都会では、自分が小さく見える
夜の都会を歩いていると、ときどき不思議な気持ちになる。
駅からは次々と人が吐き出されてくる。
信号が青になるたび、大勢の人が一斉に横断歩道を渡っていく。
飲みに行く人、家に帰る人、誰かと待ち合わせをしている人。
明るいビルの窓にも、まだたくさんの人がいる。
その中を歩きながら、ふと思った。
都会では、自分がずいぶん小さく見える。
もちろん、人の価値そのものに大小があるわけではない。
親から見れば、子どもは何人いようと一人ひとりが特別だろう。
何かができるから大切なのではなく、その子だから大切なのだと思う。
でも、社会の中で感じる「自分の存在の大きさ」は、住む場所によって少し変わるのではないだろうか。
たとえば、若者がほとんどいない小さな島に生まれたとする。
若いというだけで、自然と役割が回ってくるかもしれない。
地域の行事を手伝ったり、何かを任されたり、「これからの人」として期待されたりする。
人が少ないから、一人が抜けたときの穴も大きい。
「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がある。
小さな集団なら、ものすごく優秀な人間でなくても、自分が中心になる場面がある。
誰かがやらなければならない。
そして、その「誰か」が自分になる。
そこではきっと、
「自分がここにいる意味」
を感じる機会も多いのだと思う。
都会は、その反対だ。
とにかく人が多い。
同じくらいの年齢の人も、同じような仕事ができる人も、自分より優秀な人も、数え切れないほどいる。
大きな会社に入れば、その中でリーダーになることもある。
自分にしか分からない仕事だって、一時的にはできる。
それでも、自分が辞めれば後任が来る。
引き継ぎが行われ、数か月もすれば、自分が座っていた席で別の誰かが仕事をしている。
その人が辞めれば、また次の人が来る。
そうやって大きな組織は回っていく。
駅を歩いていても同じだ。
人、人、人。
自分と似たような服を着て、似たような鞄を持って、同じようにスマートフォンを見ながら歩いている。
SNSを開けば、さらに人がいる。
仕事のできる人。
若くして成功した人。
楽しそうに暮らしている人。
自分がそれなりに頑張っていることも、この人数の中に置いてみると急に小さく見えてくる。
そして、ときどき思う。
「私一人くらいいなくても、何も変わらないんだろうな」
でも、たぶん都会で小さくなるのは、人間そのものの価値ではない。
「自分でなければならない」という感覚なのだと思う。
その代わり、都会には自由がある。
小さな共同体で「あなたが必要だ」と言われるのは嬉しい。
けれど、必要とされるということは、簡単にはそこから降りられないということでもある。
都会では、会社にとって自分が唯一の人間ではない代わりに、会社もまた、自分にとって唯一の場所ではない。
仕事を変えることもできる。
住む場所も変えられる。
付き合う人だって、自分で選ぶことができる。
必要とされることと、自由であることは、案外反対側にあるのかもしれない。
それでも人は、ときどき「自分じゃなければ」と思える何かが欲しくなる。
不思議なものだ。
社会という単位で見れば、ほとんどの人はその他大勢なのに、少し単位を小さくすると景色が変わる。
「あの仕事なら、あの人に聞こう」
「あの人と一緒だと楽しい」
「あの人にこれを話したい」
「今日は、あの人に会いたい」
そんな小さな関係の中では、一人の人間が思っているより大きな場所を占めている。
都会で暮らしていると、つい何百万人という単位の中で自分を見てしまう。
そうすると、自分はどうしようもなく小さい。
でも、誰か一人の世界まで近づいてみれば、案外そうでもないのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていた。
相変わらず、駅からは大勢の人が出てくる。
私が立ち止まっていても、横を人がどんどん通り過ぎていく。
ビルには明かりがついていて、電車は数分おきにやってきて、街は私とは関係なく動き続けている。
たぶん明日、私がここにいなくても、この街は何一つ変わらない。
それでも、スマートフォンを開けば、誰かからメッセージが届いている。
大きな街の中では、私は名もない一人だ。
でも、誰かの小さな世界の中では、そうでもないのかもしれない。
そんなことを、都会の夜にふと思った。
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