もうひとつの藤圭子伝説について(その4)

 今回は少し冒険をしたいと思います。年次別に圭子さん、ヒカルさん、照實さんの動向を織り交ぜて各々の心模様を推察し描きたいと思います。間違いがあれば修正いたしますのでご協力ください。

1982年 圭子さん31歳、照實さん34歳
 圭子さんは、6月に宇多田照實氏と再婚し、妊娠、そして1982年の後半にはニューヨークへ帰って行きます。

1983年 圭子さん32歳、ヒカルさん0歳、照實さん35歳
 1月19日に宇多田光さん(芸名宇多田ヒカル。以下ヒカル)をニューヨークで出産します。
 6月に藤圭子さんは夫とともにヒカルを抱いて一時帰国をします。帰国したのは圭子さんの前事務所(ニュージャパンプロダクション)の藤原成郷氏とのトラブルが裁判になり、東京地裁に出廷するためでした。
 
 10月5日に帰国。親子3人でニューヨークから東京へ引っ越します。はじめは、広尾のマンションに圭子さんの母澄子さんと同居していたようです。照實さんは所属事務所がなくなってしまった圭子さんのために個人事務所(テックス)を設立して社長になります。圭子さんと二人三脚で営業を始めました。このような中で「圭子と結婚した当時の照實氏…とても裕福とはいえない状況でした。さらに借金も抱えており、照實氏はあるとき。圭子さんの母に「金をくれ。ないんだったら、マンションを売って手配してくれ」と迫ったこともあったといいいます。当然、母は難色を示しめしましたが、「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」と怒鳴り、口論に発展。結局は(広尾マンションを)を売却して、3000万円ほどの金を照實氏に渡すことになった」そうです(圭子さんの実兄の話)。それにより、母澄子さんは綾瀬のマンションに移ります。そして、圭子さん一家は、杉並のマンションに移ります。(後の有限会社ユースリー・ミュージックの事務所兼自宅)※大下英治著「悲しき歌姫」にこんな一節があります。「「藤圭子が一番ブレイクしていたとき、藤圭子の給料は一ヶ月500万円くらい。一年間で6000万円くらいになったはずである。そのお金を、藤圭子は母親の銀行口座に振り込んでいた。そのため、すべて母親が管理して、母親から藤圭子はお金をもらっていた。アメリカに渡ったとき、藤圭子はその一部(3000万円余り)を持って行ったのだが、すぐに使い果たしてしまい、結局、日本へ帰国したのである。その様子を見かねた母親は、決心したようだ。<これじゃあ、あっという間にお金が無くなっちゃう。わたしの老後は、このお金で生活しなければいけないのに、このままでは、わたしも生活できなっちゃう>」とかかれている。
 つまり、圭子さんは母親に「お金が欲しい」とお願いしたがお金はもらえなかったので、照實氏が「金をくれ。ないんだったら、マンションを売って手配してくれ」と迫ったことから結局は(広尾マンションを)を売却して、3000万円ほどの金を照實氏に渡すことになった」ようである、そのお金で、恐らく杉並のマンション(後の有限会社ユースリー・ミュージックの事務所兼自宅)を購入したと思われます。
 さらに、この3000万円は、実兄の話によると、「母親が亡くなる数ヶ月前(2010年2月に、母親竹山澄子死去)、純子も母親を訪ねて来ています。「お母ちゃん、これまでゴメンね」と詫びたそうです。和解の印なのか、3,000万円の現金を携え、それを母親に渡しました。」とあり、金額から見て圭子さんもこのことを気にしていたと思われてなりません。

1984年 圭子さん33歳、ヒカルさん1歳、照實さん36歳
 1984年頃に藤圭子が石坂まさを夫妻と交わした会話としてその理由の一端が示されていますので引用します。「このとき、藤が、二人に向かってピシッと言い放った。「もう、わたしのお母さんとは、付き合わないでちょうだい」
それを聞いた清子は、最初、何を言っているのかわからなかった。〈あんなに仲がよかったのに、どうしちゃったの?〉心底びっくりした清子は、言い返した。「純ちゃん、何を言ってるの?」それでも、藤は態度を崩そうとしない。「だから、お姉さん、わたしのお母さんと付き合うというなら、わたしはお姉さんと、今後、いっさい付き合いません」「どうして?」そう訊く清子に、藤は理解できないような理由をあれこれと言った。そのうちの一つに、こんな理由があった。「今、生活が大変なの。お母さんがお金を管理していて、わたしに、一銭も出さなくなったのよ」。…そう答える藤を、言葉通り信じることは清子にはできなかった。…(清子さんはこの後で澄子さんに電話で確認したところ、藤圭子に澄子)「お金を渡したら、すぐ、そのお金を使かちゃうからね」と、そんな理由で、本当にお金は渡していないようだった」。(大下英治著「悲しき歌姫」より)

 時期は不明ですがロリーポップから圭子名義で「あいつが悪い」をリリース。さらに10月、リバースターから芸名を藤圭子に戻し「蝶よ花よと」をリリースします。

1985年 圭子さん34歳、ヒカルさん2歳、照實さん37歳
 1985年5月- ヒカルが2歳4か月のとき、ヒカルに歌を教えています。それも「七つの子」「おててつないで」と『女のブルース』をです(https://www.youtube.com/watch?v=6yXK7-vu36Y)※2歳の頃から藤圭子はある歌を教えていたのですが、藤圭子の曲「女のブルース」を聴かせて歌わせていました。藤圭子の未発表曲シングル盤「母子舟/恋して母は」は、1984年以降の録音で娘のヒカルは2歳くらいのきの録音のようで、お蔵入りになっていました。

