誰も教えてくれなかった経営のはなし──会社は、突然ではなく、少しずつ壊れていく。第2話:売上は立った。金は入っていない。
第2話 売上は立った。金は入っていない。
毎月の売上ランキングが社内に貼り出される。
一位は、いつも同じ名前だった。
営業一課長、原田誠。
入社二十年。この会社の営業部門を一人で背負ってきたと言っていい。大口の取引先をいくつも開拓し、新規案件も次々と決めてくる。社長からの信頼も厚い。
営業部の若手は原田を目標にしている。朝礼で社長が「原田を見習え」と言うのを、何度も聞いた。
社内では、原田は英雄だった。
ただ一つ、経理だけが違う景色を見ていた。
この会社は従業員三十人ほどの専門商社だ。
建築資材や設備部品を仕入れ、工務店やゼネコンの下請け業者に販売している。年商は三億円を少し超えたところ。
利益率はそれほど高くない。
仕入原価が売上の八割以上を占める。
つまり、売上が三億でも、粗利は五千万円程度。そこから人件費、家賃、車両費、その他の経費を引くと、残る利益は薄い。
この構造の中で、営業が売上を伸ばすことは確かに重要だった。
だが、売上を伸ばすことと、会社にお金が入ることは、同じではない。
私がそのことを思い知ったのは、経理担当の村瀬さんとの会話がきっかけだった。
村瀬さんは五十代の女性で、この会社の経理を十五年以上一人で回している。
給与計算、仕入の支払い、売掛金の管理、銀行対応、納税——すべてが彼女の手の中にある。
毎月、月末になると村瀬さんの机の上には請求書の束が並ぶ。仕入先への支払い、外注費、リース料、保険料。それを一枚一枚確認し、振込データを作り、銀行に持っていく。
支払いは待ってくれない。
だから村瀬さんは、入金の予定を誰よりも気にしていた。どの取引先から、いつ、いくら入るのか。それが支払いの原資になる。入金が遅れれば、支払いが詰まる。支払いが詰まれば、仕入先からの信用を失う。
村瀬さんにとって、売掛金とは帳簿の上の数字ではなかった。来月の支払いを回すための、命綱だった。
ある日、月次の打ち合わせの前に、村瀬さんが私のところに来た。
いつもは穏やかな人だ。だがこの日は、少し違った。
「先生、少しお時間いいですか」
そう言って、一枚の帳票を差し出した。
得意先別の売掛金残高一覧表だった。
取引先ごとに、売掛金の残高と、発生からの経過月数が並んでいる。
ほとんどの取引先は、一ヶ月から二ヶ月で入金されている。建築業界としては標準的な回収サイクルだ。
だが、一社だけ異常な数字があった。
得意先名は伏せるが、仮にA社としておく。
A社の売掛金残高、二百三十万円。
発生からの経過月数——最も古いもので八ヶ月。
「これ、ずっと気になっていたんです」
村瀬さんは声を落として言った。
「毎月、原田課長がA社に売上を立てるんです。でも、入金がない月が続いています」
「毎月売上があるのに、入金がない?」
「はい。請求書は出しています。でも、入金が追いつかない。古い分が残ったまま、新しい売上が乗っていく。だから残高が膨らんでいるんです」
私は一覧表をもう一度見た。
八ヶ月前の売掛金が、まだ残っている。
その上に、七ヶ月前、六ヶ月前、五ヶ月前……と新しい売掛金が積み重なっている。
入金はゼロではなかった。
だが、毎月の売上に対して、入金額が明らかに少ない。差額がそのまま残高の増加になっていた。
「村瀬さん、この件、原田課長に伝えていますか」
「何度か言いました。でも——」
村瀬さんは少し言いにくそうにした。
「『わかってる。催促はしてる。大丈夫だから』と」
「社長には?」
「原田課長の案件ですから、私からは言いにくくて……」
村瀬さんの表情を見て、私は事態の輪郭が見え始めた。
翌週、私は社長との月次報告の場で、売掛金の件を切り出した。
「社長、A社の売掛金ですが、残高が二百三十万円に膨らんでいます。最も古いものは八ヶ月前のものです」
社長は少し驚いた顔をした。
「そんなになっているのか」
「はい。毎月売上は立っています。ですが入金が追いついていません」
「原田はどう言っているんだ」
「催促はしていると聞いています。ただ、結果として残高は減っていません」
社長は腕を組んだ。
