと言う生活がはじまります。「裕福な生活ではありませんでしたが、以前のようにトラブルのもとになるようなお金もないですし、周囲の目を気にする必要もない。純粋に心から信じ合える家族とずっと一緒にいられることが彼女にはこの上ない幸せだったんだと思います」(宇多田家の知人)とあります。
ヒカルさんが8歳になった1991年、圭子さんと照實氏は、いつもヒカルさんをスタジオに連れて行っています。ヒカルさんは、小学校一年生のころからスタジオで宿題をして、スタジオでご飯を食べて、スタジオのソファーで寝ていたと言っています。
藤圭子、宇多田照實氏3回目の離婚。「僕らが離婚っていう結論に到達する前に、そういう雰囲気になってきた時、横で聞いたヒカルが『ママとお父さんって、離婚したほうがいいんじゃないの』って。そして『2人は合わないんじゃないの。意見聞いてたら、両方の言うことが全然、かみ合ってないよ』と‥‥。それが、ヒカルが8歳くらいの時だった。
ヒカル9歳の1992年1月に圭子さんと照實氏は4回目の離婚をします。しかし、8月にはまたまた再婚。ヒカルさんは、学力も優秀でニューヨークのThe Hewitt Schoolの2年生の時、4年生へ飛び級しています。
「圭子さんが、ヒカルさんに声をかける。「光、ちょっとここ歌ってくれない?」。ヒカルさんは、頼まれると、イヤだったけど歌った。自分の声がすごく変な気がして、恥ずかしかったのだ。両親は誉めた。「声がいい。いい声だよ」と。その時の歌声が残っています。ヒカルさん9歳の声です。
楽曲は「U³」のアルバムの「子供たちのうたが聞こえる」です。https://www.youtube.com/watch?v=V-qzIXjXlAM (1993年9月17日にリリース)。
1993年圭子さんと照實氏の5回目の離婚 。「ともかく、一貫しているのはヒカルのために我慢するんだ、ということですね。それから彼女独特の哲学があるんです。僕が「宇多田さんが彼女と別れればいいじゃないですか。ここまで家族を追い詰めて、彼は一体、何をやっているんですか」と言うと、「そうじゃないんです。私は、人が誰かを好きになるのは止められないと思っている。その人の気持なんだから、彼女と別れてくれとは言えない。でも、結婚していれば誰かが苦しむ。当然、私が苦しめられる。これは嫌だから、私と別れてほしい。私を解放してほしいんです」(小西良太郎著「女達の流行歌(はやりうた)」から)。
ヒカルが10歳の1993年のときに「明日東京に帰るわよ」と帰国。圭子さんは、夫の照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、取締役社長に照實氏、圭子さんも自らも取締役になっています。そして、ヒカルさんを中心にファミリーで新しい音楽を作って勝負しょうとします。
ヒカルさんは帰国後、小中一貫校の私立の女子校で清泉インターナショナルスクールに編入しています。圭子さんは、自身が学力優秀であったにもかかわらず中学校を出てすぐに歌手となっていることから、娘光(宇多田ヒカル)には、高等教育を身につけさせるべく努力をしています。
同年9月17日に当時10歳の宇多田ヒカルもボーカルとして参加し、ニューセンチュリーレコードの前身であるセンチュリーレコードから家族3人ユニット「U³」としてロック曲を収録したスタジオ・アルバム『STAR』を発売して日本デビューしています。
ヒカルさんは、ある日、「自分で歌作ってみなよ」って言われて、「そんなのやり方わかんねーよ!」と思いつつ、好きな曲をいくつか研究して、現代のポップミュージックがだいたいこういう構成で、こう展開して…みたいなことが分かってきた。...どうにか一曲できた。10才。”I’ll Be Stronger”。イエーイ。おそるおそる親に聴かせると、「良いじゃん!」と褒めてくれた。ヒカルさん10歳の時できた初めてのオリジナル曲が「I’ll Be Stroger」です。あの「徹子の部屋」で聞かせた曲です。
ヒカルさんが11歳の1994年4月圭子さんはセンチュリーレコードより、「酒に酔うほど/婚約解消」をリリース。同年6月、波乱に富んだ人生をインタビューを交え振り返る。最後の方で娘のことを聞かれ、こう答えている。「娘を歌手にですか?おそらく本人がそういわないと思います。でも、ひとつの人格として認めていますから、好きなようにさせるつもりです。ただ自立するまでは親の責任ですから、それは果たします」と。「人生って苦しいことの方が多いけど、歌があったからまあいいっか、と言えるような死に方をしたい」は味わいがあって、いかにも藤圭子らしい。
ヒカルさんが12歳になった1995年、宇多田ヒカルが母親(藤圭子)の代わりにメインボーカルとなり、「cubic U」(Uが大文字に)名義としてインディーズのレコードレーベル(EMI USA)から作品をヨーロッパやアメリカ合衆国で発売し、翌年にかけて合計3枚のレコードと1枚のマキシシングルを発表。 このように着実に歌手への階段をのぼらせながら、学業も進めています。12才のヒカルは何も考えずにどんどん歌を書いて、レコーディングし、アルバムを作りあげたが、「EMI USA」はなくなり、これらの作品も宙ぶらりんになっしまいます。ヒカルは、「別になんとも思わなかった。なにも変わらなかった」と言い、ただ、「制作に関わった人間とお金やら権利やらのトラブルがいくつも起きて、社会勉強になった。憤りはなく、そういう人たちはそういう人たちなんだ、と思った。父も母も甘いな、とちょっと思った」と言っています。
※個人的な体験で言うと、(宇多田ヒカル本人が)一番音楽を聴きだした11歳~12歳の時期、母親が近所のヒップホップダンス教室に通い始めたんですね。見に行ったら超真剣で(踊っていて)。すごく時代を先取りする人だったんですよ。「この曲のキックドラムが凄い」とか「ノリが、グルーヴがどうだ」とか語ってて。で、家でそれまで目立ってたSadeとかThe BeatlesとかT-REXとかのCDより、もうCDプレーヤーの近くにDr.Dreの『The Chronic』とSnoop Doggy Doggの『Doggystyle』が並んで、それがめちゃくちゃ流れてて私も好きで聴いてました。
ヒカルが13歳のとき、藤圭子 with cubic Uとして、1996年9月26日に日本クラウンからシングル「冷たい月 〜泣かないで〜」を発売します。
ヒカルが14歳の1997年、ここまで藤圭子は宇多田ヒカルを一人前の歌手に育て上げます。そして潰えたと思っていた「EMI USA」のシングルが宇多田ヒカルを押し出すきっかけが巡ってきます。1997年1月、アメリカで「Cubic U」としてシングル「Close To You」(「遙かなる影」のカバー)、次いでアルバム『Precious』を発売。
1997年秋、東京のスタジオでレコーディングをしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目(東芝EMI(当時)のプロデューサー)にとまり、有限会社ユースリー・ミュージックの取締役社長でヒカルの父、宇多田照實氏にヒカルの日本デビューを持ち掛けます。ヒカルはアメリカで「Cubic U」としてソロデビューも控えていた時期でもあったのですが、演奏やソングライティングに難のあった照實と演歌のイメージの強い圭子を外し、ユニット「U³」(キュービック・ユウ)を解消させて 「宇多田ヒカル」としての契約にやっとこぎ着けました。 つまり、父親の説得により1998年1月28日に『Precious』を日本で発売し12月に「宇多田ヒカル」としてデビューする事になるのです。
