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小春日和には、あなたと。《創作大賞恋愛小説》

《あらすじ》
53歳、バツイチの成瀬成美は、
もう恋なんて、自分には関係ないと思っていた。

けれどある日、
遠距離だから、ただやり取りをするだけのつもりだった一歳年下の男性と、
東京駅で会う約束をしてしまう。

若い頃のように、
勢いだけでは進めない。

相手の体調に必要以上に怯えてしまうこと。

会えない時間に、
この先の暮らしを想像してしまうこと。

そして、
好きになるほど、

「この人と付き合えるだろうか」ではなく、

「最後まで一緒にいられるだろうか」

を考えてしまうこと。

人生の後半で出会った二人は、
老いていくことも、
弱っていくことも、
ひとりで生きる寂しさも知っている。

だからこそ、
誰かに寄りかかるためではなく、

自分の人生を持ったまま、
もう一度、
誰かと生きる未来を選び直そうとする。

これは、
人生の秋に出会った二人の、
静かな恋の物語。


《本文》

もうどれくらい前だっただろうか。

駅の広告が、やけに目に残っている。


「試着室で思い出したら

      本気の恋だと思う」


今、まさに。

久しぶりに、その感覚を味わっている。



成瀬成美。

この名前になって、もう三十年。


バツイチの私にとっては、子供と同じ姓でいる方がなにかと都合がよかった。

それだけの理由だったけれど、

成瀬成美って、

なんとなく【成せばなる】みたいで、意外と好きだった。


アパレルの仕事柄、

きちんと化粧して、

流行の格好をして、

それなりに 【ちゃんとした人】をやっているけれど、


休みの日は、ノーメイクにゴムのパンツで、

BSの再放送サスペンスを一日中観ている。


浅見光彦は、いったい何人いるのか・・・

たまに本気で考える。


明日でレベル53。

そう言わないと、53歳という数字が少しだけ重たくなってきている。


離婚を決意したのは、48歳のとき子宮全摘手術をしたのがきっかけだったのかもしれない。


あの時、病気が見つかり、検査もひとり、全摘すると先生に告げられた時もひとりきりだった。

待合室は夫婦できている人たちばかりで、普通ってそういうものなの?と多少の疑問もあったけれど、私にとっては当たり前のことだったので、大して気にもとめなかった。

けれど、友人に手術の話をしたとき、それが普通のことだと、長年やり過ごしてきてしまったことが間違いだったのではないかと、自分の中の小さなささくれを剥がした時の痛みに似た感覚で、私は本当は辛かったのかもしれないと自覚してしまった。


