古代の哲人は『恋愛病院』を見て何と言うか
哲人の問いの目的は、誰かの傷を直接癒すことではない。
誰かをこれ以上傷つける手を、少しだけ止めること。
そして、すでに傷ついた人が「自分だけがおかしいわけではない」と思える場所を作ること。
何も劇的には変わらない。
たぶん、世界は救われない。
群衆にならずに済んだからといって、番組の構造が変わるわけでもない。
SNSの炎上が消えるわけでもない。
誰かが ”傷つかなかったこと” になるわけでもない。
政治が清くなるわけでもない。
だから、そこに過大な希望を置くと嘘になる。
でも、一人が群衆にならずに済むというのは、かなり小さいが、かなり重要でもある。
群衆になった人間は、自分の責任を感じにくい。
「みんなが言っている」
「正義だから言っている」
「あいつが悪いから仕方ない」
「被害者のためだ」
「推しを守るためだ」
そうして、自分の言葉が刃になっていることを忘れる。
でも、群衆になりきらずに済んだ人間は、少なくとも一瞬こう問える。
これは本当に必要な言葉か。
自分は今、誰かを救っているのか。
それとも、誰かを燃やして気持ちよくなっているだけか。
この一瞬があるだけで、投稿を一つ減らせるかもしれない。
引用リポストを一つやめるかもしれない。
誰かを決めつける言葉を少し弱めるかもしれない。
「こいつが悪い」と言う前に、「構造もある」と考えるかもしれない。
世界は変わらない。
でも、誰か一人への石が一つ減る。
投げ込む薪が1本減る。
それだけです。
けれど、SNS時代には、その「一つ減る」が大きい。
炎上とは、一人ひとりの小さな石が山になる現象だから。
哲人の問いは、人類を救うためではない。
群衆の中の一人を、ほんの少し立ち止まらせるためにある。
それ以上ではない。
でも、それ以下でもない。
だからこう言えると思う。
群衆にならずに済んでも、世界は救われない。
ただ、誰かを燃やす火に、自分の薪をくべずに済む。
それは小さい。
だが、他者の感情を消費する時代においては、かなり切実な抵抗である。
ある哲人が、この番組を見た。
恋を語る番組だと聞いていた。
だが、彼が見たものは恋ではなかった。
涙であり、論理であり、怒りであり、弁明であり、裁きであり、群衆であった。
哲人はしばらく黙っていた。
そして、こう問うた。
「人々よ。そなたらは、何を見ているのか」
ある者は言った。
「女の涙です」
別の者は言った。
「男の冷酷さです」
また別の者は言った。
「番組の演出です」
また別の者は言った。
「信者とアンチの争いです」
哲人は首を振った。
「違う。そなたらは、自分の信じたいものを見ている」
哲人は続けた。
「涙がある。だが、涙は真理そのものではない。
言葉がある。だが、言葉もまた真理そのものではない。
涙は感情のしるしである。
言葉は思考のしるしである。
だが、人間はしるしを見て、すぐに裁きを始める。
泣いた者は正しいのか。
泣かせた者は悪いのか。
冷たく語る者は罪人なのか。
論理を持つ者は人の心を知らぬのか。
そなたらは、真理を求めているようで、実は早く誰かを裁きたいだけではないのか」
彼は、番組の外側も見た。
本編が終わっても、人々は語り続けた。
切り抜きが作られ、
反省会が開かれ、
SNSでは裁きが始まり、
信じる者と憎む者が、それぞれの物語を作った。
哲人は言った。
「なるほど。これは恋の病ではない。
これは、観る者の病である」
人は他者の心を知りたがる。
しかし、本当に知りたいのではない。
知ったことにして、語りたいのだ。
語ったことにして、裁きたいのだ。
裁いたことにして、自分が正しい側にいると安心したいのだ。
哲人は、さらに問うた。
「では、この炎で誰が救われたのか」
涙を流した者か。
冷たく見えた者か。
番組を作った者か。
視聴者か。
信じる者か。
憎む者か。
誰も答えなかった。
哲人は言った。
「ならば、この炎は救済ではない。
ただの消費である」
恋が消費される。
涙が消費される。
怒りが消費される。
正義が消費される。
人間が消費される。
そして、人々は言う。
「これは真実を知るためだ」
「これは被害者のためだ」
「これは正義のためだ」
哲人は静かに答えた。
「正義の名を借りた欲望ほど、見えにくいものはない」
そして最後に、哲人はこう言う。
「人は、他者の物語を見るとき、自分の魂をそこに映す。
恋を見て怒る者は、自分の中の傷を見ている。
論理を見て感心する者は、自分の中の秩序への欲望を見ている。
涙を見て裁く者は、自分の中の正義を見ている。
誰かを守ろうとする者は、自分の信仰を守っている。
ゆえに問え。
あの者は何者か、ではない。
それを見た自分は、なぜそう感じたのか。
そこから始めねば、そなたらは永遠に他人を裁き続ける」
「私は答えを持っているのではない。
ただ、そなたらが答えだと思っているものを疑っている。
私は裁きを止められるとは思っていない。
だが、裁く前に一度、自分の心を見よと言っている。
私は人間を救えるとは思っていない。
だが、人間が自分の欲望を正義と呼ぶ瞬間だけは、見逃してはならぬと思っている。」
恋愛を扱う番組だった。
だが、そこに映っていたのは、恋愛だけではなかった。
人が人をどう見るのか。
人が他者の感情をどう解釈するのか。
人が涙を見たとき、どのように物語を作るのか。
むしろ、そちらの方が大きかった。
誰かは、それを本気の感情だと言った。
誰かは、それを演出だと言った。