1998年10月ヒカルが15歳になると、FMラジオレギュラー番組『Hikki's Sweet&Sour』と『WARNING HIKKI ATTACK!!』が放送開始。12月9日、「宇多田ヒカル」として1stシングル「Automatic/time will tell」発売。1998年末に15歳でCDデビュー。
これまでヒカルは、清泉インターナショナルスクールに通っていたが、芸能活動が禁止の学校であったため、ヒカルがデビューした頃にはアメリカンスクール・イン・ジャパン(ASIJ)に転校しています。
ASIJは明治35年(1902年)設立の日本は最も古いアメリカンスクールです。大学進学率も、ほぼ100%の進学校としても知られています。宇多田ヒカルさんの成績はオールA+(オール5)に近い成績だったようです。また学業優秀な宇多田ヒカルさんはこの学校でも1年飛び級します。
東芝EMIではもともと宇多田ヒカルを「アメリカからの帰国子女」として売り出しており、当初は宇多田ヒカルの経歴の多くは明らかにされませんでした。これこそがプロモーションの戦略のひとつでもありました。このこともあり、藤圭子との関係は伏せられていました。
一方、圭子さんは、その後「有限会社ユースリー・ミュージック」から追放される大事件に見舞われます。それは、多田ヒカルがデビューする直前の1998年11月13日こと、極悪ヤミ金業者として社会的批判を浴びていた日本百貨通信販売の杉浦治夫社長から "おひねり”(1万円札5枚)をもらっている写真が報道され、圭子さんの隣に映っていた男性が広域指定暴力団・極東会の松山眞一会長だったことがわかります。
もっとも藤圭子は、亡くなった浪曲の玉川良一先生とおつきあいさせて頂いただいていたことから、先生のお弟子さんの岡崎二朗さんが開いたパーティーに呼ばれて参加しただけでしたが、宇多田ヒカルがデビュー直前のことでしたから色々と宇多田照實氏との間で争いが生じました。
このあたりから、宇多田家族の崩壊がはじまるのです。しかし、ヒカルさんは大晦日まで音楽製作で大忙しでした。「大晦日の夜は“First Love”というバラードの歌入れをしてた。パーティー中の友達から「ひかるなにしてんの? 早くおいでよ!」的な電話がたくさんかかってきた。なんだかすごく遠い世界に感じた。結局、スタジオで新年を迎えた。1999年だー。わーい。(宇多田ヒカル『点 -ten-』)」とあります。
翌1999年3月10日、宇多田ヒカルが16歳の時、1stアルバム『First Love』を発売。初週売上枚数は200万枚を突破し、その後も数十万単位で売れ続けて日本国内の歴代アルバムチャート1位となる。
売上枚数は日本国内のみでおよそ765万枚、日本国外も含めるとおよそ990万枚と言われている。そして、それにより生み出された莫大なお金が、照實氏が社長を務める「有限会社ユースリー・ミュージック」に入り始めます。
「ヒカルさんが日本音楽史上空前の大ヒットを記録した時、照實氏はベンツに乗り、宇多田は仕事でワゴン車を使うようになっていました」と報道されているるが、ヒカルさんはまだ免許証がないから、文字通り「仕事でワゴン車を使うようになってい」たと思われる。そしていつしか地方巡業の時期に使った「ミニ」はホコリまみれで忘れ去られおり、圭子さんは「またあの時のように3人寄り添うように乗りたい」と話していました。
当初はヒカルさんは前述のとおり、「藤圭子の実の娘」ということを隠して活動し、ただの無名の帰国子女との演出でした。1998年8月11日づけの日刊スポーツで「多田ヒカル(16)が今年3月に発売した初アルバム「First Love」の売り上げが700万枚を突破したことが10日、明らかになり、音楽情報誌「オリコン」の調べでは、同アルバムの実売枚数はこの日までに約702万枚、日本の音楽史の記録を塗り替える」との記事が出されました。
「まじ?フジ ・・・・・ケイコ。ダーついにこの禁断のネタを使ってしまったー!(≧∇≦) ぶぁっはっはっ!!!」(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikkiより)と、1999年8月25日時点でも、藤圭子は「禁断のネタ」でした。そして、9月6日づけの日刊スポーツの誌面で、「藤圭子の娘歌手デビュー」と宇多田ヒカルの出自についてスッパ抜かれるのです。
その年藤圭子に不運な事件が起きます。ヒカルが「Automatic」で鮮烈なデビューを飾り、あっという間にミリオンセラーを記録、続くセカンドシングル「Movin'on without you」も大ヒットしていたそんな時期、藤圭子はある地方の街で歌謡ショーに出演しています。
当時、藤はヒカルと入れ替わるように表舞台から姿を消し、地方公演などの芸能活動も一切休止していたが、突如としてステージに姿を現しただけでも驚きだったが、もっとびっくりしたのは、彼女のパフォーマンスだった。最初は演歌歌手の地方営業のパターンで持ち歌を歌っていたのだが、途中、MCでヒカルのことをうれしそうに語りだし、そのままカラオケに乗せて「Automatic」を歌い始めたのだ。しかも、「娘とそっくりの振り付け、ダンスつきで、丸々1曲を歌い上げた」とある。
なんとも微笑ましいエピソードだが、このステージについては、奇妙な後日談がある。「実はその地方営業には、ある芸能記者が居合わせていて、ステージの模様を克明にレポートする記事を『女性セブン』(小学館)に持ち込んだんです。ところが、その記事が掲載された『女性セブン』は発売直前、編集部に圧力がかかり、なんと輪転機が止められ、刷り直しになってしまった。内容的には差し障りのない記事だったのに、藤のくだりはすべて削除されたそうです」(週刊誌記者)。
この事件について、当時「FOCUS」(新潮社)や「噂の眞相」(噂の真相)などの雑誌が取り上げたが、輪転機を止めるほどの圧力をかけたのは、藤圭子の公演を仕切っていた興行会社であったこと。当時の「女性セブン」副編集長は事務所に呼び出され、“半監禁状態”にまでされたという。「しかし興行会社はなぜ、そこまでして記事を潰そうとしたのか。背景には宇多田サイド、特に夫の照實氏の意向が働いていたとみられる。当時、照實氏とヒカルの所属レコード会社は、とにかくヒカルと藤の親子関係に触れられることを極度に嫌がっていた。藤が地方公演などの芸能活動を休止したのも、ヒカルのイメージダウンにつながるからと照實氏が藤を説得した」結果といわれていた。「ところがその照實氏らも、くだんの公演だけはやらせざるを得なかった。なんでも以前、藤が世話になった暴力団組長が絡んでいたために、断りきれなかったと聞いているが、とにかくそこに『女性セブン』の取材が入ってしまった。それで、報告を受けた照實氏が藤を通じてそのスジに頼み込んだんじゃないかといわれています」(スポーツ紙記者)この結果、藤圭子は歌手を「封印」し、廃業します。 この廃業は、宇多田照實氏や東芝EMIなどヒカルさんサイドの要請で、暴力団体質があった「藤圭子」に歌手「封印」をさせたのです。
ヒカルさんが17歳になった2000年に、またもや圭子さんは離婚騒動を起こしています。TVレポーターの梨元勝氏によると「1月の末(2月7日以降のことのようです)だと思います。僕が今出ているテレビ朝日の『スーパーモーニング』のスタッフルームに、藤圭子さんから電話がかかってきたんです。彼女はいきなり「私はもう絶対信じられない。宇多田さん(圭子さんは夫の照實氏をこう呼んでいます)は、家族で経営する事務所「U3 MUSIC」の事務所の女の子M子と親密なんだ、私はその現場を見た」と言うのです。また、「 音楽評論家の小西良太郎氏は2000年頃、藤から電話をもらったという。<「会うと彼女は『私、事務所の副社長なのに、方向性を断片しか知らされていない。ヒカルと夫だけで話が進んでいって、仲間外れにされている』と愚痴る。 「しかも、お金を一銭ももらっていない」と言っていますので、照實氏の所謂ヒカル・マネーの使途にも疑問を持っていたようです。