結婚生活は、私にとって子供を授かったこと以外、あまり幸せを実感できるものではなかった。


そして50歳の時に、夫と離婚した。


今は、社会人三年目の娘、小春と二人暮らしで、

息子はとっくに一人暮らしをしている。


子供が成人するまでとはと思って、長いこといろんなことに蓋をして見ないふりをしてきた。


女にだらしのない人。

そういうことが何度もあった。


だから、恋愛なんてこりごりだと思っていた。

今さら、誰かを好きになるなんて、自分でも考えてもいなかった。


たぶん、これからも一人で生きていける。



それでも、一生ひとりは寂しい。

最近は、小春も彼の家が職場に近いこともあって、彼の家と行ったり来たりの生活だ。
そろそろ、私のもとからの巣立ちも、さほど遠い未来ではなさそうだ。


だから、おじいさんとおばあさんになって、たまにお茶を飲むくらいの人がいたらいい。


本当にそれくらいのつもりだった。

誰かと会うなんて、もうしないつもりだった。


それなのに、どうしてだろう。

あの人の事を考えてしまうのは。


__________________



最初は、SNSのコメントだけだった。


顔は出していないのに、

絵と、やけに男前なキャプションで、女性ファンが多い人。


私は逆に、顔出しで毎日のコーデを記録用に投稿していた。

それでも、そこそこのフォロワーはついていた。

そこに、素敵なワンピースですね、なんてコメントを残してくれていた。

ある日、その人がカラスの絵をアップしていた。

黒一色なのに、なぜか光がみえるような、そんな絵。


なんとなく、そのまま通りすぎるのが惜しくてコメントを残してみる。


【カラスって、とても綺麗な鳥ですよね。変わってるって言われるんですけど、私は好きなんです】


しばらくして返信がきた。


【分かってくれる人がここにいたんですね】



それが最初だった。


そこから、コメントのやりとりが始まった。




ある日、DMを送った。


【しばらくお休みしますね。元気になったら、また再開します】



【元気だしてくださいね。クリスマスに似顔絵をプレゼントさせてください。でも無理に見なくてもいいですよ。】


それだけの返事だったけれど、それがやけにちょうどよかった。


本当にクリスマスの日、似顔絵が届いた。

以前コメントに書いたことがあった、

私の好きな花、アナベルとクリスマスローズに囲まれた私・・・



・・・・・この人なら大丈夫。

そんな気がした。


しばらくして、LINEでのやりとりが始まった。


【仕事から帰ってきたと。熊本は雨、東京は?】


【おかえりなさい。私は今、帰りの電車。こっちは、ふってないよー。明日は雨予報かな】


【成美さんは今日は遅番?】


【そう、ケンイチさん、まだご飯食べてないでしょ?】


【ぼくは、カップ麺】


【えー、カップ麺だけ?ちゃんとタンパク質も摂らないと】


【タンパク質ってなに?】


【そこから?笑】


【ポテチって軽いでしょ~。だったら太らんでしょ?】


【そんなわけあるかーい!後ろにカロリー書いてあるでしょ、見てみてごらんよ】


【どんだけ食べていいのかわからんもん、今度教えて】


【ほんと、ちゃんとしたもの食べないと】


【一応、前は気をつけてたと】


【前は?】


【バツイチやし、息子がひとり】


【え、息子さんいるの?】


【そう、大学生。成美さんとこは息子さんと娘さんやったね】


【一人暮らしなの?】


【うん】


すこしだけ、間があく。


【寂しくない?】

【いや】

【元気にしてるなら、それでいいと】


【ケンイチさんて何歳だっけ?】


【今年で52歳】


【じゃあ、一つ下か~】



最初は、こんな会話だった。

遠くにいるからこそ、気軽に話せるところもあったのだと思う。



ケンイチさんは、よく眠るのが怖いと言っていた。

電気もテレビもつけたままじゃないと、眠れないらしい。

理由は聞かなかった。

なんとなく、聞かないほうがいい気がして。


私は、電車が苦手だった。

息子が四歳の時、小児喘息になった。

夜中、息が苦しそうになるたび、何度も背中をさする。

ちゃんと眠れない日が続いた。

【大丈夫かな】

【また発作がでたらどうしよう】

そんなことばかり考えていた。

その頃からだったと思う。

ある日、突然、自分の方が息が出来なくなった。

電車に乗ると、胸がざわざわする。

逃げられない感じがして、息が浅くなる。

あとから、それがパニック障害だと分かった。


長いトンネル。
満員電車。
逃げられない場所。

そういうところが、少しずつ怖くなった。


でも、本当に怖かったのは、そんな特別な場所だけじゃない。


家で髪を洗っている時でさえ、急に怖くなる。

泡だらけのまま、

【今ここで発作がきたらどうしよう】と思った瞬間、お風呂場でさえ、逃げられない場所になる。

それでも子供達は育っていく。


小春が高校生になった頃、ある日突然

「電車に乗ると息苦しい」

と言い出した。

私はすぐに分かった。

たぶん、私と同じだ。

でも、大袈裟にはしたくなかった。

「大丈夫、大丈夫」

そう言いながら、私は笑ってみせた。

「思春期と更年期って、一緒みたいなものだから」

「ママの更年期と一緒よー」

本当は、全然笑い事じゃないくらい心配だった。


当時の私は、撮影スタジオで仕事をしていた。

土日休みで、子供たちと一緒にいられる時間を増やしたくて、アパレルの仕事から転職したばかりだった。

でも、撮影が始まると、自分のタイミングでは帰れない。

小春は大丈夫かな。

今日は電車に乗れたかな。

そんなことばかり、ずっと考えていた。

仕事が終わると急いで帰った。

夕飯を作って、食べさせて、そのあと小春と一緒に夜道を歩く。

歩きながら、学校の話を聞いた。

「今日はどうだった?」

「んー、ちょっとだけ平気だった。」

そんな小さな言葉に、毎日一喜一憂していた。

土曜日には、昔、私自身もお世話になった整体の先生のところへ連れて行く。

「二ヶ月で治るよ」

先生はあっさり言うけれど。

私はその言葉を信じた。

白砂糖を控えて、毎朝二人でストレッチをして、夜はアロマオイルでハンドマッサージをした。

出来ることは、全部やろうと思った。


だから、小春が少しずつ電車に乗れるようになった時、本当に嬉しかった。


でも、その頃、夫の姿はそこにはほとんどなかった。

小春のことも、私のパニックのことも、どこか他人事みたいに。


あとから、知ったのは、その頃、夫は別の女性と一緒にいた。

不思議と責める気にはなれなかった。

ずっと前から、何かを期待することをやめていたんだと思う。


そんな話もケンイチさんには話せた。

でも彼は、元夫のことを悪く言わなかった。

というより、そこに触れようとしなかったのだ。

その感じが、とても楽だったのかもしれない。


お互いに、なんとなく何か重たいものを背負って生きてきた、同志のような直感。

そんなことも、近くにいたらきっと話していなかっただろう。

遠くにいたからこそ、話せたのかもしれない。


【今日はご実家に行くっていってたね。何時に行くと?】

とケンイチさんはさりげなく聞いてくれる。


電車に乗ると、どうでもいいようなLINEが届く。


【今、お昼休みで、カツ丼にしたと】とか、

【今日はお天気ね】とか。


それだけなのに、時間はあっという間にすぎて、苦手な長い電車の時間もなんとか耐えられる。

安定剤を飲んでいれば、胸がざわざわと嫌な予感がしても、ケンイチさんに連絡できるという安心感があった。


私は昔から、あまり人に執着しない。

友達とも、定期的みたいに連絡を取る方ではなかったし、

【会えないと無理】という感覚もよく分からなかった。


一人でいる時間が好きだ。


夫の浮気が分かった時も、大声で責めたりはしなかった。

何度目かになる頃には、怒ることさえ面倒になっていた。


自分でも、少し冷たい人間なのかもしれないと思う。

でも今なら、あれは強さではなく、諦めだったのかもしれないと思う。


あの時までは



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



あの日、東京駅はやけに人が多かった。


改札の前に立ちながら、何度もスマホをみてしまう。


何を着ていけばいいんだろう。

朝からずっと迷っている。


一度は、無難なワンピースに手を伸ばした。

やわらかくて、女らしくて、きっと誰が見ても感じのいい服。

でも、鏡の前に立った時、なんだか違う気がした。


(これ、今の私じゃない)


そう思って脱ぐ。


セールも終わり、店頭からは半袖が姿を消していた。

クローゼットから出したのは、青いチェックのプリーツタイトスカートと、お気に入りのビンテージのライダース。


この季節になると、決まって手が伸びる組み合わせだった。



去年、父が亡くなった。


まだ、その傷が癒えるには時間が必要で、母もがんの治療中だった。


大丈夫そうに振る舞っていても、心のどこかがずっとザラザラしている。

それでも、仕事はしなければならない。

平気な顔をして、いつも通り働いて、いつも通り良い娘をやっていた。

でも、本当は、少し前からずっと気持ちが落ちていたのだと思う。

そんな時、ケンイチさんが何気ないふうに、でも何度も母の事を聞いた。


【今日はどうだった?】

【お母さんは大丈夫?】

【成美さんは、ちゃんと寝れてると?】


本当に私を心配して聞いてくれているのが分かったし、

母を気にしてくれているのがありがたかった。


だから、余計に困る。

こんなふうに、ちゃんと気にかけられることに、あまり慣れていなかったから。


しかも、これから会う相手は、顔もちゃんと知らない人だ。

遠くに住んでいるからこそ、少し安心してやり取りしていたところもあった。


たまに冗談で
【いつか、会うことになっても殺さないでね】
なんて、物騒なニュースを観ながら言ったこともあった。


それに、会わないなら、心がちょっと動いても、大丈夫

そう思っていた。


でも、誕生日が近い頃、
【会いにいこうかな...】
とケンイチさんがいった。


その短い一文を見た時、嬉しいより先に、少しだけ怖くなる。


大丈夫なんだろうか、と思う。

何が、ではなく、全部。


この、適度な距離感が、今の私たちにはちょうど良い気がする。

でも、怖いのに、断りたくなかった。

だから、結局【自分の好きな服】を選んだ。


鏡の前でライダースの襟を軽く直す。


もうとっくに始まっていたのかもしれない。


会ってしまったら、戻れない気がした。

何が変わるのかも分からないのに、何かが変わってしまう気がする。


今はそんな気持ちだった。


改札の中を、なんとなく目で追っていた時、ひとりの男性が、人の流れの中で少しだけ立ち止まった。

そして、こちらを振り返る。

(あ)