誰かは、石丸伸二氏の言葉を冷酷だと言った。
誰かは、あれは番組の虚構を見抜いた発言だと言った。
同じ場面を見ているはずなのに、結論が分かれる。
では、我々は本当に同じものを見ていたのだろうか。
人は、出来事そのものを見ているようで、実は自分の中にある物語を見ている。
石丸氏を信じる者は、石丸氏の合理を見た。
石丸氏を疑う者は、石丸氏の冷酷さを見た。
女性側に感情移入する者は、踏みにじられた心を見た。
番組の構造に目を向ける者は、感情を商品にする仕組みを見た。
おそらく、どれも完全には間違っていない。
そして、どれも完全には正しくない。
人間の感情は、一つの視点では捉えきれない。
それにもかかわらず、人は結論を急ぐ。
誰が悪いのか。
誰が被害者なのか。
誰が加害者なのか。
誰が嘘をついたのか。
誰が本気だったのか。
人は、曖昧なものに耐えられない。
だから、裁く。
ここで問うべきことがある。
あの涙は、本当に誰かを裁くための証拠だったのか。
涙は、感情の表れではある。
だが、涙だけで真実が決まるわけではない。
言葉も同じだ。
冷たく聞こえる言葉が、必ず悪意とは限らない。
正論に聞こえる言葉が、必ず正しさとは限らない。
感情的な反応が、必ず弱さとは限らない。
論理的な態度が、必ず成熟とは限らない。
人は、感情と論理を対立させたがる。
だが実際には、感情のない論理は人を傷つけ、
論理のない感情は人を巻き込む。
そういうものである、というだけだ。
問題は、どちらが正しいかではない。
人の感情を、どこまで他人が扱ってよいのか。
人の涙を、どこまで番組が使ってよいのか。
人の傷を、どこまで視聴者が裁いてよいのか。
そこではないか。
他人を傷つけていい証明書などはない。
恋愛番組は、恋愛を見せる。
しかし現代の恋愛番組は、恋愛だけでは終わらない。
本編がある。
反省会がある。
切り抜きがある。
SNSの反応がある。
支持者と批判者の対立がある。
さらに、それを論じる動画や記事が生まれる。
一つの出来事が、何度も語り直される。
そのたびに、意味が変わる。
ある場面は、恋愛になる。
別の場面では、加害になる。
さらに別の場面では、番組演出になる。
そしてSNSでは、陣営戦になる。
こうして、出来事は本人たちの手を離れていく。
もはや、それは出演者だけの物語ではない。
視聴者が参加し、SNSが増幅し、信者とアンチがそれぞれの正義を持ち寄る。
出来事は、公共の燃料になる。
ここでさらに、石丸伸二氏という文脈が加わる。
彼は、ただの出演者ではなかった。
すでに政治的な物語を背負っていた。
支持者もいた。
批判者もいた。
過去の政治的対立もあった。
信仰に近い支持もあれば、憎悪に近い反発もあった。
その人物が恋愛番組に出る。
すると、恋愛番組は恋愛番組で終わらない。
その文脈は最初からあったはずだ、構造は最初から危うかったはずだ。
それを分かった上で、観て、材料を提示し、探し出し、燃やす、燃えるとすれば。
そして、なぜ作るのか。
なぜ観ないという選択ができないのか。
誰かが傷つくかもしれないと、想像できたのではないのか。
その人々の目的は、なんだろうか。
視聴者は、彼の一言を単なる番組内の言葉として受け取らない。
「やはり冷たい」
「やはり本質を見ている」
「やはり人の心が分からない」
「やはり虚構を見抜いている」
すでに持っていた答えを、番組の中に見つける。
そしてまた争う。
ここに、現代の苦しさがある。
人は出来事を見る前に、
すでに信じたい結論を持っている。
では、この炎で誰が救われたのか。
泣いた人は救われたのか。
石丸氏は救われたのか。
番組は何かを明らかにしたのか。
視聴者は理解を深めたのか。
SNSは誰かを癒したのか。
分からない。
ただ一つ言えるのは、感情が燃料になったということだ。
恋。
涙。
怒り。
違和感。
正義感。
信仰。
憎しみ。
それらはすべて、再生数になる。
投稿になる。
論争になる。
動画になる。
記事になる。
金になる。
現代では、人の感情はただ感じられるだけでは終わらない。
見られ、切り抜かれ、語られ、拡散され、消費される。
だから問わなければならない。
恋愛番組は、人の感情を見せているのか。
それとも、人の感情を商品にしているのか。
そして、我々はそれを批判しながら、同じ商品を消費しているのではないか。
『恋愛病院』という名前は、皮肉に聞こえる。
治療されるべき病は、恋だったのか。
あるいは、他者の感情を見たいという我々の欲望だったのか。
誰かの涙を証拠にしたがる病。
誰かの言葉を罪状にしたがる病。
誰かを被害者にし、誰かを加害者にしたがる病。
自分の正義を確認するために、他人の傷を必要とする病。
それを換金する仕組みに身を委ねる病。
もし治療されるべきものがあるとすれば、そこではないか。
人は問う。
何が本当だったのか。
だが、私はこうも問いたい。
本当であることだけが、大事だったのか。
仮に涙が本物だったとして、我々はそれをどう扱うべきだったのか。
仮に発言が冷酷だったとして、我々はどこまで人を裁いてよいのか。
仮に番組が演出だったとして、出演者の傷は無かったことになるのか。
仮に視聴者の怒りが正しかったとして、その怒りは誰かを救ったのか。
真実を求めることは大事だ。
だが、真実を探すふりをして、人はしばしば誰かを焼く。
その火の中で、我々は何を見ているのか。
恋か。
政治か。
信仰か。
憎しみか。
金か。
それとも、人間そのものか。