このころ、「ロスに借りていた超高級マンションの家賃の振り込みも滞ることがあり、東京に戻ってきていたらしい。ある知人には“今はもう2000万円くらいしか持っていない”と話していた」のであり、「藤が新宿2丁目に出没し始めたのは、娘の宇多田ヒカルのブレイクと同時期だった。人気カリスマアーティストの消息をマスコミが追いかける中、当の藤は、自身のお膝元でもある場所で浪費を繰り返していたという。...「ただ、金離れはいいんだけど、自分のことはほとんど話そうとせずに、従業員のプロフィールを根掘り葉掘り聞くのが好きだったみたい。それで、興に乗ってくると説教が朝まで続くとか。さすがに、何人かの子は懲りていて、指名されるのにおびえていたようです」(常連客談)。 だが、こうしたウリ専バー通いは、長くは続かなかった。「マスコミが彼女のホスト通いを嗅ぎつけて、新宿2丁目界隈を聞き込みしていたのが彼女にバレてしまった。すると、それ以来、パッタリと姿を見せなくなってしまった」という時期でもある。
結局藤圭子とヒカルさんは、3月ごろには、(有限会社ユースリー・ミュージックのある)杉並の自宅からホテルに住居を移します。つまり、宇多田照實氏と別居し、ヒカルさんたちは、仕事場として「有限会社ユースリー・ミュージック」に通う形になるのです。(結局宇多田ヒカルは、この後藤圭子との同居も終わりを迎えることから、両親と共に過ごせたのは16歳までで、ある意味、藤圭子より親子の縁が薄い感じが否めません。このこともヒカルのサイコパシーに影響を与えることになります。)
2月の後半から3月初め確定申告の時期の頃には、「もう信じられない。宇多田さんが女性問題に続いて、また理解できない行動を取り始めた」と始まった。要するに、U3の経理問題なのですが、プロデューサーの印税は宇多田さんに振り込まれ、作詞作曲の印税はヒカルに振り込まれるはずだ。ところが、これ(ヒカルさんの作詞作曲の印税)が去年の2月から支払われていない」。「私は東芝EMIに行って全部調べた。一番わからないのが、歌唱印税だ」と藤圭子は言う。歌唱印税は新人歌手の場合、ヒットするかどうかわからないから、けっこうアバウトに決められるらしいんですね。これは事務所宛に振り込まれるのですが、これもどうなっているかわからない。「絶対おかしいわ」との状況が数日間続く。ところが確定申告の直前にまた電話がかかってくる。「梨元さん、ごめんなさい。あれは私の間違いだった。宇多田さんはヒカルと私のために一生懸命考えてくれて、最終的にそれは給料やボーナスの形でちゃんと振り込まれていた。私たちのためを考えてくれる素晴らしい人だったんだ」と言い始める。
同時期に、所謂ヒカル・マネーの使途について、前述の音楽評論家の小西良太郎氏が、藤圭子から電話をもらった件ですが、「私(藤圭子)、事務所の副社長なのに、方向性を断片しか知らされていない。ヒカルと夫だけで話が進んでいって、仲間外れにされている」、しかも、「お金を一銭ももらっていない」というから、それはおかしいと言って弁護士を紹介したが、1ヶ月くらい後に「ありがとうございます。解決しました」とお礼の電話があった。「良かったね、いくら入ったの?」と聞いたら「2億円」って言うから、あまりの額の大きさに絶句してしまいました」という。
「2000.04.06 プチ発 ようようよう!合格通知届いたよ!コロンビア大学から!しかもE-mailで!最初はなんだか説得力ねーなーって思ったけど今の時代すごいね。これからさらに進化してゆくのだろうね。
いや、人類の進化なんてこたぁさておき、とにかく受かったってことだよね??きゃーー!嬉しいって言うよりか安心した!だって私があそこの学校に志願したってことがいつの間にか日本全国に知れ渡っていて、\(≧血≦;)うひょおおお これで落ちたらどうしよう!ちょっとかっこわりぃーじゃん!!とずっと心配していたのですよ。あーよかったあ」Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikki より)」とあります。
母親である藤圭子はそんな娘ヒカルを天才と信じ、尊敬さえしている。「神さまが授けてくれたんです。私はただ私のお腹を、その大きな力に貸しただけだと思う」 とまで言い切ってしまうのだ。
しかし、4月15日にまたすさまじい事件が起きます。いままでのように(圭子さん)から(TVレポーターの梨元勝氏に)電話がかかってきて、「梨元さん、聞いてください。私(圭子さん)は許せない。あの人(照實氏)が私に暴力を」と。ことのおこりは、「4月の初めから1週間、宇多田さんはヒカルとニューヨークにレコーディングに行ったんですね。帰ってきたあと、数日の間行方不明になってしまう。連絡がとれずに東芝EMIも困ってしまう。この間、M子さんと一緒にいるんじゃないかと彼女は疑うわけです。帰ってきた宇多田さんが後で言うには、仕事先の大宮で熱を出して入院してしまった、と。彼女はまだ疑っているから、事務所を出た宇多田さんをつけるわけです。宇多田さんは車で移動するかと思ったら、歩き始めちゃった。彼女も歩いていたら、永田町のあたりで隠れるところもないですから、すぐにバレてしまった。「おまえ、なんだ」と言うので、口論になって突き飛ばされた、と言う」ことがありました。
まだこの頃は、藤圭子と宇多田ヒカルは一卵性親子のように寄り添っていました。
「2001.04.30「アップに耐える女」とは、うちの圭子が誇る言わずと知れた異名ですが、ただ今、娘は母のその偉大なる威力を見せつけられているところです!!あのね、この前ママのベスト版がボックスセットとして出たじゃあないっすか。んでそれ買った時に特大ポスターの応募ハガキがついてきてさ、そのポスター、ノドから手が出るほどにっ、是が非でもっ、欲しい!と思ったわけよ。ん?意外?まあ、っていうのもね・・・ええっと・・・えぇいこの際っ、なにを隠そう!!実はこのわたくしっ!密かにネットでママのファンサイトを探しあさってブックマークしちゃってるほどの、藤圭子ファンなんざんす!!(ぎゃあ恥ずかしい!言っちゃった言っちゃった!だぁもう、アホな家族だって思ってるでしょー!(笑))でもでもママに頼んでもらうのも恥ずかしいし・・・よし!!こうなったら一ファンとしてフツ〜に応募ハガキを出すしかねーっ!!と、覚悟を決めたのだ。ね、ほんとに好きなのヨ。実名で応募しても冗談と思われちゃうかもしれないから友達の名前と住所借りてちゃんと出したんだけど、どうもはずれちゃったみたいでさ。ポスターはあきらめるかぁ、って思ってたんだ。しかーし!!!その頃あちこちの取材でこの話をちょっとしたコネタに使ってたら、レコード会社さんの御耳にまで私の噂と熱意が届いたみたいで、ななななななんとっ!娘さんになら是非もらってほしい、ってことで特別にポスターをくれたの!!!そんでつい先日私の手元に届いてさ。さっそく開けて広げてみたらこれがまたドデカイポスターで、上目遣いのドアップの写真なんだわ。って言うとなんか可愛らしい感じがするでしょ?それがどういうわけか思いっきしガンつけてんの!(笑)ええ、そりゃあもうえっらい迫力ですわヨッ!しかし耐えていますよ彼女は、アップに。惚れ惚れするくらいお美しいんじゃよ。っつうかほんとすっごいオーラ発しててさ。圧倒されちゃったよ。半分おんなじDNAなんだから私もがんばらなくっちゃね!とにかく嬉しくってもうみんなに自慢して歩いてるんだ。応募した他のファンの方々には悪いなあと思うんだけど・・・なんかこう私にとってみると近いようで遠いような母の肖像って感じで・・・いろいろな気持ちを呼び起こす品でさ。これから玄関に飾ろうとしてるところ!玄関が暗くなってる時に通るのちょっと怖いかもしんないけど・・・特に夜中トイレに起きた時とかね(笑)まあ本人が見たらまず一番ぶっとぶと思うからママのリアクションものちほどレポートしますわっ☆げへへ。楽しみ楽しみ♪」(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikkiより)