一瞬で分かったのに、同時にちょっと怖くなる。


写真を見たことがあるわけでもないのに、なぜかこの人だと思った。

背丈は思っていたより高くない。

でも、変に気取ったところがなくて、緊張しているのか、すぐうつむいてしまった。

向こうも、私に気がついたらしく、照れくさそうに頭をさげた。


インスタでは、男前なコメントもしいているのに、実際は恥ずかしがりなのかな、と思った。


「......はじめまして」

思っていたより、小さい声。


「はじめまして!.....でいいのかな?」
笑顔で返す。


それだけなのに、画面の中にいた人が、急に体温を持つ。

ちゃんと、ここにいる。

そう思った瞬間、胸の奥にあった変なこわばりがほどけた。


「遠いのに、来てくれてありがとう」

そう言うと、ケンイチさんは
「うん」
と、小さくうなずいた。


それから少し間をおいて、

「誕生日が近いけん」
と言う。

「それに...元気なさそうだったから」
と、ぼそっとつぶやいた。

でも、その言葉の中に、わざわざ来た理由がちゃんと入っていた。

励まそうとしたわけでもなく、気の利いたことを言うわけでもなく、

ただ、来てくれた。


その不器用さが、かえって本当に見える。

私は、少し笑ってしまう。


「そんな理由でこんなに遠くまで来る人、います?」


「おるでしょ」


「いやいや、あんまりいませんよ」


「ぼくは来たよ」


その言葉が、あまりにも普通で、

ああ、この人は、自分が特別なことをしているつもりはないんだな、と思う。

だから、余計に、ずるい。


心がほどけていく。


「お腹すいてます?」


気持ちをごまかすみたいに聞くと


「うん、少し」


「じゃあ、前に言ってたお団子屋さん、行きましょうか」


「あ、いいですね。」
恥ずかしそうに目をそらして答える。


並んで歩き出す。

なぜか、お互いに敬語になっているのがおかしい。


東京駅のざわざわが、少し遠のいていく。

横にいる人の歩幅を、なんとなく気にする。

さっきまで、怖かったのに、今はもう、少し落ち着いていた。


試着室で思いだしたら、本気の恋。

若い頃の私は、その人に好かれそうな服を選ぶことだと思っていた。

でも、今は自分らしく会いたいと思う。

私はライダースの袖を少しだけまくって、歩幅を合わせた。


「ケンイチさん、これからいくお団子屋さん、羽二重団子っていう、この辺では結構有名なんですよ」


「あっ、いいですね...」


(声、小さいな)


お店に入ると、カウンターの席に案内された。

ほっとした。

アパレルの仕事をしていると、人見知りなんて信じてもらえないことも多いが、実は面と向かって話すのが苦手だ。

仕事の時は、鏡ごしに話すので、実際に正面に座って話すのはどうも緊張してしまう。


あんこと磯部、二種類の団子にお茶が運ばれてくる。


「実は、お土産では食べたことあるんですけど、お店で食べるの初めてなんです」


「・・・」


さっきからお茶ばかり飲んでいる。


「さすがに、お店で食べるとおいしいですね」


「あっ、おいしいです」


(ほんとに?絶対、味なんてわからないくらい緊張してそうだけど)


いつもLINEでしているような、他愛もない話をしているのだけれど、
LINEならポンポンと返ってくる返事も、今日はなかなか返ってこない。

ケンイチさんの緊張が私にまで伝染してくるようだった。


ケンイチさんは、テーブルあたりに目を向けている。

それでも、不思議と気まずくはなかった。


この沈黙、嫌じゃない。



隣に座ったケンイチさんは、思っていたより、ずっと普通だった。

背丈は、私が踵の高いブーツを履いているとほとんど変わらない。

短く整えられた髪に、少しだけ白いものが混じっている。

でも、それが不思議と清潔に見えた。


しばらく黙っていたケンイチさんが


「成美さんの手...」


少しだけ、間があいて


「綺麗ですね」


「そうですか?ずっと家事してきたから、ザラザラですよ」

「あー、でも、さすがに仕事柄、クリーム塗ったりネイルはしてるからかな」


「今まで、たくさん頑張ってきた手ですね」


視線を落として言う。


「ぼく、洗濯も洗い物も大好きなんで」


それから、少し間を置いて。


「成美さんの手...」

「守りたいです」


「そんなにヤワな手じゃないですよ~。私の手」

「洗濯も洗い物も、私も好きだからやりますよ」


「ダメダメー」


(そこだけ、なんで声が大きいのよ笑)


その言い方が、なんだかくすぐったい。


「話してたら、あっという間に時間がすぎちゃいましたね」


「......」


「ん?元気ないですか?」


「次、いつ会えるのかと思ったら...」


「きっと、また会えますよ」

「だから、笑って東京駅で、またねってしましょう」


「.....うん」


その返事が、小さく聞こえた。

さっきまで知らなかった人なのに、もう少し一緒にいたいと思っている自分に、少し驚いた。


東京駅までの道のりは、二人ともほとんど話さなくなっていた。

お団子屋さんでは、他愛もない話をしていたのに。


実際に隣に歩くと、言葉が急に少なくなる。

人の流れに並んで歩きながら、たまに肩が触れそうになる。

でも、どちらかともなく少しだけ距離を戻してしまう。


これきり、もう会うこともないのだろうか。

そんなことを、二人とも考えていたのかもしれない。


改札が近づくたび、胸の奥が静かにざわつく。

「じゃあ、また」


私は、笑って見送ろうとした。

でも、ケンイチさんの顔からは、もう笑顔が消えていた。

改札を通ってからも、何度も振り返る。


そのたびに、まだ私が立っているから、少し困ったみたいな顔をする。

私は、彼の姿が見えなくなるまで、改札に背を向けることができなかった。


人混みの中に、ゆっくりと消えていく背中を見ながら、

ああ、もう少し一緒にいたかったんだな、と

その時、初めて気づいた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



新幹線に乗ったとLINEが来た。

さっきまで隣にいたのに、急に遠くなった気がする。


【提案していい?】


【ん?】


【呼び名...決めません?】


【え?】


【ケンイチさんて、なんか距離あるかなーって】

なんとなく、さっきまで隣にいた彼の気配が消えた寂しさを、誤魔化すかのように言ってみる。


【ぼくも思ってた】

【本当は、男のぼくから言わないといけないのに、ごめんなさい】


【なんで謝るのよー笑】


そういうところが、ケンイチさんの誠実さなんだと思う。


【うーん..........ナルちゃん】


(そうきたか!ではこちらも)


【いち!】


【......いち?】


【ケンイチだから、いち!誰にも呼ばれたことない呼び方したかったんだもん】


【いいね、それ】

そんな会話をしているうちに、いつもの私たちの温度を取り戻していた。




ここからは、毎日LINEした。

寝る前に、お互いにその日のことを報告するのが日課のようになっていた。


そんなある日、


【ご飯が食べられないと】


【大丈夫?具合でも悪い?】


【いや、なんか寂しくて、食欲なくて】


【それって.....】


【.....ん?】


【恋煩いってやつ?】


【なに?それ】


【えっ、恋煩いって知らないの?さすが理系男子!ググってごらんよ】


【あっ、ほんとだ】

【ぼく、今それなのかも知れん】

【初めてだから、わからんかったと】


思わず、笑ってしまった。


【いち、初めてなんだ】


すこしだけ、からかうように言うと


【そうみたい】


かわいいなって思ってしまった。


心の距離は少しずつ近づいた。

でも、言葉の距離だけは、まだどこか測りかねているような気もしていた。



【ただいまー】


【いち、おかえり~】

【今、帰ってきたの?】


【いや、少し前に帰ってきたけども】


(ん?)