「原田は、うちのエースだからな。A社はそれなりに大きい取引先だ。あまり強く言うと関係が壊れるだろう」
私はそこで、少し踏み込んだ。
「社長、数字だけ見せてもいいですか」
「ああ」
「A社への売上は、直近半年で約二百万円です。仕入原価はその八割として百六十万円。この百六十万円は、すでに仕入先に支払済みです」
「ああ、そうだな」
「売上二百万円に対して、入金はほぼゼロです。つまりこの取引で、会社からは百六十万円のキャッシュが出ていっています。入ってくるはずの二百万円は、まだ入っていません」
社長は黙っていた。
「P/L——損益計算書の上では、A社との取引は黒字です。売上から原価を引けば利益が出ています」
「ああ」
「でも、キャッシュフローで見ると、百六十万円のマイナスです。利益は出ているのに、会社の現金は減っている」
社長の表情が変わった。
「待ってくれ。利益が出ているのに、金が減る?」
「はい。売上を立てても、回収できなければ、その分のキャッシュは会社に入ってきません。一方で仕入は先に払っている。この時間差が、会社の資金を削っていきます」
「……」
「これが積み重なると、利益は出ているのに、口座残高だけが痩せていく。いわゆる黒字倒産の入口です」
社長の顔が強張った。
その日の午後、社長は原田課長を呼んだ。
私も同席した。
「原田、A社の売掛金が二百三十万になっているが、どうなっている」
原田課長は落ち着いた表情で答えた。
「はい、承知しています。先方も資金繰りが厳しいようで、少し支払いが遅れています。ただ、取引自体は続いていますし、先方も払う意思はあります」
「催促はしているのか」
「もちろんです。毎月連絡しています」
私は口を挟んだ。
「原田課長、毎月連絡して、結果はどうですか」
「……まあ、すぐには難しいと」
「八ヶ月前の売掛金がまだ残っています。毎月催促して八ヶ月、状況は改善していません」
原田課長の表情が少し硬くなった。
「先生、営業の現場はそう簡単じゃないんです。強く言えば取引を切られる。取引を切られれば売上が落ちる。それでいいんですか」
「原田課長、一つ聞いていいですか」
「何ですか」
「営業の仕事は、受注まででしょうか。それとも、回収まででしょうか」
原田課長は一瞬、言葉に詰まった。
「……回収まで、でしょうね」
「はい。代金を回収するまでが仕事です。入金のない売上は、会計上は売上です。でも、会社の資金繰りを助ける売上ではありません。お金を貸しているのと変わらないんです」
原田課長は黙った。
社長も黙っていた。
しばらくして、原田課長が言った。
「じゃあ、その分、他で売上を上げますよ。A社の穴は、他の取引先で埋めます」
私は思わず声が出た。
「それは違います」
原田課長が私を見た。
「他で売上を上げても、A社の二百三十万円は回収されません。仕入先に払った百六十万円も、戻ってきません。新しい売上で穴を埋めるということは、新しい仕入が発生するということです。そこでまた回収できなければ、穴は広がるだけです」
原田課長は何も言わなかった。
私は社長に提案した。
「社長、A社への対応ですが、私はこう考えます」
「聞こう」
「まず、A社に直接会いに行きます。原田課長と一緒にではなく、社長ご自身で。あるいは私が同行します」
「いきなり社長が行くのか」
「はい。これは営業の問題ではなく、経営の問題です。二百三十万円の未回収は、この会社の規模では小さくありません」
社長は頷いた。
「その上で、まず百万円でも、今すぐ入金してもらいます。残りについては分割払いにするのか、条件を変えて整理するのか、書面で取り決めます」
「百万円だけでいいのか」
「満額回収にこだわって、全額を失うのが一番危ない。まず、今日動く現金を確定させましょう。残りは交渉次第ですが、大事なのはこれ以上あいまいな売掛金を積み上げないことです」
「……」
「そして、今後の取引は現金決済か前金。難しければ、少なくとも与信限度額を決めて、それを超えたら出荷を止めます」
社長は考え込んでいた。
「もう一つ、申し上げにくいことがあります」
「何だ」
「A社との取引を続けることで、この会社に大きな売上や利益をもたらす見込みはありますか。A社がなければ困るほどの取引先ですか」