所謂「ヒカル・マネー」については、「2000年5月16日2000.05.16高額納税者?のなにかの最年少?うーん本当に印税は高い。高収入を得るまで考えたことなかったけど(笑)そんなもんさ人間☆(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikki より)」とあります。
それでも圭子さんとヒカルさんは、「2000.07.24ハプニングハプニング!(今東京)、(北海道の)真駒内の二日目。「藤圭子のものまねやってーーー」って会場の誰かが叫んだのさ!「でも本人いるし・・・本人の前じゃやりにくいなぁ」と私が返事したら、もう会場が一体となり「ケイコッ!ケイコッ!」の怒涛のケイココールに!!(実は私もかなりあおっていたりする(笑))そしたらほんとにステージにママ登場しちゃってさ!やっぱ芸人だものねえ、お客さんにあそこまで熱烈に声援送られたら黙ってるわけにゃあいかんっしょ!んでもう、二人で「夢は夜開く」のさわりをデュエットしちゃったわ。もうケイコったら。ちょーーー盛り上がったよ!!まじまじ。ライブの後半はバトンタッチしちゃったほうがいいかしらって想うくらい(笑)それだけでもかんなり貴重なハプニングなのにさ、実はその日ってザネっちの誕生日で!事前にスタッフと打ち合わせしておいて、大画面に突然ドワンッ!と映してもらって、ステージの上でケーキとお花と悲しいコード調の「ナッピバースデイ!」で盛大に祝っちゃった♪(ヒロシさんお猿さんの衣装着てケーキ持ってきてくれてありがとう。)ママの育った土地、北海道で、ああいう形でママにも登場してもらって、ざねっちの誕生日も祝えてまあっ!すばらしいざます!って感じだしょ。特別なライブになってよかった!これからも一つ一つのライブを特別な夜にできるようにがんばるべ!! 」(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikki より)」とあり、母娘関係に大きな変化は感じられません。
しかし、2000年7月の週刊文春に宇多田家をよく知る知人が藤圭子から聞いた話が掲載されています。「知人」に藤はこんな秘話まで打ち明けていました。「(有限会社ユースリー・ミュージックのある)杉並の自宅で生活している頃、ヒカルが何度も涙を流しながら、「私、ノイローゼになりそう。もう、どっちの言い分も聞きたくない」と、大きな声で訴えたことがあったんです。ホテルに移ってからも、3月初旬にバスルームで壁を叩きながら大声で泣いたことがありました。これは私達のことだけでなく、レコーディングなど、いろいろなストレスが溜まっていたのだと思います。(中略)ヒカルは「苦しいけど、自分のため、ファンのためにやっているんだ」と、外向けには明るく振る舞っていたんです。ヒカルのためにも、私は一刻も早く、落ち着いた生活を取り戻したいんです」。 ヒカルのためにも離婚騒動にケリをつけたいという母親としての藤圭子の思いがうかがえます。
2001年、ヒカルは18歳になりますが、話題の中心は宇多田照實氏に移ります。「愛人を作るのは勝手だが、 愛人の“お手当て”をレコード製作費でまかなうのはやめてほしい」 、照實氏はヒカルのシングルCDが出るたびに、5000~6000万円を要求するそうで レコード製作費の一部が私物化している」、「曲が売れるのでメーカーは何も言えないのが実情」との東芝EMI関係者のコメントを受け、芸能界の実力者が、圭子さんに音楽出版社を作ろうと提案。 “宇多田パパ外し”を画策しているという話しが出ます(2001年、東スポの記事 )。まわりもその動きに賛同していたようです 。
「このころ、藤さんは照實さんと娘のプロデュースをめぐって何度も揉めていました。夫婦 としてはもう修復できない関係になっていました。ことあるごとに、ヒカルをここまで成長させたのは私よ!と言い出す母の姿を見て、母娘 関係も険悪になっていきました。ヒカルさんは(音楽製作のプロデューサーと東芝EMIの窓口だった)照實さんと行動を共にし、母を避けるようになったんです」(音楽関係者)との話しもありました。
恐らくヒカルさんは、金銭問題やホストクラブ通いをする母親に嫌悪感を覚えたようですが、じつは圭子さんは歌手封印で収入もなく副社長としての報酬もないことから、ヒカルさんの収入についても腐心していたわけで、ホストクラブ通いも「男遊び」ではなく、照實氏の浮気に対する「男の考え方」を理解しようとしますが、最後にはホストに説教して終わったようです。言わば切ない「女心」と「母心」に起因していたと思っています。
さらには、2001年に入り、圭子さんは、宇多田ヒカルのコンサートを開く権利を無断で第三者に売ろうとしたことが発覚します。これは、ヒカルさんの「お金」を照實氏が独占しないよう圭子さんのヒカルさんに対する精一杯の気配りでした。しかしこれさえ、報道によると「宇多田ヒカルさんのコンサート開催権利を他人に譲渡し(藤圭子の利得にし)ようとして宇多田照實さんと対立したこと」を理由に、宇多田ヒカルも父宇多田照實とともに対立していたと言うのです。
藤圭子の行動は、不安障害(不安神経症・強迫性障害)からも説明できます。不安障害というのは、不安や恐怖の感情が、普段の状態とは異なって過剰に付きまとってしまい、日常生活に支障をきたしてしまうことです。つまり、過度のストレスや疲れなどをきっかけとして、感情のバランスが崩れてしまい、理由に不釣り合いな不安と恐怖が出つづけてきてしまうのです。
ここでは夫である照實氏の浮気、所謂ヒカル・マネーが照實氏が独占してしまう不安や藤圭子自身を必要とされない家庭環境、音楽環境への不安などの強迫観念が強く表れたと考えています。
この頃は、(歌えぬ苦しみもあると思うが)藤圭子は日常的に感情が高ぶる日々だった。デビューから2~3年たった2001年ごろのある日、ついにヒカルが「(母である藤圭子へ家から)出て行って」と言ってしまったのである。藤圭子はこの一言をずっと引きずっていて、「家には帰れない。娘に嫌われているから」といい、宇多田ヒカルによると、「(藤圭子に)話しかけたくても、母親のほうから頑なに没交渉だった」という。事実2002年に宇多田ヒカルと別居することになります。
「そんな互いを支え合う父娘の姿を見て、藤さんは疎外感から、さらにヒステリックになっていった。娘の突然の絶縁宣言に、藤さんは動揺したのでしょう。当時付き合いのあった関係者に、もうヒカルと は会わないと漏らしていました」。そして絶縁されてから、藤は5年にわたる「海外放浪の旅」※に旅立ったのだ(2016年5月11日アナエンタより)※もちろん日本と海外との行き来ではあった。
ある出版プロデューサーが『宇多田ヒカルをどう育てたのか』という子育て本の企画を依頼したところ、彼女は『ヒカルは私が育てたのではない。母親らしいことは何ひとつしていないし、勝手に育っただけ』と娘の話をするのを拒むなど、母娘関係は微妙なものでした」(芸能記者)とある。