【今日さー、すごく忙しくて、お昼休憩が四時になっちゃったよー】


【大変ね】


【いちも、忙しかったの?】


【そだな、いつものことだ】


【いち、元気ないの?】


【別に、普通だ】


(なんか違和感あるんだよな)


【分かった、じゃあまた明日ね おやすみ】


【はい、おやすみ】


(あーーーー!モヤモヤして眠れない)


【いち、起きてる?】


【起きてるよ】

【どうしたと?】


【さっきのLINE】

【なんか、冷たく感じた】


【ぼく?】


【そう、ぼく】


【そんなつもりはなかったけど】

【最後、なるちゃん怒っとったみたいだったから】

【怒っとる時に何してもダメやろ?明日まで怒ってたら、謝ろうと思ってた】


【それなのに、おやすみって言われたら】

【私、シャッター閉めちゃうよ】


【シャッター閉める時は、その前に言ってな】


【閉めたら、終わりだよ?】


【そんなんで終わるん?ぼくたち】


..........




【ねえ】

【文章だとさ、違う風に聞こえる時あるよね】


【ぼくは普通に言ったつもりでも?】


【私が東京のイントネーションに脳内変換しちゃうからかな】

【ちょっと機嫌悪いのかなって感じちゃう】

【だから、変だなって思ったら、その時に言うね】

【ちゃんと、その時、その時で、二人で話し合わないと】

【ダメになっちゃうよ】


【そうだね】

【でも、ぼくは】

【そんなことで終わるとは思ってないから】


【私だってそうだけど】

【あれ?】

【.....なんで怒ったんだっけ?笑】


【結局、それだけのことやろ笑】

【だから、たまに顔見たいし】

【声聞きたくなると】


【お互いに、寂しいってことだね】



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



そんなやり取りが三ヶ月ほど続いた頃。

彼から、転職して横浜に来ることになったと聞いた。


【え、ほんとに?】


【前から転職活動してたんやけど、横浜にしようかなって】


彼は、もともと半導体のエンジニアだった。

二十代の頃から、仕事の出来る人だったらしい。


半導体関係の仕事は、経験があると日本中から声がかかる。


広島。北海道。静岡。

いくつか来ていた話の中に、横浜もあった。

私と出会った頃の彼は、工場側の管理をする立場になっていて、何か問題が起きれば夜中でも呼び出されるような生活をしていた。

【働いている人がおるけん】

それが、当たり前みたいな人だった。


だから、横浜を選んだ理由が、私だけじゃないことくらいちゃんと分かっていた。

でも。

たまたま、その選択肢の中に、私のいる街があった。


話だけなら、もっと条件のいい場所もあったのだと思う。


「なんで横浜にしたの?」


横浜に来たあとに、そう聞いたことがある。

彼は、少しだけ考えてから

「ナルちゃんがおるけん」

そう当たり前みたいに言った。

その言い方が、あまりにも自然で返事に困った。


私は誰かに、人生の行き先まで含めて選ばれたことが、たぶんなかった。


昔、夫に

「なんで私と結婚したの?」

と聞いたことがある。

その時、返ってきたのは

「結婚したい時に、たまたま付き合ってたのが君だった」

そんな言葉だった。


だから、嬉しいより先に、少し怖くなった。


この人は、冗談じゃなく、私のいる未来を選ぼうとしいている。


おじいさんとおばあさんになって、たまにお茶を飲むくらいでよかったのに。


遠くにいるから、大丈夫だった。

会えない時間があるから、安心して好きでいられた。


でも、会える距離になる。

それは嬉しいはずなのに、少しだけ怖かった。


【じゃあ、今度からすぐ会えるね】


そう送った自分の言葉が、少しだけ軽く感じた。



それから、本当にすぐに会えるようになった。

小春には、なんとなく会っている人がいることだけは話してあった。


「ママがデートとかするの、嫌じゃない?」

ある日、そう聞くと

「別にいいんじゃな~い」
小春はあっさり言った。

「写真、ちょっと見せてもらったけど、なんかママと雰囲気似てるなって思ったし」


「そう?」


「うん。それに最近ママ楽しそうだもん」


そう言ってから、少しだけ笑って


「よく笑ってるし」

それから、まるで大したことじゃないみたいに

「いっちー、いい人そうじゃん」
と言った。

いつの間にか、いちは小春の中で【いっちー】になっていた。

その呼び方が、少しだけ可笑しくて、でも嬉しかった。


ある日、家の近くまで送ってもらった日。

帰ってきた小春が、玄関をあけるなり言った。

「ねえ、ママ、さっきいっちーに送ってきてもらった?」


「えっ」


「踏切ですれ違った気がするんだけど」


思わず、その場でLINEを開いた。

【さっき、踏切で娘が、いちとすれ違ったかもしれないって言ってるよ!】


【やっぱり!ぼくも、多分娘さんかなって思った】


その文字を見て、胸の奥がくすぐったくなる。


彼は、前から小春のことを何かと気にかけてくれていた。


【最近忙しそうね~お疲れではないのか?】
【娘さん、甘いものは好きと?】

そんな風に、会ったこともないのに自然と気にかけてくれた。


「ぼく、娘がおらんけんさ」前に、そう言ったことがある。

「ぼくは男の子しか育ててないけん、可愛いものとか買ってあげたかったと」

そう言って、ガチャガチャで出したシナモロールのキーホルダーを、娘さんにって渡してきたこともあった。


もう社会人なのに、と思いながら

小春は案外、さすがいっちーなんて喜んだ。


それなのに、彼はいつも家の近くまでしか来なかった。

なんで家に寄って行かないのかと聞いたことがある。

少しだけ間があって

「....娘さんがさ」
と言って、そこで一度言葉を止めた。

「ほんとは、ぼくみたいなのがナルちゃんと一緒におるの、見たら嫌かもしれんやろ」

冗談みたいに言ったけれど、その声はいつもより低く本気だった。

私は、ちょっと困った顔で

「そんなこと、ないと思うよ」
と言った。


でも、言い切るには、まだ少しだけ早い気もしていた。


大人になると、好きだけでは進めないことがある。

嬉しいのに慎重になる。

会いたいのに、少しずつしか近づけない。



たぶん、若い頃の恋より臆病になっている。

夫との結婚を後悔はしていない。
だって全て自分で決めたことだから。

結婚したことも、何度浮気されても別れる決断をすぐにしなかったことも。

全ては自分で決めてきた。

ただ、また、何かがあっても執着しない自分が顔をだして、何もなかったかのようになってしまうのが怖くなる。

小春のことを考えると、足踏みしてしまう。

守るものがある人同士の恋は、思ったよりゆっくり進む。



彼は土日が休みだったし、私はシフト制だから、なかなか休みがかぶることは多くない。

会えるのは、月に一度くらいだった。


それでも、顔を見て話せるだけで、LINEとはやっぱり違う。



彼は、白やネイビーを着ている事が多い。

洗濯が好きだから、シャツもTシャツも、洗いざらしの無造作な感じ。

パリッと糊が効いているわけではないけれど、それが逆に清潔感を感じさせる。


そして、たまに着るバーガンディのカーディガン姿は、私にとってはラッキーデイだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



