「作文」は苦手だけど自由に書くのは好き
noteを再開して2週間
この記事で10本目
我ながら結構早いペースだと思う
再開直後は「書くことが全然ないや」と思っていたが再開したら意外とネタが出てくる
あと文章を書くこと自体が気分転換になる
思いついたネタで気の向くままに書き進めるのはいいことだ
そうは言いつつ、もともと私は文章を書くのが好きではなかった
その原因は小学校のころの「作文」だった
国語と道徳教育と作文と
こんなことを思い出したきっかけは文芸評論家の三宅香帆さんの対談動画
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』とか『「好き」を言語化する技術』で一躍有名になった人
どうでもいいけど三宅さんは普段落ち着いた口調なのに本のことや推しのことになると急激に早口限界オタクになる
もはや「異常」なレベルの本への愛が伝わってきて、京大生らしい「変な人」だなぁと思ったり
この動画では「読書感想文が苦手な子どもがいる」と言及されていた
そして原因の一つとして挙げられたのが国語教育と道徳教育が結び付けられていること
つまり読書感想文も「道徳的に良い」、すなわち「教師が望む文章」を求められているということ
「本がもともと苦手だったけど、この本で読書の面白さに気付いた」
「この本を読んで友人の大切さを知った」
こういった教師の「ウケ」がいい文章が評価されると、生徒も「大人が求める文章」が「正しい文章」だと思い込む
そして「正しい文章」が書けないまま、いつの間にか書くこと自体に苦手意識を持ってしまうというお話だった
私自身は読書感想文を書かされることがなかった
だけど小学校の「作文」で同じようなことを経験した
小学校では学芸会や運動会などのイベントが行われるたびに作文を書かされた
先生からは「なんでも自由に感想を書いてください」と言われた
一方で私はそもそも学校行事が楽しくなかった
運動会では徒競走で圧倒的ビリ、応援のダンスは全く覚えられず周りと違う動きをする
学芸会では「道端の草木B」などモブキャラのひとり、セリフがないどころか動きもない
紙でできた木の枝の絵を持って立っているだけ
こんな経験から何を書けばいいのだ
「運動会では毎年ビリで走っているのを見られて、とても恥ずかしいので二度と出たくありません」
「学芸会ではステージの横で30秒立っているだけでした、ライトがまぶしかったです」
そんなことを書いたらもちろん再提出だ
しかも「もっと楽しかった思い出があるでしょう」と言われる
ないのだ、本当にないのだ
じゃあ代わりにステージの横で30秒立っているだけの役をやってほしい
そして白紙の原稿用紙に何も書けないまま、身動きせずに数十分座っている
それが私の「作文」への思い出だ
「なにも書けないまま、ずーっと机に座っていてとてもかなしかったです」
自由に書くのは楽しいぞ
そんな私が文章をスラスラ書けるようになったのは大人になってから
きっかけは手書きの日記
大人になると色々感じることも多いし、私はそもそも考えすぎな性格だ
そんな頭はいつかどこかでパンクする
何とかして吐き出さないと
そう思って始めたのが日記だった
この日記を書くにあたってのポイントはひとつ、感じたことをそのまま書くこと
正直周りの人には見せられない
ネガティブな感情、自分が人には見せたくない一面、ぜんぶ書く
この日記を落としたら私は社会に出られない
門外不出の日記である
ただ、この日記は本当にスラスラ書けた
1ページA5サイズの用紙がみるみる埋まる
ボールペンのインクもあっという間になくなった
つまり「誰のためでもない」自由な文章なら私でも書けるのだ
noteもその中の一つ
正直に言ってnoteで「スキ」をもらったり多くの人に見られるのはうれしい
私の中の承認欲求モンスターがウキウキする
だけど「みんなにウケるネタを書こう」と思っているわけじゃない
ウケることを意識しすぎると筆が止まる
仮に書き進めたとしても自分らしい文章じゃないし、感情がうまく乗らない
つまり私にとってnoteは日記の延長線上にあるともいえる
できるだけ自由に自分の感情や価値観、考えを書いてみる
それくらいのスタンスで書いたほうが続けやすいし私のメンタル的にもちょうどいいのだ
そうやって今日も夜中に文章を書きあげた
じゃあなぜこれが朝に上がっているのか?
それはより多くの人に見てもらうため、予約投稿をしたからだ(承認欲求モンスター)