翌2002年、ヒカルさんは19歳になります。そして藤圭子と宇多田ヒカルの対立は別居という形で表れます。そして4月、まだ19才だったヒカルさんに卵巣嚢腫が見つかります。左側の卵巣は直径5cmもの腫瘍で腫れ上がり、手術で左卵巣を全摘出した。手術に際し、宇多田の口から真っ先に出たのはこんな言葉だったという。「私、妊娠できますか?」。手術後は治療薬の副作用地獄が待っていた。ヒカルさんが行ったのは「偽閉経治療法」と呼ばれ、薬で女性ホルモンの分泌を抑え、閉経したような状況を擬似的に作り出し、卵巣の働きを抑える方法でした。だが、この薬の副作用により、宇多田は長年、頭痛や体のほてり、精神不安など、更年期障害と同じような症状に悩まされました。
そんな中、闘病中の2002年9月、ヒカルさん、紀里谷和明氏(当時47才)と結婚します。紀里谷和明氏は、CM、広告、雑誌のアートディレクションなど幅広く活躍。撮影を通じて知り合った宇多田ヒカルと15歳差の電撃入籍で挙式・披露宴は行われていませんでした。
「2002.09.06大事なお知らせ 関係者各位の皆様へ 本日、私、宇多田ヒカルは、紀里谷和明と入籍致しました。二年前の冬に仕事で知り合って以来、いくつものビデオやCDジャケットの作品を共に発表しながら、プライベートでも苦楽を含む様々な出来事を乗り越え、互いに絶大な信頼をおいて今回の決断に至りました。その実現に力を貸して下さった皆様に申し訳ないくらいの感謝の気持ちでいっぱいです。しばらくの休養を明け音楽活動の再出発となるこの時期が新しい生活のスタートにもふさわしいと思い、子を授かるのを待つまでもなくの結婚です。新しい力を得た私は今後も胸を張って仕事に取り組むつもりです。これからも、よろしくお願いします。 ファンのみんなへ たった今、上のお手紙をマスコミの皆様にファックスで送信したところです。 私、今日、嫁ぎました。 東芝EMIと事務所と親と相談しながら、できる限りみんなにとって良い形で実現させられるように、丁寧に、誠実に、準備を進めてきて今日を迎えました。だから、心配しないでね!なんでこの若さで妊娠もしてないのに結婚?と不思議に思う人もいるかもしれない。でもなにが起こるか分からない世界なら、全ての確信は希望であり、また希望こそが最大の確信でもあると思うのです。愛する人と堂々と人生を歩んで行きたいという自然な気持ちからの決断です。これからの私を楽しみにしていて下さい!!2002年9月6日宇多田ヒカル」(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikkiより)
翌2003年ヒカルさん20歳の時です。「結婚後、ヒカルさんは自分の活動について、父ではなく紀里谷さんを頼るようになりました。面白くない照實さんは事あるごとに紀里谷さんの方針に口を出し、トラブルが続出して…。ふたりの間に板挟みとなったヒカルさんは苦悩して、以後、照實さんと距離を置くことにな」ります。(ヒカルの知人)女性セブン2013年10月17日号
そのような中、紀里谷氏から藤圭子に「役員を外れてほしい」と申し入れをされます。圭子さんは、「家族からそんなこといわれると思わなかった。それから人間が信じられなくなった」と言っていました。「ときには少し涙ぐむ様子で「ヒカルは冷たい」と何度も何度もいって...家族からもう完全に孤立しているという感じでした」(芸能関係者)。
しかしながら、ヒカルが照實氏と紀里谷氏の間で板挟みになる状況を見かね、この年に、藤圭子は、ヒカルさんのプロデュースに口を挟まないことを条件として、藤圭子に手切れ金として多額のお金を受け取り、全ての縁を断ち切るようにひとり放浪を始めたのでした。藤圭子52歳の時でした。
圭子さんの表向きの「放浪」の理由は、以上のように報道されていますが、実際はもうひとつ隠された理由があったのではと筆者は考えています。
圭子さんは常に、ヤクザの影が付きまとっていました。このことがきっかけで、圭子さんは事実上、歌手を廃業(封印)します。1999年4月発行の週刊文春に、ヒカルデビュー後に藤圭子が姿を見せなくなったことについて、ベテラン芸能記者の話が掲載されています。「歌番組などを筆頭に、宇多田ヒカルの争奪戦は熾烈を極めているのですが、彼女は大手プロダクションに所属しているわけではなく、両親がレコード会社と相談してスケジュールを決めている。母親の藤圭子が表に出ると、昔世話になった人(暴力団)に口説かれ、断れなくなる。それで姿を隠しているのではないか」と書かれています。
圭子さんは照實氏と娘のプロデュースをめぐって何度も揉めていました。夫婦 としてはもう修復できない関係になっていました。圭子さんも照實氏も娘宇多田ヒカルへの思いは同じでも、照實氏には、歌手「藤圭子」が舞台衣装を脱ぎ捨て一般の女性、宇多田「純子」となっても、「純子」には入墨のように「藤圭子」が刻まれていて、「藤圭子」がつきまとうという「苦しみ」があったと思うのです。
ですから、宇多田照實氏、宇多田ヒカル父娘も、妻であり母である宇多田純子は家族の一員と考えていても、宇多田ヒカルの音楽活動にかかわると、世間の目は「藤圭子」として映ることから極力距離を置くことが必要だったと考えています。
圭子さんは、莫大な“手切れ金”のせいで人間不信になります。人間不信は孤独を招き、体調不良も追い討ちをかけました。いつしか、圭子さんは、消息不明になります。一方、「ヒカルさんは周囲に母と会うことを禁じられ、3年は会っていなかったようです」(スポーツ紙デスク)との話しもありました。
藤圭子は、この事件を境に2006年3月まで全く消息が不明になっています。この頃の事情について照實氏は、「直近の12年間は、好きな旅に思い立ったら出かけるという生活を送っていました」と平成25年8月26日の「ご報告と謝辞」で述べています。(MESSAGE from Hikki - 宇多田ヒカルより)
ここで 「直近の12年間」と言っているのは、圭子さんが死亡した2013年8月22日を含め12年間の意味で、始期は、2001年の後半となり符合しています。でもその内容は、「好きな旅に思い立ったら出かける」というような、お気楽な状況ではありませんでした。
この期間の藤圭子の生活の一端を見ることができるのが、2006年3月ニューヨークのJFK国際空港で起きた米司法省麻薬取締局による「現金計約4900万円相当の差押え事件」です。この事件は、藤圭子の所持金が麻薬犬による検査で、微量の規制薬物が検出されます。米国司法省麻薬取締局は、現金が麻薬取引のためにすでに使われたか、あるいは使われる意図があったと結論付け、全額を没収されたものでした。
この事件が明かになった直後の藤サイドは、インタビューで「ニューヨークの金庫に保管していたものに、ギャンブルで勝った金を加えた。違法な現金ではない。ラスベガスのボランティア団体に寄付するつもりだった」と説明し、全額返還を求めた。また、麻薬への関与は一切ないと説明しています。
ニューヨークのJFK国際空港にて米国司法省麻薬取締局により多額の現金を差し押さえられた現金の内訳は、4149枚の米100ドル紙幣、5000カナダドル、5000オーストラリアドル。(計約4900万円)藤(圭子さん)のパスポートには、モナコ、フランス、オランダ、オーストラリア、イギリス、カナダ、香港、及び日本への渡航歴が記されています。 これによると、8各国を巡っていたことが分かります。
上記の差し押さえられた押収品の中に他人名義の小切手も含まれていました。「その小切手の名義人がA氏だとささやかれているんです。A氏は彼女にとって家族同然の大事な相手であることは間違いないです」と当時を知る人物が話しています。2013.9.3Asagei+によると、「藤は周囲に、こんなことを漏らしていたんです。最近交際している男性とは、関係は順調で「ラスベガスのカジノにも同行してもらっている」と。そしてその理由を聞くと、単なる交際相手という以外に、「自分1人でお金を持ってカジノに行くと、全て使い切ってしまう。だから彼に現金を持たせて使いすぎないようにしている」と言っています。このA氏とは、この騒動以前の「2005年に藤さんとA氏がオーストラリア旅行に行ったそうで、その時、A氏が多額の現金を所持していたため、通貨法違反で現地当局に逮捕され」れています(2013.08.22 17:38 NEWSポストセブン)。このA氏こそ、圭子さんの自死したマンションの「同居人」なのです。