蔵前で待ち合わせをした日。


駅を出ると、人もまばらで落ち着いた街にほっとする。


「蔵前っていいところだな」


「うん、落ち着くね」


朝、出かける前に、成美は赤いカシミアのセーターにゆっくりとブラシをかけていた。

今は、電動の毛玉取りもあるけれど、あれを使うと、だんだんと生地が痩せる気がして好きではない。


五年近く着ているセーターは、手洗いするたびに、どんどん柔らかく育っていく。


ネイビーのメンズコートを羽織り、冬はエコファーの蓋に衣替えする籠バックを持って家を出る。

職人が編んだ籐の籠は、壊れたら直してくれる。

そういうところが、なんだか好きだった。


ゆっくり歩いていると、ふとオシャレな古本屋が目に入った。


「入ってみる?」


「いいね」


店内が暖かかったので、コートの前を開けると


「綺麗な赤だね」

と彼は言う。

大袈裟ではない、そういう言葉がやけに照れくさい。



棚には、世界の古い本が並んでいる。

イギリスのビンテージの絵本や、フランスのアンティークの花の図鑑。

装丁が綺麗で、思わず手に取る。


「いち、こういうの好きそうだね」


「うん、毎日本読むし、紙の匂いが好き。ナルちゃんは?」


「私は、古いものが好きだから。ロマンだよね~」

「でも...本屋さんに入ると子供の頃から、トイレに行きたくなるの。」


恥ずかしそうに私が言うと、二人で思わず笑ってしまう。


「部屋に、こんなのあったらいいね」


それぞれ、気に入った一冊を手に取る。


「それにするの?」


「うん」


「じゃあ、私もこれにしよう」


並んでレジに向かうだけなのに、なぜかそれが嬉しかった。



その頃には、月に一度会える時には、今度はどこに行こかと決めることが楽しかった。

こんな気持ちは久しぶりだ。


今度の休日は、お花見にでも行こうかと決めていた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



上野に行く日は、デニムに春らしい黄色のニットを選んだ。


桜を見るのだから、少しくらい春を着てもいいだろうと思った。

不忍池のベンチに座ることを考えると、やっぱりデニムが気楽だった。

首元にはスカーフを垂らす。

花冷えの季節にはちょうどいい。

結ぶ代わりに、ピンキーリングに通して留める。


スカーフリングを忘れた日の苦肉の策だったけれど、
思いのほか使い勝手が良くて、
今ではすっかり定番になった。


帽子もかぶった。

中折れのストローハット。
帽子はいくつか持っている。

ただ、この年代になると少しめんどくさい。

お店に入れば脱ぎたくなるし、脱げば髪が気になる。

若い子たちは帽子をかぶったまま食事をしているけれど、

私にはそれがやっぱり落ち着かない。


でも、今日はお花見だ。

こういう日のために持っているような気もする。


上野は人が多かった。

桜の時期はさすがに混んでいる。


「これ、いち迷子になるね」


「ならんよ」


人の流れに押されるようにして、少しだけ距離が近くなる。


「手、繋ぐ?」


「ぼく、手汗かくから...あんまり昔から繋がない」


「そうなの?気にしなーい。私、超乾燥肌だから、ちょうどいいかもー」


そんなことを言われたことがなかったようで、
驚いた顔をしながら右手をそっと出す。

私は彼の左側を歩いていたから、
なんで右手?と不思議そうな顔をしていると


「ナルちゃん、最近右肩痛そうよね」

そう言いながら、私を右にそっと寄せた。


「知ってたの?」


「うん、ぼくも前に痛くて上げにくい時あったけん」

そう言って手を取った。
思ったよりあたたかい。


「最近、ほんと右肩が上がらないのよ」

そう言うと、

彼は笑いながら

「五十肩やね」


「いやだー、まだ認めてない」


「認めんでも、肩はりっぱな五十代やからね」


悔しいので、思いついた言葉を繋げる。


「恋よりも  先に痛める関節痛  
   ときめく前に  まず湿布貼る」

そう言うと


「残念~、字余りやねー」
とだけ返ってきた。


最近、私たちの間では短歌ごっこのようなものが流行っている。

たいした意味もない。

その日の出来事をLINEで話していると、浮かんだ言葉を短歌にして遊んでいる。


彼が、返歌を考えていると、目の前に並ぶ屋台から、たこ焼きのいい匂いがした。


「食べる?」


「いいね」


「ぼくはネギトッピングで」


「私は-、どうしよっかな」


「奥さんはどうします?」


一瞬、顔を見合わせる。


「......」

「......」


結局、同じものを注文した。


たこ焼きを受け取って、少し離れた場所に座る。


「夫婦に見えたってことだよね」


「そうやね」


「.....否定しなかったね」


お互いに目を合わせて笑う。

たこ焼きをひとつ口に入れる。

猫舌の彼は、ハフハフと涙目になりながら、お茶で熱いたこ焼きを飲み込む。
その姿がなんだか子供のようで笑ってしまう。


「なに笑ってるとー!ナルちゃん」


その呼び方がくすぐったい。

ちゃん、のところが上がる。
九州弁は私には甘い香りがする。


たこ焼きを食べ終えて、人の少ない方へ歩く。

桜並木から外れた場所に、一本だけ静かに咲いている桜があった。

ふと、見上げる。


花びらを取ろうとして、手を伸ばしかけてやめる。


「いたっ....」

小さくつぶやく。

そのまま桜を見上げて浮かんだ言葉を、スマホにメモする。


【空仰ぐ  きみの頬までサクラ色  
    遠い目をして  なにを想うの】


「どうした?」


横から覗き込まれて、慌ててスマホを引く。


「いつものやろー、見せて」


「やだ」


そう言いながら、結局見せてしまう。

彼は少し考えてから、スマホを出して何か打っている。

「送ったよー」そう言われてLINEが届く。


【サクラ舞う  花びらひとつとりたくて        
      散るまで待つの  五十肩】


「ちょっと-!」

思わず笑ってしまう。

肩をさすっている私を見て浮かんだ言葉なら、それはたぶん

やさしい・・・。


LINEで見ていた言葉と同じはずなのに、全然違う。

あの時、ぶっきらぼうに感じた言葉も、こうやって聞くと、ちゃんとやさしい。

私の身体の異変にもちゃんと気がついてくれていたことが、とても嬉しかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーー




