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【今日はなんの日】7月29日:「ガラクタ」を作り続けること。 ゴッホ。

【ご案内】7月29日は、画家フィンセント・ファン・ゴッホが亡くなった日です。世間の評価や成功という物差しから離れ、自分の内側にある衝動に向き合い続けた彼の生き方から、私たちが日々の暮らしや表現のなかで大切にしたいものについて考えてみました。

ゴッホの歩み

フィンセント・ファン・ゴッホという画家がいました。

生前に売れた絵は、わずか一枚だったとも言われます(諸説あります)。自分のしたいことでは、最後まで生計をたてられませんでした。

生きているあいだ、精神的な不調に苦しみ、周囲から誤解や偏見を受けることも少なくありませんでした。ほんの少ない理解者を除いては、誰にも認められませんでした。

それでも、彼は筆を置くことはありませんでした。生涯、ずっと描き続けました。

私たちがみるべきもの

けれど、精神的な苦しみを抱えていたからといって、あれほどの技法や途方もない訓練の積み重ねまで、すべて説明できるでしょうか。

精神的な苦しみを抱えていたことは確かですが、それだけで彼の作品や人生を説明してしまうこともできません。それは、多くの画家たちと同じです。多くの表現者たちと同じです。

いまの世間は、社会的に評価された人こそが成功者だと言います。

ほんとうに、そうでしょうか。私たちは本当に作品の価値を十分に見抜けているのでしょうか。

売れたから価値がある、苦悩が名作を生むといった単純な物語だけでは、表現の世界を語り尽くすことはできません。

何が売れ、何が残るかには、残酷なまでに運という偶然の要素が絡んでいます。歴史の闇には、ゴッホに劣らない切実さを持ちながら、誰にも見出されず消えていった表現者は無数にいるはずです。

市場の論理(売れるかどうか)と、表現の経済(生きていくための切実さ)は、まったく別の次元のものです。ここでいう表現の経済とは、評価ではなく、自分が生きていくために表現を必要とする切実さのことです。

生涯をかけて「ガラクタ」のようなものを作り続け(もちろん、ガラクタのような評価しかしてもらえないものという意味です)、誰に顧みられずとも、手を動かすことをやめられない人たちがいます。

それは売るための商品作りではありません。自分という存在が世界に対して崩壊しないために、そうせずにはいられない、自分の内側から湧き上がる衝動のようなものです。

そして、わたしたちだって同じです。

誰かに認められるわけではない。
家族に認められないかもしれない。
自分が作っているものは、ガラクタのようだと思われているかもしれない。

それでも、やめることができない。
手を動かすことを、どうしても止められない。

結び

だからこそ、歩みを止めなくてもよいのだと思います。あなたのその苦しみを抱えている人は、この世界に無数にいます。これまでも、ずっと無数にいました。

この世界は、成功者たちだけの場所ではありません。

今日、自分が「ガラクタだ」と決めつけてしまったものは、本当にそうなのだろうか。

今日、自分が誰にも見せず続けているものを、一つだけ大切にしてみよう。

私たちが作品を見るとき、そして私たちが何かを表現するときに求められるのは、数字や評価ではなく、不確実で不条理な世界の中で、それでも自分の足で何かと対話し続けようとする人間の姿に対する、深い敬意です。

結局のところ、人の価値は、世間の評価だけでは測れません。

苦しみや孤独、絶望とどう向き合い、それでも歩み続けたのか。その姿勢は、とても私的で、他人には簡単に測れるものではありません。

世間の風がどう吹こうとも、あなた自身が歩んできたその足取りだけは、何にも代えがたい確かなものです。

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