キュートアグレッション第10話『感染と崩壊』完結
午前8時32分。
テレビでは、朝の情報番組が放送されていた。
《……本日は、近年話題の“キュートアグレッション”について、専門家を招いて解説していきます》
スタジオには、精神科医の男と、女性アシスタント。
「ぬいぐるみ依存症」「愛玩欲求との境界」などのパネルが並ぶ。
「“可愛すぎて壊したくなる”という感情には、生物の防衛反応が関与していると考えられます」
精神科医は、落ち着いた口調で話す。
だが、その視線は徐々に定まらなくなり、手元の指がわずかに痙攣していた。
隣に座る女性アシスタントが、にこやかに相づちを打つ。
「先生、それって“赤ちゃんとかが可愛すぎて……”みたいな感情とも関係があるんですか?」
その言葉に、男はかすかに息を呑み——
次の瞬間、アシスタントの首に両手を伸ばした。
スッ、と自然すぎる手つきで。
まるで、そこに“壊していい人形”があるかのように。
「ねぇ……こんなに可愛いと、壊したくなっちゃいませんか……?」
彼女の悲鳴が漏れるより早く、スタッフが飛び込む。
画面が揺れ、テーブルが倒れ、警告音が響く。
《ピーーーーーーーーーーーーーーーーーー……》
《ただいま映像に不具合が生じました》
数秒後、急遽別番組のCM映像に切り替わる。
誰もが混乱したその朝。
だが、それはまだ“はじまり”にすぎなかった。
午前10時24分。
駅のロータリーで、ベビーカーがひとつ、笑いながら押し出された。
押したのは若い母親。
その顔には、化粧が崩れるほどの笑顔が貼りついていた。
「ねぇ、見て。うちの子、可愛いでしょ……?」
その声が、トラックのクラクションにかき消される。
ゴンッ。
数秒の静寂のあと、白いぬいぐるみがひとつ、転がった。
***
午後1時03分。
公園のベンチで、老夫婦が犬を撫でていた。
ポメラニアン。カットされた毛が桃のようにふわふわしている。
やがて、男性のほうが静かに立ち上がり、リードを強く、強く締めた。
「本当に……赤ちゃんみたいに可愛いなぁ」
犬は声もなく、首を傾けたまま動かなくなる。
隣にいた女性はただ静かに笑っていた。
***
午後2時42分。
小学校の教室。
女子児童が机に頬をつけながら、小さな鉛筆キャップを爪で潰していた。
ハムスターの形をしたピンク色のカバー。
ミチ……パチン……ぐにゃ……
そのたびに、少女の肩がわずかに震える。
「……壊れる音って、かわいいよね」
誰にともなく、そう呟いた。
***
午後4時00分。
透夏は、駅前の通りを歩いていた。
空気はいつも通りなのに、肌の内側だけがざわついていた。
——何かが、おかしい。
いつもの景色に、歪んだ音が混じっている。目が、耳が、拒絶しながら求めている。
次の瞬間だった。
制服姿の警察官が、白いワンピースの少女を、歩道に押し倒していた。
少女の声は、空気にかき消され、届かない。
そして——その頭を、アスファルトに叩きつけた。
一度。二度。三度。
ぱん、ぱん、ぱん。
赤い花びらのようなものが弾け、笑ったままの少女の瞳が揺らぐ。
「うそ……」
透夏の声が漏れた。
その瞬間、背骨の奥に“電流”が走った。
——“あれをやっているのは、私かもしれない”。
錯覚。なのに確信。
少女の柔らかな頭が、自分の指で割れていく幻覚が、鮮明すぎるほど浮かぶ。
ぶちっ、という音が、脳の内側で弾けた。
快感だった。あまりにも甘美で、熱くて、汚れていた。
腰が、震えた。
呼吸が止まる。
まるで達したように、膝がふるりと揺れる。
(壊すって……なんで……こんなに、気持ちいいの……?)
唇の端を、舌先でなぞっていた。
無意識だった。けれど、止められなかった。
目の奥が溶けるように熱い。
喉の奥が痺れる。
自分の心音と、叩きつけられる音が同期していく。
ぱん、ぱん、ぱん。
——あの音が、欲しい。
この手で、もう一度。
“私の可愛い”を、壊したい。
***
午後4時51分。
住宅街の角で、小学生の男の子がランドセルのぬいぐるみチャームを引きちぎっていた。
買ったばかりのキーホルダー。ウサギのキャラ。
ぐちゅっ……
潰れた目が、ぬるりと光を反射した。
「可愛いものってさ、死んでからのほうが印象に残るよね」
それを聞いた別の子が、自分のキーホルダーを引きちぎって潰しながら笑っていた。
***
午後8時07分。
男子学生は、自販機の明かりに照らされた路地で足を止めた。
目の前に、それはいた。
ふわふわの白い毛並み。
まるい目。垂れた小さな耳。
しっぽはふんわりカールして、ちょこんと座るその姿は、まさにぬいぐるみのようだった。
——マルチーズ。
そう思った瞬間、胸の奥がちくり、と疼いた。
誰かに捨てられたのか、それとも迷い込んだのか。
けれど、こんな場所にひとりでいるはずがない。
それは、ただ彼を見上げて——微笑んだ。
「ねぇ、わたし……可愛いでしょ?」
その声は、どこからともなく、皮膚の内側に染みてくるようだった。
彼は、そっとしゃがみこみ、両腕でその体を抱き上げた。
あたたかい。
軽い。
やさしい匂いがした。
でも——
その瞬間だった。
ふわふわの“皮”が、音もなく剥がれた。
抱きしめた腕の中で、マルチーズの毛並みがずるりと滑り落ち、白い皮がべろんと裏返る。
中から現れたのは、透明のゼリーのようなものだった。
つるんとした弾力。
ぬるりとした冷たさ。
粘膜のようにゆらゆらと脈打ち、生きていた。
腕に吸いつくようにまとわりつくその“中身”を、彼は——夢中で、もっと強く抱きしめた。
ぎゅうっ……!