蔵前は気がつけば、二人にとって特別な場所になっていた。

行くと決まって、開店前から並ぶ、寝かせ玄米の店。


最初に会ったお団子屋では、二人とも少しだけ格好をつけていた。

老眼鏡。

今は、リーディンググラスなんてオシャレに呼ぶらしい。

あの頃は、メニューを見る時も、なんとなく意地を張ってかけずに頑張った。


でも、最近は席に着くとお互い当たり前みたいに、さっと鞄から取り出す。

同じタイミングで眼鏡をかけて、顔を見合わせて笑ってしまった時


「老夫婦みたいやね」
と彼が言う。


嫌な気持ちはしない。
むしろ、そういう未来なら悪くない気がした。



「こういうご飯、いいよね」


「このもちもち食感がたまらんよねー」


そんなことを言いながら、ゆっくり食べる時間が好きだった。


「こういう丁寧な暮らしっていうの、してみたいね」


私は、母が毎年作っていた梅酒の話をした。
夏になると、紅いシソジュースを作っていたこと。


「私も、そのうち作ってみたいんだ」


「いいね」
彼は、すぐにそう言う。


その、【いいね】は、否定しないでくれる感じがして、心がいつも温かくなる。


その後は、いつもの古本屋に寄る。

「トイレは大丈夫と?行きたくなったら言ってな」
と私を気遣いながら本を選ぶ。


「今日はこの子をうちの子に連れて帰ろーっと」
なんて言いながら、
それぞれ気に入った一冊を持ち帰る。


そんな日は決まって彼は、
レコードの横に、その日選んだ本を並べた写真を送ってきてくれる。


私とは違ってテレビはほとんど観ないらしい。

NHKの好きな番組があるらしく、
昔は息子さんと決まって観ていたようだ。

サスペンスばかり観ている私とは大違いだ。

それでも、軽井沢に【浅見光彦記念館があるんだって!いつか一緒に行ってみたいね】なんて、こっそりと調べてくれたりして。

私の好きなものにも興味を持ってくれる優しさが好きだ。


そして、いちのレコードや古い本の横に、いつか私の選んだ本も並ぶんだろうか・・・

気がつけば、その暮らしの中に、二人でいるところを当たり前みたいに想像していた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



月に一度しか会えないのに、急な出張が入ったことがあった。

楽しみにしていた週末は会えなくなった。


【せっかくだから、出張の合間に母親に会ってくる】

そう言われて、

【行っておいで】と返した。


その時は、彼一人で行く仕事なんだと思っていたし、
なんとなく私のせいで遠い横浜まできてくれたのかなと勝手な想像をして、
お母様に対する罪悪感のような感情もあって快く行かせてあげないといけない気がした。


でも、出張前日のLINEで、本当は彼じゃなくてもよかったことを知った。

「どうせなら一緒にいかん?そしたら、俺も家族に週末あえるからさ」
と同郷の単身赴任している先輩に無理矢理誘われたようだった。

たびたび、この先輩は私を苛つかせた。

滅多に人を悪く言わない彼が、唯一ストレスを感じる人らしい。

すぐ有給休暇を取って家族の元に帰ってしまう。
今なん?という周りの空気も読まずに一週間近く休み、その代わりに彼がいつも残業する羽目になっていたからだ。

私にとっては、先輩は天敵とも言える存在だ。

そんな先輩に今度も邪魔をされたと私は勝手に腹をたてていた。

会えなくなったことより、また、自分を後回しにしたんだと思ったからだ。


【また先輩のせいだったんだね。私に気を遣って、最初に言わなかったの?】
そう聞くと


【気は遣ってない】
と返ってきた。


それはそれで腹が立った。


たぶん、そういうことじゃない。

この人は嘘をついて安心させるなら、そのまま言ってしまう人なのだ。

でも説明が足りない。

そして私は、足りない部分を勝手に寂しさで埋めてしまう。


【ちゃんと寂しいからね】

冗談みたいに送ったLINEに、既読がつくまで少し時間がかかった。

文字だけのやり取りは、時々、思っているより冷たく届く。


少し拗ねた私と、うまく説明できない彼。

LINEのまま、微妙な空気になることが何度かあった。


次に会った時、私たちは、ひとつだけルールを決めた。


険悪になりそうな話の時は、ちゃんと電話で話すこと。


声を聞くと、なんてことない事だったり、怒っていたわけじゃなかったと分かることが多かった。


仕事も忙しい。

休みも合わない。

生活リズムも少しずつ違う。


だから、私たちのやり取りはどうしてもLINEが中心になる。

でも、文字だけの会話は、思っているより難しい。


優しさも、寂しさも、少し形を変えて届いてしまうからだ。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



彼は、新しい職場に変わって、初めての人間ドックでバリウム検査に引っかかったと言った。

前々から、結果をちゃんと報告してほしいと私からお願いしていた。


まだ、やり取りを始めた頃の彼の生活はどこか投げやりで、
自分の身体を気遣うことなく仕事ばかりを優先していた。

誰かのために動くことを、普通にする人だった。

会社が休みの日でも、工場が動いていれば顔を出す。

「働いてくれてる人がいるから」

それが当然みたいに言う。

海外から来ている技能実習生たちのために、近くの体育館を借りて、バトミントン部まで作っていた。

「知らない国に来て、寂しいだろ?」

土曜日になると自分は出来もしないラケットを抱えて出かけていく。

たぶん、そういうところに惹かれたんだと思う。

自分はカップ麺ばかり食べて、人間ドックは再検査ばかりだったけれど、
一度も病院にはいかなかった話を聞いていた。

その頃の私たちの共通点は、【生きる】という事にさえ執着がなかったように感じる。


昔、離婚の理由を聞いた時、彼は少し困った顔をしていた。

「ぼく、家におらんかったけんね」

笑うみたいに言っていたけれど、多分それだけじゃない。

ちゃんと優しい人だったのだ。

だからこそ、ずっと誰かのために気持ちが外に向いてしまった。


以前、靖国神社の資料館へ行ったことがあった。

特攻隊の人たちの手紙を読んで、私は途中からほとんど泣いてしまっていた。

「私は嫌だな」

帰り道、ぽつりと言った。

「英雄にならなくていい。息子には、ただ生きて帰ってきてほしい」


彼は、少し黙ってから

「でも、あのかた達は、神様になるために生きていたんだと思う」
と言った。

その時は、父親だからなのかな、くらいに思っていた。

でも、今なら少しだけ分かる。

この人は、誰かの役に立つことを、とても大切にする人なんだ。

頼られると断れない。

必要とされると、そっちに行ってしまう。


息子さんのことは、とても可愛がっていた。

なんでも買ってあげてしまうくらい、甘い父親だったらしい。

小さい頃は、足の裏をこちょこちょすると、安心して眠るから毎晩そうしていたんだと、嬉しそうに話していた。


でも、運動会や参観日みたいな、大事な日に限って、会社でトラブルが起きる。

そして、そっちを優先してしまう。

「ぼくは、本当に運の悪い男やけん」

と笑うみたいに言っていた。

でも、多分違う。


この人は、誰かのために生きることを、自分より優先してしまう人なのだ。

息子さんにも、きっと【ただ元気でいてほしい】だけでなく、
誰かの役に立てる人であってほしいと、どこかで願ってしまう。

そして、自分にも同じように厳しい。


でも、

一緒に暮らす人間は、きっと寂しかった。

誰にでも優しい人は、家族だけを特別にはできない。


だから私は時々、怖くなる。


この人は、また自分を後回しにして、誰かのために壊れてしまうんじゃないかと。


だから、今回はきちんと再検査を進めるつもりだった。

それなのに

「絶対に行きたくない、怖いもん」

珍しく、はっきり拒絶した。


「再検査なんてしたことないし、怖い」

そう言って、笑って誤魔化そうとする。


(ああ、この人は本当に怖いんだ)