2006年10月日本に戻った藤圭子は、22日放送のスタ☆メン』(フジテレビ系)にインタビュー出演し、「私はもう藤圭子でもなんでもない。(藤圭子は)お金もうけのために、人からもらった歌を歌って、喜びも悲しみもわかちあって、10年で幕を閉じた」、「今回の件はすべて家族のせいだ」。「旦那も冷たいし、家族とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない。寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好きなギャンブルをして歩いている」と、切々と訴えています。
そして疑惑の所持金については、「この5年間ほとんど日本に帰らず、世界中を旅している。ファーストクラスのチケット代、(各国の高級)ホテル宿泊代などで、5年間で5億円は使った」、「カジノでは、現金所持が当たり前」、「アメリカはカード社会や小切手社会といわれているが、現金が主流である」と主張した。この5年間ほとんど日本に帰らず、世界中を旅している」と述べている。とは言え筆者は、日本でも旅行をしていたと考えている。日時は不明だが、こんな話しがある。「余録/宇多田ヒカルと藤圭子 法華口駅で下車して、待合室に入ると、あっ宇多田ヒカル・・・と見まがうばかりの女性が真っ先に目に入った。ぽつんと座って、なにやらノートに書き込んでいる。さて地元の子だろうか、それとも旅行者だろうか。 しばらくすると、駅舎などの写真を撮り始めて、旅行者とわかる。40年前だったら、声をかけたろうが、いい歳のおっさんとなった今は分別をわきまえよう。本来の目的である撮り鉄のため、彼女をおいて駅を出て、隣の田原駅へ向けて歩き出す。 途中、上下列車を2本ずつ撮り、田原駅に着いてみると、ホームのベンチにひとり座っているのは、さっきの宇多田ヒカル!? 法華口にいたはずなのに何で?と少々混乱するが、考えてみれば、途中で撮った上り列車に乗っていれば、追い越されてもおかしくない。ひと駅だけ乗車するとは、乗り鉄かとも思うが、プロのようでもあり、独特な存在感を放っている。 「絵になるなあ」と彼女を改めて見ていると、ちょっと宇多田ヒカルとは違うかな、と思えてきた。「え~っと、誰だろう、そうだ藤圭子の若い頃に似てる」と素で思ってしまい、その瞬間に宇多田ヒカルの母親だったと気づいて苦笑い。さすが母娘である。 ここで再会したのも何かの縁だ。やっぱり声をかけなくちゃと思ったものの、何せ一人旅の藤圭子である。余計いじりにくい雰囲気。 「ひとり?」なんて尋ねるのはもちろんNG。ではどうするか・・・。 「法華口にいた方ですよね」 「ええ」 「旅行のライターさんですか?」 「いえいえ、ただ電車に乗りに来ただけです」と手を振り、予想外のはにかんだ笑顔で答えてくれた。電車と口にしたことからして、一般人であることは間違いなかろう。ただ、プロなら会話を続けるつもりだったが、プライベートであれば、立ち入るのは厳禁と心に決めていた。 「それは失礼しました」 これで会話は終わりである。 やがてやってきた下り列車に一緒に乗り込み、こちらは次の撮影地、長で下車。車内に残る彼女とは、軽く会釈をしあって別れたのであった」とある(http://k-miyata.com/local/repo/hojo/page611.html)。
だから、2009年以降「藤圭子の奇行」として報道された「携帯電話は勝手に解約しちゃうし、誰も連絡が取れない。北海道のすすきのや、四国の山中で目撃されたこともあった。娘の宇多田も母親の所在を把握しておらず、心配していた」(芸能プロ関係者)と話しも単なる国内旅行だった可能性もある。
さて、話しを戻します。インタビュー写真は、「早口で一方的に話し、目の焦点があっていない。誰が見ても「危ない」状態」に見え、麻薬がらみの事件ゆえ圭子さん自身も薬物中毒ではないかと言う好奇の目で見られてしまいますが、こんなことを言っています。「原因不明ですけど、この20年間(1987-2006)、吐きまくりの人生」であったこと。「あれ(藤圭子)はもういないんだから。人からもらった曲を生活のためにただ歌っていただけ」と語ったり、「私はラッキーだと思っている。神様に助けられて。目は治らないけどね」と目の障害を告白しています。
何がラッキーだったのか、目はについては、ヒカルさんを出産すると同時に網膜色素変性症を発症していますが、ヒカルさんがデビューさせるまで不自由ではなかったことを指し、「神様に助けられ」と述べているのではないでしょうか。
このインタビューの他でも、藤は旧知の芸能記者に「久しぶりに日本に帰ってきたけど、話す人がいない。寂しい」と孤独感を吐露していたと報じられているし、その記者には「感情を抑えることができない。パニック障害と診断された」と、病名も明かしていたと言います。このインタビュー以後、再び藤圭子の所在が分からなくなります。
またこの時期の行動について照實氏はこう書いています。「光と僕には昼夜を問わず、予期せぬ時間に電話連絡が入り、「元気?」という普通の会話が交わされる時もあれば心当たりのない理由で罵声を浴びせられる時もあり、相変わらず心の不安定さを感じさせられてとても気がかりでした。」とあります。
これは 「直近の12年間は、好きな旅に思い立ったら出かけるという生活を送っていました」と言うけれど、元を正せば、暴力団の関わりがあるとされた「藤圭子」が宇多田ヒカルの音楽活動の支障になると照實氏とヒカルによって追われた結果であり、いつか再び親子三人で活動できる日を待っていたのだが、「今回の件はすべて家族のせいだ」。「旦那も冷たいし、家族とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない。寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好きなギャンブルをして歩い」たわけだから、想像だが「何日になったら、親子三人で活動できるか」と迫ったり、宇多田ヒカルの動向も知っていたから、忙しく時間がないことを承知し、「数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました」と言うことになったのではないだろうか。
さらにこの期間ギャンブルだけに興じていたわけでないことを付け加えたい。「スポニチの阿部公輔は、2006年に米ニューヨークのJFK国際空港で、所持していた42万ドル(当時のレートで約4,900万円)を没収された事件の直後に圭子から話を聞いている。「阿部は、圭子が宇多田家からつまはじきとなった後も、呼び出しを食らっては熱弁を聞かされる。「二言目には「娘は天才だから」ですよ。デビュー前の売り込みの時期ではなく、大ブレイクした後も変わらなかった。ただ、そばにいない娘に向かってのアドバイスを忘れない。今のままではダメって、いつも口にしていました」。阿部が舌を巻いたのは、音楽に対する膨大な知識である。もともと聡明な人だとは思っていたが、アメリカのプロデューサーや一流ミュージシャンの名前が次々と出てくる。ドラムやベースは誰々がヒカルに合っているというように」と述べている。つまり筆者が思うに、ギャンブル三昧の旅だけではなく、世界の音楽の最新情報を収集していたように見受けられるのです。