1986年 圭子さん35歳、ヒカルさん3歳、照實さん38歳
 圭子さんの前事務所(ニュージャパンプロダクション)の藤原成郷氏との裁判が、1月に判決が下され、藤圭子は受け取った契約金のうち2,000万円をプロダクションに返し、プロダクションは藤圭子に未払いの給料200万円を支払え、という判決でした。そして6月、圭子さんはポリドールにかわり、「東京迷路」をリリースします。

1987年 圭子さん36歳、ヒカルさん4歳、照實さん39歳
 圭子さんは2月ポリドールから「新宿挽歌」をリリースします。そして、ヒカルちゃんが4歳になったとき。渋谷区松濤にあり青葉インターナショナルキンダーガーテンというアメリカンスクールの幼稚園に入園させています。

1988年 圭子さん37歳、ヒカルさん5歳、照實さん40歳
 3月ポリドールから「旅路」をリリースします。
 7月19日、石坂まさを氏の母千恵さん逝去。このとき圭子さんは葬儀に列席しています。同時期に圭子さんは、ヒカルさんが7歳になったらニューヨークに定住する話になって、圭子さん親子3人の生活ためにまとまったお金が必要となりますが、出しもらえません。当時、「当時、藤さんは母に強い不信感を抱くようになっていたんです」と2013年9月12日発行の女性セブンに「宇多田家の知人の話として次のような記事が掲載されています。「彼女は絶縁したお父さんから、以前、お母さんが藤さんのギャラを着服していたという話を聞かされていたようなんです」と。

 母親がギャラを着服していたこと、母の目が実際には見えていたことを知り、歌手になったことも含めて長年母のために尽くしてきたことが裏切られたことを知って、精神的にひどい危機状態に陥っています。こう言う精神状況の中で、当時母親の住んでいる綾瀬のマンションも売却していまいます。「私が買ってあげたものなのに私の好きなようにして何が悪いの。ニューヨークで暮らすのはヒカルのためだから」と言う圭子さん。「照實さんも、「借金があるからマンションを売れ!その金は圭子の金だろ!」と迫るようになったんです。 姉(圭子さんの実母澄子さん)は、毎日、照實さんの怒声を浴びていました。 姉は、「おっかない、このままでは殺される」とおびえていて、一生住むつもりだった綾瀬のマンションを売却し、お金を照實さんに渡して、姉は粗末なアパートに引っ越します。それから照實さんとの関係は、それっきり途絶えました」と実兄の藤三郎氏(本名阿部博氏)は話します。そのことで藤圭子は精神的にひどく不安定となり、母親らによって精神科病棟に強制入院させられています。退院はしたものの、精神的に消耗がひどく、歌も満足に歌えなくなったのでしょう。そうした危機的状況を救ったのがヒカルの存在です。藤圭子はヒカルを世界に通用する歌手に育てることに生きる意味を見出したのです。ヒカルが5歳頃のときに杉並の自宅マンションに、ヒカルのレッスン用の鏡を取り付けたという業者の話が掲載されています。※本格的に歌の稽古をはじめたのは4歳の頃で、5歳の頃には自宅マンションの一室に宇多田ヒカル専用のレッスン用の業務用の鏡を取り付けたのです。

 「体調を崩して歌えなくなったとき」(吐きまくりの人生)というのは1988年のこの事件が発端と思われます。なお、圭子さんの実母竹山澄子さんの話では「1985-1989、7歳頃(2〜6歳)まで孫(宇多田ヒカルさん)の面倒を見ていた」と話しています。

1989年 圭子さん38歳、ヒカルさん6歳、照實さん41歳
 2月ポリドールから「新地の雨」(with桂三枝)をリリースします。

1990年 圭子さん39歳、ヒカルさん7歳、照實さん42歳
 1990年 ヒカルさんが7歳になった4月に照實氏とヒカルとともに米国に移ります。圭子さんは、娘のヒカルさんにR&Bのリズムを叩き込み、家族3人で世界を目指そうと考えていました。それは、日本で生きることに苦労してきた自分と同じつらさを味わわせたくないという気持ちが大きかったからだと思います。ヒカルさんは、インタビューで「急に学校から帰ったら「明日からニューヨークに引っ越すわよ」と言われたことを記憶しています。かくしてヒカルさんは、小学校(ニューヨークのThe Hewitt School)に入学します。※ヒカルは、7歳で歌手としてユニットを組んでいた。

 ※1989-1996(1989-1990.3までは日本)、決して楽な生活ではなかった。ニューヨークでの生活資金が底をつけば、帰国して日本各地を巡り、歌をうたう生活。それでも、家族3人で愛車の「ミニ」に乗って地方を旅した7年間(1989-1996:純子39歳・光6歳-純子45歳・光13歳)は藤さんにとって幸せな時間だった。「裕福な生活ではありませんでしたが、以前のようにトラブルのもとになるようなお金もないですし、周囲の目を気にする必要もない。純粋に心から信じ合える家族とずっと一緒にいられることが彼女にはこの上ない幸せだったんだと思います」(宇多田家の知人)とあります。つづく

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