どうやら、以前、血液検査で色々と引っかかっていた数値は、
恋煩いというなんとも可愛いらしい理由で10キロも痩せたお陰と、
横浜にきてからカップ麺生活とも決別し、自炊をきっちりとして改善されたらしい。


ただ、バリウム検査で引っかかった経験は初めての事で、胃カメラなんて未知の世界のものらしく酷く怯えた。

「私なんて、もう数え切れないくらい胃カメラ検査してるから大丈夫だよ、今は寝てるうちに終わるから。」

そう説得しても、それで何か見つかったら嫌やんと、頑として言うことを聞いてくれない。


そんな事言われたら、私の方が心配になって怖くなるじゃん。
自分の検査はなんとも思わないのに・・・。

いや、私も今、何か病気が見つかったら怖いかも・・・。


お互いに、あの頃と違って【生きる】ことへの執着というか、欲が出たのかもしれない。
まだ、この人と行きたいところもたくさんある。
話したいこともたくさんある。


結局、彼の家の近くで評判の良い病院を私が探して、URLを送る。
ここから予約できるし、検査の日はついて行くから、お願いだから検査して欲しいと。


彼はやっと観念して予約を取る。
私のお休みの日に合わせて一週間後に。


検査までの一週間は、お互いになんとなく検査の話を避けていた。
話すと怖くなってしまいそうで。
彼も緊張して、食欲もなくなっていたようで、余計に私は怖くなる。


検査の日。


白いロングワンピースを選んだ。

蒸し暑い朝だった。

サンダルを履き、オレンジのカーディガンを肩に掛ける。

冷房が苦手なのだ。

病院へ行く日くらい、もっと気の利いた格好をすればいいのかもしれない。

けれど、今日はどこも締め付けない楽な服が良さそうな気がした。


待合室の椅子に並んで座る。

彼は、いつもにも増して静かだった。
普段なら私がペラペラと他愛もない話をするのだけれど、さすがにそんな気持ちにもなれなかった。


名前を呼ばれて立ち上がる。


「すぐ終わるよ」

そう言った言葉がすこしかすれていた。


背中を軽く叩く。

それだけしかできなかった。


彼の背中を見送りながら、気持ちを落ち着かせようと必死になっていた。


検査は20分くらいだと聞いていた。

でも、時計を見るたびに、まだかと思う。


こんなに長かったっけ、と思うくらい時間が進まなかった。

肩に掛けたカーディガンに袖を通す。


扉が開いて、彼が出てくる。

少しだけ笑顔だった。その顔をみてホッとする。


彼はもったいぶったように

「先生にさ」



「お役御免ですよって言われた」


その言葉を聞いた瞬間、力が抜けた。


「よかったねー」
と言いながら、そのまま顔を見た。


ああ

この人がいなくなることの方がずっと怖い。

もしもの事も考えていた。
もし、何か悪いものが見つかっても、その時は子供のように怖がりなこの人の側で、私が支えるんだ、守ってみせると自分では決めていた。

今、この人が私の前からいなくなったら、毎日LINEでするおやすみの時間も、綺麗な空を見て写真を送ることも全てなくなってしまう。

今は、それが何よりも怖い。


私は、こんなに弱かったかな。

多分、それとは違う。


ひとりで生きていけると思っていた。
実際、そうやって生きてきた。

誰かに寄りかからなくても、寂しさをごまかす方法も、忙しさで夜を終わらせる方法もちゃんと知っていた。


でも。

この人と出会ってしまったことで、私は【明日】を楽しんで、丁寧に生きたいと思ってしまった。


また、一緒に春を見たいとか。

次は、あの店に行こうとか。

いつか、浅見光彦記念館に一緒に行きたいとか。


来年も、くだらないLINEをしている気がするとか。


そんな小さな未来を、勝手に増やしてしまった。

だから怖いのだ。


守りたい人が出来るというのは、こんなにも生きることに執着してしまうものなんだ。


この人が風邪を引けば、ちゃんと病院に行って眠れているか気になる。

胃カメラひとつで、最悪の未来まで想像してしまう。


昔の私は、もっと雑に自分を扱っていた気がする。

無理もしたし、少しくらいこわれても平気だと思っていた。


でも、今は違う。


この人を残して、先にいなくなるわけにはいかない。

そんな風に思ってしまう相手が人生に現れてしまった。


もし、もっと若い頃に彼に出会っていたら。

きっと、私はこの人を好きになっていても、うまく一緒にはいられなかった。


仕事を優先されるたび、寂しさより先に、

「私と仕事、どっちが大事なの」
という言葉を飲み込み、
自分のなかで消化できずに我慢ばかりしてしまい、きっといつか、そっとシャッターを閉じていたと思う。


返信の遅いLINEひとつで、勝手に傷ついて、勝手に不安になって、相手の気持ちを試すようなこともきっとしてしまっていた。


彼もきっと同じだ。

頼られることを断れず、誰かのためにばかり動いて、近くにいる人間を後回しにしてしまう。

でも、悪気はないから自分でも気づけない。


若い頃の私だったら、その優しさを【冷たさ】だと思ってしまった。


けれど今は、少しだけ分かる。

人には、誰かを大事にしたい気持ちと同じくらい、

どうしても、うまく生きられない不器用さがあることを。


寂しいなら、寂しいと伝えればいい。

腹が立ったなら、ちゃんと怒ればいい。


それでも、【もういい】とシャッターを閉じてしまわずに、また話せばいい。


昔の私は、それが出来なかった。

浮気されたら、思い切り怒ればよかった。泣き叫べばよかった。

昔、パニック発作がひどかった頃。

夫に「少しだけ背中をさすってくれる?」と頼んだことがあった。

「あーちょっと待って」

そう言って、着替えに行ったまま、なかなか戻ってこなかった。


その間に、私は安定剤を飲んで、母に電話をして、なんとか自分で落ち着かせた。

しばらくして戻ってきた夫が、

「どこさすればいいの?」
と聞いた。

その時にはもう、発作は少し落ち着いていた。

「もう大丈夫」

そう答えながら、私はなんだかとても疲れてしまっていた。


たぶん、あの頃の私は、誰かにちゃんと頼ることを、少しずつ諦めていたんだと思う。


でも、彼は不器用なりにちゃんと向き合おうとする。

逃げずに、次の日には「ごめん」と言ってくれる人だった。


多分、そういうことを覚えるために、私たちは

今までの人生を生きてきたのかもしれない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


胃カメラのことがあってから、私は少し変わった。


いや、変わったというより、自分が思っていた以上に、誰かを失うことを怖がる人間だったと知った。


だからといって、一人時間が嫌いになったわけではない。

今でも、休みの日にはサスペンスを観るのも、雨の日にホラー映画を家でダラダラとしながら観るのも好きだ。

でも、一人で出かけることも好きになった。

小春に教えてもらった代官山の蚤の市へも行った。


古い教会で使われていたという、グリーンのキャンドルグラス。

