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【今日はなんの日】7月22日:人生の交差点。浅井忠の誕生日に寄せて

【ご案内】明日7月22日は、明治の日本で西洋画の先駆者として活躍した画家、浅井忠(1856–1907)の誕生日です。武士の家に生まれ、英語を学び、やがて油絵と出会った一人の男。彼の歩んできた道のりは、のちに遠い異国からやってきた一人の画家との奇跡のような出会いへと繋がっていきます。人生の不思議さと、人と人が巡り合うことのあたたかさについて、そっと考えてみました。

侍の子として生を受けた男

浅井忠は、1856(安政3)年7月22日、江戸の佐倉藩邸で武士の息子として生まれました。幼い頃は「侍の子」として育てられ、藩の学校で漢学や武芸、そして当時としては珍しかった英語(洋学)を学びました。

浅井忠

当時の武士の子にとって、英語を学ぶことは、これからの新しい時代に国家や藩に仕えるための大切な準備でした。彼は最初から画家を目指していたわけではありませんでした。

しかし、明治になり侍の身分がなくなったあと、上京して英語を学んでいた浅井は、20歳になる頃に油絵という西洋の画法と出会います。写真のようにリアルで、光や立体感を鮮やかに表現する油絵の力に、彼は激しく心を揺さぶられました。

1876(明治9)年、政府が作った工部美術学校に入学した浅井は、イタリアから招かれた教師フォンタネージに師事します。絵の英才教育を受けて育ったわけではない青年が、自分の意思で飛び込んだ絵の道でした。彼はここで、油絵の技術だけでなく自然をありのままに観察し、飾らず素直に描くという誠実な写実の精神を深く学び取ったのです。

1900年、京都での出会い

時代が下り、1900(明治33)年。浅井忠が関西の美術界を支え、後進の指導にあたっていた頃、ひとりの西洋人が日本へやってきます。それが、昨日7月21日に誕生日を迎えたチェコ出身の画家、エミール・オルリックでした。

オルリックは日本の伝統的な木版画の技術を、本場の職人から直接学びたいという一心で、単身船に乗ってやってきた人でした。

当時、日本の洋画界で重鎮となっていた浅井忠は、やってきたオルリックを温かく迎え入れました。二人は京都のアトリエや自宅で交流を重ね、日本の美術や手仕事について意見を交わしました。

武士の気風を持ち、英語でコミュニケーションを取ることができ、西洋画の理屈も日本の手仕事の価値も知り尽くしていた浅井忠。彼は、オルリックにとってこれ以上ない理解者であり、頼もしい案内人となったのです。

人生の交差点と、学びの行方

もしも、と考えることがあります。

もし浅井忠が武士の家に生まれず、幼い頃に英語を学んでいなかったら。 もし20歳で油絵に出会わず、フォンタネージという師から自然を素直に見つめる心を教わっていなかったら。

きっと、1900年にオルリックが日本で過ごした時間も、まったく違うものになっていたかもしれません。遠く離れた国で生まれ、文化も言葉も違う二人が、京都の静かなアトリエで向かい合い、心を通わせる。そう思えてしまうほど、不思議な巡り合わせです。

もちろん、人の成し遂げる仕事には、本人の努力や熱意、才能が欠かせません。しかし、生きていること、学んできたことが、どこでどのように生かされるのか。それは自分の計算を超えた人生の不思議であり、奇跡のような人と人とのすれ違い、人生の交差点が作り上げているのではないでしょうか。

浅井忠自身も、若い頃に学び始めた英語や、迷いながら飛び込んだ絵の道が、まさか数十年後に遠いヨーロッパから来た画家と心を結ぶための橋渡しになるとは、思ってもみなかったかもしれません。


結び

人生は不思議で、だからこそ魅力的なのだと感じます。

自分が今、夢中になって取り組んでいること。思いがけず学ぶことになった知識や、遠回りしたように思える時間。それらはすべて、まだ見ぬ未来の誰かと出会い、その人の人生をそっと豊かにするための大切な準備なのかもしれません。

明日7月22日、浅井忠の誕生日に、彼が遺した素朴で温かな油絵や水彩画を眺めながら、私たちがこれまでの人生で通り過ぎてきた交差点や、そこで出会えたかけがえのない人たちの顔を思い浮かべてみるのはいかがでしょうか。

自分の人生を誠実に生きている人は、自分でも気づかないうちに、誰かの人生を照らす柔らかな光になっているのかもしれません。

今日もまた、どこかで誰かが新しい交差点に立ち、静かに誰かと出会っているはずです。その出会いが、また新しい美しい物語を紡ぎ出していくことを、そっと祈りたくなります。

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