透明な塊が、力に耐えきれず、ブヂブヂブヂッとひしゃげていく。
内部の膜が破れ、甘ったるい液体がぶしゅ、と噴き出した。
胸元から腹にかけて、ぬるぬるの液体が広がる。
色は淡い桃色。
匂いは、熟れた果実が腐ったような、甘くて、どこか懐かしいものだった。
ぴちゃ、ぷちゅ、ぐちゅ。
濃密な音が、腕の中で弾ける。
そして、それは——とろりと、形を失った。
でも、笑っていた。
「……ありがとう。ぎゅってしてくれて……」
声が、耳ではなく脳の奥に残っていた。
彼は、そのまま動かない。
腕の中でとろけた“可愛いもの”の残骸を、名残惜しげに撫で続けた。
***
━━━ 世界が、どんどん、感染していく
しゃがみ込んだ透夏の肩が、小さく震えていた。
背を丸めて、うつむいたまま、動かない。
静かな夜。
遠くの街灯が、かすれた輪郭で地面を照らす。
その光の端で、何かがじわじわと変わっていた。
「……ひくっ……ふ、……く、く……」
喉の奥で絡むような声。
荒い息が、時折かすれ、吐息の隙間から音がにじむ。
肩が、呼吸と一緒に上下する。
指先は、わずかに地面を掴んでいた。
——なにかに、耐えるように。
だけど、数秒後。
「ふ、ふふ……ふふふ……っ」
空気が、変わった。
それは確かに、笑いだった。
ゆっくりと、熱を帯びていく。
「あは……あはは……あはははははっ……!!」
声が跳ねた。
透夏の顔が、ゆっくりとこちらを向く。
瞳の奥で、なにかが——砕けていた。
その瞳は、光を映していなかった。
けれど、そこには確かに“何か”がいた。
どろりと濡れた膜のようなものが、
その目の中に浮かんでいた。
ぬめりとした、透明な“それ”。
まばたきもせず、ただ静かに、こちらを見ていた。
透夏の顔は笑っていた。
でもその笑みは、彼女自身のものではなかった。
それはまるで——
“可愛いもの”の皮を被った、何か別の生きもののようだった。
空っぽの夜に、ただその笑い声だけが響く。
ぬめりとした狂気が、世界の縁にまで滲んでいく。
その中心から、声が聞こえた。
『ねぇ……わたし、可愛いでしょ?』
……遠くで鳥の声がした。
鳥が、透夏の前をかすめて飛んだ。
驚いて顔を上げると、その先の木の枝で、親鳥がせわしなく動いているのが見えた。
(……雛?)
足元に、ぽつりと転がった小さな影。
産毛に覆われた雛が、かすかに身じろいだ。
透夏は、その場にしゃがみ込み、ゆっくりと手を伸ばす。
ふわふわの羽、かすかな体温。
(壊せる。いま、ここで——)
胸の奥にぞわりと広がる、甘い感覚。
指がわずかに力をこめる。
けれど、そのとき。
親鳥の鳴き声が、どこか遠くから響いた。
——ぴぃ
透夏は、はっとして手を緩めた。
そっと雛を抱きかかえ、枝の上の巣へと腕をのばす。
……その小さな身体を、そっと戻す。
風がそっと、透夏の髪を撫でていった。
親鳥がひときわ大きく羽ばたいて、空へと舞い上がる。
空を見上げていた透夏は、ふと自分の手に視線を落とした。
まだ、あたたかさが残っていた。
そして——
ふいに、頬を伝うものがあった。
ゆっくりと、目を伏せる。
まぶたの裏に、あの“ぬめり”がまだ残っている気がした。
けれど、それはもう、痛みを伴わなかった。
熱くて、やわらかくて、静かに流れていく。
一筋の涙が、透夏の頬をすべった。
そのしずくの中で、
目の奥に潜んでいた“それ”が、
——ゆらり、と揺れた。
まるで、
融けていくように。
小さな雫のなかで、
“それ”は、ゆっくりとその輪郭を失っていく。
やがて、
何も残らなかった。
透夏はそっと目を閉じる。
世界は、まだ静かだった。
でもその静けさの中に——ほんのわずかに、
あたたかなものが、戻ってきていた。
風がまた、髪を揺らす。
遠くで、鳥の声がした。
その声は、もう——
“壊したいほど可愛い”なんて思わない。
ただ、美しかった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
──夜が、ゆっくりと明けていく。
透夏は、自室のカーテンをそっと開けた。
朝焼けが窓の外をぼんやりと染めていた。
テーブルの上に、小さなケージがある。
その中で、一匹のハムスターが、ぴくりと鼻先を動かした。
透夏は椅子に腰かけて、ゆっくりと指を差し出す。
小さな毛玉が、ちょこんとその指先に乗ってくる。
体温は、まだしっかりとそこにあった。
「……おはよう」
透夏は、小さな声でそう囁いた。
ハムスターは、くるりと丸くなって、掌のなかで眠るように身を寄せる。
そのぬくもりは、“可愛い”という感情を、そっと塗りかえていくようだった。
壊さなくても、触れられる。
奪わなくても、愛せる。
ただ、ここにいてくれるだけで——
こんなにも、やさしい。
透夏は、目を細めて微笑んだ。
頬にはまだ涙の跡が残っていたけれど、それはもう、静かな光のように乾いていた。
朝が、きていた。
ー 完 ー