少しいびつで、小さな気泡がいくつも閉じ込められている。

太陽にかざすと、柔らかな光が揺れる。

家にある古い本の隣に置いたら、きっと素敵だろうと思った。


帰り道、ふと目に入ったシャツ専門店に入る。

バーガンディのシャツが目を引いた。

彼に似合いそうだなと思う。


そう思いながら眺めていると、二つ隣に掛かっていた、ワインレッドのシャツに目が止まった。

よく似ている。

けれど、少し違う。


バーガンディは彼の似合う色だ。

私はもう少し明るい色の方が似合う。


その違いがなんだか嬉しくて、手に取った。


若い頃の私は、好きな人に合わせることが、いいことなんだと思っていた。

でも今は違う。


私は私のままでいたい。


そのままで、この人を好きでいたい。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


待ち合わせ場所に、見慣れた黄色いコペンが入ってきた。

相変わらず小さい。


助手席には釣り道具。

足下にも荷物。

「今日も埋もれて行くのかー」

思わず笑う。

「ごめんなー」

彼はそう言いながら、助手席の荷物をどかした。

横浜へ来るとき、この車も一緒に連れてきた。

ナンバーは今も熊本のままだ。

こちらでは、電車移動ばかりだから、普段はほとんど乗らない。


「たまには乗ってあげないとな」

そう言って、釣りの日だけは嬉しそうにハンドルを握る。


乗り込むだけでもなかなか大変だ。


「あと、十年したら、二人とも【どっこいしょ】だね」


「もう今でもいってるやん」

真顔で返されて、私は吹き出した。

車に乗り込んでから、気がついた。


彼の服を指さす

バーガンディのトレーナー。


つい先日、シャツ屋で見かけて【いちの色だな】と思った、まさにその色だった。


「そっちこそ」

今度は彼が私の服を指さす

ワインレッド。

代官山で見つけた薄手のネルシャツ。


よく似てる。

でも違う。

私は私の色。

彼は彼の色


示し合わせたわけでもないのに、並ぶと不思議と馴染んで見える。



今日は時計をしてこなかった。

時間を気にしながら過ごしたくなかったから。


何気なく腕を見る。


時計の跡だけが、白く残っていた。


お風呂に入るたび気づいてはいたけれど、こうしてみると、意外とくっきりしている。


子供たちが小さかった頃は、夏になると真っ黒になっていた。


こんなに日に焼けることなんて、もうないと思っていたのに。




飛行機が、ゆっくり見える公園で、私たちは釣りをしていた。


今日は私の手作り弁当の出番だ。


実は、料理は得意だ。

母が料理上手だったこともあって、子供の頃から台所に立つのが当たり前だった。

大学では栄養士の資格まで取った。


でも、アパレルの仕事をしていると、料理なんてしなさそうと言われることが多い。

子供の話をすると

「お子さんいるんですか?」と驚かれることもある。

どうやら、私は世間から見ると、あまり生活感のない人らしい。


釣りの時には決まって私がお弁当を作っていた。

彼は、甘い卵焼きより、だし巻き派。

ポテトサラダも好きだけど、釣りに持って行くには少し傷みやすい。

だから、薄く切ったソーセージとタマネギを炒めて、カレー味のポテトサラダにした。

メインはズッキーニの肉巻き。

パプリカとブロッコリーはオリーブオイルで軽く炒めて、マジックソルトだけ。

ご飯は雑穀米。

ワカメと豆腐のお味噌汁は、スープポットに入れておいた。


こんなの、ほとんど老夫婦の弁当みたいだ。


「ナルちゃんの料理が一番おいしいねー」

彼はいつも、外食の帰りにそう言う。


多分、私はそういう言葉に思っているより弱い。


竿を握ったまま、水面に沈んだ釣り針を二人でぼんやりみている。


しばらく、お互い喋らない。


遠くで飛行機の音がして、水面だけがキラキラ揺れている。


こういう時間を私はずっと欲しかったんだと思う。

何かを頑張って話さなくても、隣にいられる時間を。


「ほんと、この前の検査で何もなくてよかったね」

私がぽつりと言う。


あの時、もし何か見つかってもこの人を守ろうって思っていた。

でも、この人がいなくなることの方が、ずっと怖かった。


そういえば、まだ私がケンイチさんと呼んでいた頃、電気とテレビをつけたままじゃないと眠れないと言っていた。

眠るのが怖いのだと、LINEでそう言っていた。

理由は、結局最後まで聞かなかった。

今も、本当の理由は分からないし、聞く気もない。


でも、毎晩【おやすみ】のLINEをするようになってから、少しずつ変わっていったらしい。


「ナルちゃんとLINEする時、まぶしいけん、最近は電気消してベッドに入ると」

そんな事を何気なく言っていたことがあった。

それで、そのまま眠ってしまうことが少しずつ増えたらしい。

「気づいたら、テレビ消したまま寝とった」

そう言って照れくさそうに笑っていた。

確かにLINEの途中で、急に返信がこなくなり、
【あー、また寝たな】

起こさないように、そっと
【また、明日ね。おやすみなさい】
って送ることが多くなった。



別に、私が何かしたわけじゃない。


それでも、以前より眠れるようになったと聞くと少しだけ嬉しかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー



小さな当たりがあって、引き上げると

ちっちゃなメゴチがかかっていた。


「このメゴチ、小さくて可愛いね」

彼がそっと手のひらで支える。


「もっと大きくなった時に、また会えたらいいな」

優しく笑って

「だから、この子は...一度さよならしようか」

海に戻すと、すぐに見えなくなった。


また、静けさが戻る。


風の音と、遠くを飛んでいく飛行機の音だけがゆっくりと流れていく。


「いち......」

「一緒に暮らす?」

ぽつりと呟く。

少しだけ笑って続ける。


「私より先に逝かないでね」

「先に逝ったら、次の日には新しい彼氏作っちゃうから」

「嫌でしょ?」


彼は、少しびっくりしたような顔をしていた。


「だからさ」

私は、釣り針を見たまま言う。

「私よりも、一日でも長生きしてね」



少し間があって


「次の日には追いかけるね」

その返事が、あまりにも自然で

思わず、笑ってしまいそうになる。



「ナルちゃん」

呼ばれて顔を上げる


少しだけ声を落として


「愛しとるよ」


思わず笑ってしまった。


【ナルちゃん】
という呼び方も、

【愛しとるよ】
という九州なまりも

私にはちょっと甘い。



「それ、ロマンチックすぎない?」


飛行機が、またひとつ

ゆっくりと空を横切っていく。


風が吹く。


陽射しはまだ暖かいのに、風だけが秋の香りをしていた。



小春日和には、あなたと。




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