社長は少し間を置いて答えた。
「……正直、なくても回る」
「であれば、現金取引に応じなかった場合は、取引を停止する選択肢も持っておいたほうがいいです。請求の手間、催促の手間、村瀬さんの管理工数——これらもコストです」
社長は頷いた。
「わかった。原田と相談して、来週A社に行く」
あれから三ヶ月が経った。
月次の打ち合わせで、私は売掛金残高一覧表を開いた。
A社の欄を見た。
残高は、減っていなかった。
それどころか、微増していた。
二百五十万円。
私は社長に聞いた。
「A社、行かれましたか」
社長は少し目を逸らした。
「……行った。行ったんだが、先方の社長に『今止められたら、現場が止まるんです。来月には大きな入金があります。原田さんにもずっと助けてもらっていて……』と頭を下げられてな」
「それで?」
「原田も『もう少し様子を見ましょう。ここで切ったら関係が壊れます』と言うし、先方もああやって頭を下げている以上、こっちも強くは出られんだろう」
私は黙っていた。
社長は続けた。
「原田はうちのエースだ。あいつが機嫌を損ねたら、他の取引先にも影響が出る。あいつの顔を潰すわけにはいかんだろう」
私は、村瀬さんの顔を思い出していた。
毎月、入金のない売掛金を帳簿に記録し続けている。請求書を出し、入金を確認し、入金がなければまた翌月に繰り越す。その繰り返しを、彼女は黙ってやっている。
エースの売上は、社長にとっては頼もしい数字だ。
だが経理にとっては、入金のない売上は、会社を動かす力にならない数字だった。
会計上は売上でも、現金が入らなければ、仕入も、人件費も、次の投資も支えられない。
会社のお金を使った、回収の見込みが薄い貸付に近かった。
さらに三ヶ月が経った。
A社の売掛金は二百八十万円になっていた。
この半年間で五十万円増えた。
その間、会社の資金繰りは目に見えて苦しくなっていた。月末の支払いのたびに村瀬さんは入金予定を何度も確認し、振込の順番を組み替えている。以前なら余裕を持って払えていた仕入先への支払いが、月末ぎりぎりになることが増えた。
原因はA社だけではない。だが、二百八十万円の未回収は、この規模の会社にとって小さな穴ではなかった。
毎月、原田課長はA社に売り続けている。
毎月、売上ランキングの一位に原田の名前が載る。
毎月、朝礼で社長が「原田を見習え」と言う。
そして毎月、会社の口座からは仕入代金が出ていき、入ってくるはずの売上代金は入ってこない。
P/Lの上では、A社との取引は利益を生んでいるように見える。
だがキャッシュフローの上では、A社との取引は会社の資金を少しずつ削り続けている。
村瀬さんは何も言わなくなった。
以前は「先生、あの売掛金……」と声をかけてくれていた。だが最近は、帳票を出すだけで、何も言わない。
言っても変わらないと思ったのだろう。
私は試算表を眺めながら思う。
この会社の英雄は、本人も気づかないまま、会社の資金を最も長く外に置き去りにしているのかもしれない。
だが、誰もそれを言えない。
トップセールスだから。
社長の信頼が厚いから。
売上ランキングの一位だから。
売上という数字が、すべてを覆い隠してしまう。
経理の村瀬さんが、先日ぽつりと言った。
「先生、私が見ている帳簿と、社長が見ている景色は、全然違うんですね」
私は何も返せなかった。
社長が見ているのは売上だ。
村瀬さんが見ているのは入金だ。
同じ会社の、同じ取引の、同じ数字を見ているのに、見えている景色がまるで違う。
会社は、売上で生きているのではない。
入金で生きている。
いくら売上を立てても、現金が入ってこなければ、会社は干上がる。
帳簿の上では利益が出ている。
だが、口座の中では、会社を動かす現金が静かに細っていた。
売上ランキングは、今月も原田課長が一位だった。
『誰も教えてくれなかった経営のはなし』第2話・了
Kのつぶやき
営業を褒めるとき、何を基準にしていますか。
売上ですか。それとも、回収まで含めた数字ですか。
回収できない売上は、会社を動かす力になりません。
売上ランキングの裏側に、資金繰り表の悲鳴が隠れていることがあります。
入金まで見届ける営業が、本当の意味で会社を支える営業です。