以上が、藤圭子の2001年(後半)から2006年(前半)の動向と考えています。この時期の宇多田ヒカルの動向も見ておきましょう。
2001年3月28日『Distance』(ディスタンス)をリリース。宇多田ヒカルの2ndアルバム。
2001年- 宇多田ヒカル Can You Keep A Secret 2001年年間オリコンランキング1位。ドラマ 『HERO』のエンディングテーマ。
2001年- DISTANCE2001年に同名のアルバムがリリースされた。FINAL DISTANCEリリースされたアルバム曲DISTANCEのリミックスver
2001年- Letters NTTドコモ「FOMA」CMソング
2002年5月6日、「笑っていいとも!」のテレフォンショッキングにヒカルが出演する予定であったが、彼女の卵巣腫瘍(良性)が発覚。当日は術後療養中のため出演できず、急遽、彼女の代わりに父宇多田照實氏が出演している。(Wikipediaより)
宇多田ヒカルによると、「(藤圭子に)話しかけたくても、母親のほうから頑なに没交渉だった」という。事実2002年に宇多田ヒカルと別居することになる。そして9月宇多田ヒカルは、紀里谷和明と結婚・入籍している。
2002年6月19日『DEEP RIVER』をリリース。宇多田ヒカルの3rdアルバム。
2002年- 宇多田ヒカル 光 2002年年間オリコン10位。ゲーム『キングダムハーツ』の主題歌。
2002年- 宇多田ヒカル SAKURAドロップス TBS系ドラマ『First Love』主題歌
2003年- 宇多田ヒカル COLORS 2002年年間オリコンランキング3位。
2004年- 宇多田ヒカル 誰かの願いが叶うころリリース。映画『CASSHERN』のテーマソング。
※小さなことで大事なものを失った/冷たい指輪が私に光ってみせた/「今さえあればいい」と言ったけど そうじゃなかった/あなたへ続くドアが音も無く消えた/あなたの幸せ願うほど わがままが増えてくよ/それでもあなたを引き止めたい いつだってそう/誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ/そのまま扉の音は鳴らない…
2004年- EXODUS '04 宇多田初の英語コンピレーションアルバム『Utada The Best』に収録
※Daddy don't be mad that I'm leaving Please let me worry about me Mama don't you worry about me
This is my story
2005年- 宇多田ヒカル Be My Lastリリース。映画『春の雪』の主題歌
※母さんどうして/育てたものまで/自分で壊さなきゃならない日がくるの?/バラバラになったコラージュ/捨てられないのは/何も繋げない手/君の手つないだ時だって…
2005年- 宇多田ヒカル Passionリリース。ゲーム『キングダムハーツ2』の主題歌。
※思い出せば遙か遙か/未来はどこまでも輝いてた/きれいな青空の下で/僕らは少しだけ怯えていた/懐かしい色に窓が染まる/前を向いてればまた会えますか…
このように2001年(後半)から2006年(前半)の 宇多田ヒカルの動向は、病気、結婚、仕事と忙しい生活を送っている。リリースされた楽曲の歌詞には母への目差が色濃く表れている。
ヒカルが23歳になった2006年2月22日- 宇多田ヒカル 「Keep Tryin'」をリリース。iTuneの年間ダウンロードランキング1位(250万ダウンロード)。KDDI・沖縄セルラー電話『au LISTEN MOBILE SERVICE(LISMO!』のCMソング。
※I don't care about anything/どうでもいいって顔しながら/ずっとずっと祈っていた/無い物ねだり/ちょっとやそっとで満足できない/だからkeep trying/十時のお笑い番組/仕事の疲れ癒やしても/一人が少しイヤになるよ/そういうのも大事と思うけど…
この頃は、母藤圭子の事件をまだ知らないでいる。しかし、「紀里谷さんがスタッフに指示を出したそばから、照實さんが全く反対の意見を口出しするようになってトラブルになることも増えたようです。ヒカルさんは夫と父親の間で板挟み状態」(芸能関係者)だったようである。
2006年3月3日藤圭子が、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港にて大金を没収される事件を起ししていまう。しかし、宇多田照實、ヒカル父娘の反応は見られない。
「2006.04.11SNS 親友:「稲中の台詞だけで会話する(mixi)コミュニティーがあるんだよ」(゚ロ゚)ふんがーーーっ おれを招待しろ!というわけで普段から頻繁に連絡をとっている親友と「行け!稲中卓球部」というマンガの台詞だけの掲示板でやりとりをするために入会。しかしやはり「ソーシャルネットワーキング」という言葉の響きに軽くむしずが走るような内向的な私には向いていなかったらしく、今までのアクセス回数は一桁にとどまる、、、」、「2006.04.12 おとっつぁん きのう一時mixiが混雑しちゃったみたいね、、、。迷惑こうむった人ごめんなさいっ。んやぁ。厳しいご指摘もいただきましたが(ありがとう)私は自分の知名度とかいろいろね、自覚が足りないなあ、と思う今日コノゴロデス!!!ほんとね、ケイソツで困った人なのよ私。
沢山見られたり、影響あたえちゃったりするこういう仕事に向いてないな〜ってよくよく思うんだけど、そう思う同じ理由で、こういう創作系の仕事じゃなきゃ許されない性格だな〜とも思う。(なんかややこしい?)お父さんみたいに、尊敬できる人になりたいなあ!と思うデスよ。(←あぁ語尾に照れ隠しがっ)ずっとお父さんとは、仕事中心のわりとドライな関係だったんだよね。なんとなく武士っぽいというか、自分のことは自分でやるみたいな精神の漂う家系でね。
お互いずっともっと近づきたいっていう気持ちはあったと思うんだけど。で、この一年くらいかな?お父さんに対する心の壁が低くなったのかな、私。最近は大事な話や心の問題やら、相談したり語り合ったりすることがある。こないだ東京がちょー天気良かった日、「ドライブしようぜ!」ってことになっていきなり湘南まで飛ばしたよ!二人とも初めての江ノ島まで行ってお茶してお土産買って帰った。こんなデートっぽいことお父さんとしたの初めてかも、、、(。- -。)ポッ 人間って、赤ちゃんの頃はなんでも口に入れて、とにかく世界を吸収して、信じて、、、思春期を迎えて、まわりの大人の欠点が沢山分かってきちゃって、矛盾を感じたり反発する中で自己を確立して成長していくよね。それが今度はもっと大人になってく時さ、まわりよりも自分の欠点ばっかり分かってきちゃって、自分が嫌いになったりするじゃない。まわりにごめんなさいって思ったり、小さいころから悪い子だったのかな?とか考えちゃったりしない?自分のことが嫌いになって自暴自棄になるんじゃなくて、親への尊敬とか、理解とか、まわりの人たちへの感謝の気持ちを持てるようになると、イイヨネ。最近 開高健 にハマって いるぜ!」(Hikaru Utada Official Website | MESSAGE from Hikki)。父親との距離を縮めようとしている。
2006年10月〜11月 NHK「みんなのうた」で「ぼくはくま」(宇多田ヒカル作詞作曲歌唱)が放送される。
2006年10月藤圭子が帰国しテレビインタビューに応じている。また、22日放送の「スタ☆メン」(フジテレビ系)にインタビュー出演し、「私はもう藤圭子でもなんでもない。(藤圭子は)お金もうけのために、人からもらった歌を歌って、喜びも悲しみもわかちあって、10年で幕を閉じた」、「今回の件はすべて家族のせいだ」。「旦那も冷たいし、家族とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない。寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好きなギャンブルをして歩いている」と、切々と訴えている。
このインタビュー後の藤圭子の足取りについては、いくつかの報道がある。ひとつは、「藤さんは“第2の故郷”米国と日本を往復する生活で、国内滞在時はもっぱら都内の高級ホテルを“定宿”としていた。ホテル業界に詳しい人物によると「6年ほど前までは港区のホテル『X』の1泊数十万円もするスイートルームに住んでいました。ここには宇多田ヒカルさんも別の部屋を借りて、創作活動をしていました」。ただ、そこで目撃された藤さんの姿は異様なものだった。目撃者は「キレイとは言い難いラフな格好というんですかね。スイートルームに宿泊する人とはとても思えない服装で、ロビーを徘徊していたんです」と話す。藤さんは「X」だけでなく、目黒区にある高級ホテル「Y」にも部屋をキープしていた。ここには宇多田も夫の照實氏も住んでいたという」記事だ(謎に包まれた半生…藤圭子さんの「カネと奇行伝説」 (東スポWeb2013年08月24日 )より)。ここで「「6年ほど前」というと丁度2007年前後になる。
もうひとつは、「芸能プロ幹部はこう話す。「藤は睡眠薬や向精神薬を常用していたそうです。一時は母親の実家に程近い、長野の診療施設に入っていたという情報も飛び交ったことがあった」(2013年9月4日Asagei plus より)いう記事だ。
そして藤圭子が自死した東京の西新宿6丁目のマンションに移るのである。藤圭子の自殺で、飛び降りたマンションの13階にある知人の30代男性宅に6年前から同居していたこと。そして、この部屋のベランダから飛び降りたとみられることから、この男性との関係が取り沙汰された。「不可解なのは62歳の藤さんと30代知人男性の関係だ。少なくとも20歳以上の差がある。関係者によると、内縁関係はないとされ、ともに別々の部屋で寝ていたという。」、「同居するマンションは2006年10月に竣工し、13階には9部屋がある。男性宅は約70平方メートルの2LDKとみられ、約6年前からの付き合いを踏まえると、竣工ほどなく同居したことになる。」(藤圭子さん“自殺の闇” 謎の同居男性、不可解な結婚離婚、奇妙な行動ー2013.08.23夕刊フジ)とある。ここで「約6年前」と言うと2007年頃だ。
ここにもうひとつの記事を紹介したい。「ヒカルは2002年9月、写真家で映画監督の紀里谷和明氏(45才)と結婚。しかし4年半の結婚生活の後、2007年3月に離婚。その裏にはヒカルの父・照實氏(65才)との存在もあったことは有名な話だ。「紀里谷さんがスタッフに指示を出したそばから、照實さんが全く反対の意見を口出しするようになってトラブルになることも増えたようです。ヒカルさんは夫と父親の間で板挟み状態でした」(芸能関係者)そうして再び父とともに音楽活動を再開させたヒカルだったが、彼女の心は限界に達していた。北アルプスの麓、長野県安曇野市の宿泊施設をヒカルが訪れたのはそんな時だった。「あの宿は自然治癒力を高めるための朝の散歩やヨガなどのプログラムがあることから、心に傷を抱えた人や末期のがんで苦しんでいる人などが多いんだそうです。ヒカルさんが来たことも話題になっていましたよ」(地元の住民)そして、ヒカルは福田(天人)さんと出会う。彼はその宿泊施設のオーナーの息子だったのだ」と「宇多田ヒカル 現在の恋人と出会ったのは長野県の宿泊施設女性セブン2013年9月19日号」は伝えている。
ここでひとつの仮説が成り立つ。藤圭子と宇多田照實氏は何回も結婚離婚を繰り返しているが同一人同士で、ある意味喧嘩友だち的な「夫婦」であったのではないだろうか。特に愛娘のヒカルについては、双方とも「一流な歌手に育てること」は異存なく「藤圭子を遠ざける」こともその一環であったと思っている。しかし2006年の麻薬がらみの「ジョン・F・ケネディ国際空港大金没収事件」は、この「夫婦」にとって一大事であり、事件後すぐに、藤圭子は宇多田照實氏に報告し善後策を相談したと考えている。その上で、まだ犯罪か否かもわからない中、不起訴になれば日本に帰国し、宇多田ヒカルを傷つけないように藤圭子自ら世間に弁明し再び、行方不明になるシナリオを考えていたのではないだろうか。
その後、一旦は「定宿」のホテルに滞在していたが、ここにもマスコミが嗅ぎつけたことから、何らかの繋がりがある 「長野の施設」に移り安心できる居場所の確保を待っていた可能性もある。
宇多田ヒカルにとってホテルから藤圭子が消えれば父親に尋ねるだろうから「 (ママは)睡眠薬や向精神薬を常用してい」て、「母親の実家に程近い、長野の診療施設に入っ」たと伝えたのかも知れない。
つまりインタビューの写真もそうだが「精神の病」に冒されていたと言えば「麻薬がらみの事件」がどのような結果になろうと、宇多田ヒカルの人気に傷がつかないと「この夫婦」は考え、ヒカルにそう思い込ませたのかも知れない。
そうだとしたら、宇多田ヒカルの「北アルプスの麓、長野県安曇野市の宿泊施設」を尋ねたとしても違和感はない。「(あの宿は)自然治癒力を高めるための朝の散歩やヨガなどのプログラムがあることから、心に傷を抱えた人や末期のがんで苦しんでいる人などが多いんだそうです。ヒカルさんが来たことも話題になっていましたよ」(地元の住民)とあるから、母親と会おうとしていたのかも知れない。
そして藤圭子は2007年の前半に、2006年10月に竣工したばかりの 「東京の西新宿6丁目のマンション」へ移るのだが、この際、目も不自由だったため介助と付き添いを兼ねて「関係が順調で「ラスベガスのカジノにも同行してもらっている」交際相手(元マネージャー)で「自分1人でお金を持ってカジノに行くと、全て使い切ってしまう。だから彼に現金を持たせて使いすぎないようにしている」と言う信頼の置ける人を同居人にして、しかも同居人名義でこのマンションに入居したのだと考えられる。さらに、圭子さんの母の竹山澄子さんの妹で藤圭子の叔母に当たる竹山幸子さんの話のなかにも、「自殺の時、同居していた男性についても、「宇多田さんから(純ちゃんの)マンションに一緒に住むように指示されていた人」だと言っていたそうです」と話していますので、照實氏は圭子さんの所在も知っており、恐らく圭子さんからの相談ごとも同居人の元マネージャーから近況を報告されることもあったと思われるのです。
不可解なのは2007年の「最後の離婚 」ことです。何故「離婚」を公表しなければならなかったのか。ひとつ考えられることは、宇多田ヒカルの母への想いを断ち切るため、例えばお母さん(純子=藤圭子)は、ヒカルと同じ歳頃の元マネジャーと同棲することになり、夫でありヒカルの父である照實氏は、お母が望むことには出来るだけ応えてあげたいから「離婚」することにしたと説明したのではないだろうか。しかし、実際は離婚せず、戸籍は婚姻したままになったのだと筆者は考えている。もちろん、想像である。そして、24歳になった宇多田ヒカルも紀里谷和明氏と4年半の結婚生活を終え、2007年3月に離婚するのである。離婚の理由については「好きになるのに理由がないように、別れることにも理由はない。気持ちのことだから、何ひとつ解析できないんですよ。解析できたら解決するもん」と説明。結論として「結局、彼女は若すぎた。俺は未熟だった。そういうことだと思う」と明かしている。 しかし、本当にそうだったのであろうか。疑問は残るのだ。
つづく
