F8 ポリシーをたずねて
「ヨッシャマンのポリシーって何?」と訊かれた。
なかなか良い質問だと思う。
ポリシーね。うん、ポリシー……
ない。
まずいことになったぞ、と私は思った。
いい歳をした大人がポリシーくらい答えられなくてどうする。何も、歴代の総理大臣について質問されているわけでもないのだ。
何か絞り出そうとするのだが、ソフトクリームマシンのようにはするっと出てこない。
淑女を怪人化すること……?それはただの娯楽だ。
ふんどし一枚で寝ること……?それはただの習慣だ。
ポリシーとやらが見あたらない。
こうなったら探しにいこう。
母をたずねたマルコのように。
記憶をたどり、脳内を探り、心に訊いてまわり、三千里の果てに何とか2つ出てきた。
ぶらさげるのには丁度よい。
「したいことをする」
「したくないことはしない」
子供……?
なんだ、このポリシーは。
まだ返却期限内だからお返ししようと思ったが、ふと思った。
これ、子育て中になんとなしに意識していたものだ。
とにかくしたいことをさせてあげたかったので、
「できればそれはやらないで~」と思うことでも目をつむった。
娘がジャンプして蛙を踏み潰していた時も見ない振りをした。
リビング一帯に霧吹きで大量の水を吹きかけ、スケートリンクにしていた時も、しくしくと泣きながら拭き掃除をした。
したくないことはさせない。
うちでは「お手伝い」をさせなかった。家事は僕の仕事だと思っていたから、子供には「遊ぶ」という仕事をしていてほしかった。娘がやりたいと言った時だけ一緒に料理をしたくらいだ。
お手伝いを強制して、家事が嫌いになるのは将来的に困るだろうというのもあった。
しかし、一度だけ私が40度を越える高熱を出した事があって、その時は立っているのもしんどかった。
買い物に出るのは防波堤の台風のリポートなみに危険だったので、なんとか有り合わせの夕食だけ用意をして、
「食べたら風呂入って、2人で寝てくれ」と遺言を残して私は息を引き取った。
翌朝、いくらか回復した私は、昨日の後片付けと朝食を用意するために台所に立ったのだが、昨夜の鍋やら食べた後の食器類はきれいに洗われてあった。
娘にはまだ背の高いシンクの足元にあった踏み台を見て、涙が出てきた。弱っていたからだ。
話が脱線したら教えてくれる機能とかないかな。
ポリシーの話だった。
「したいことをする。したくないことはしない」
これでは、あまりに動物的すぎないか?と思った。
ちらりと横のネコを見ると、悪いのかよという目で見返してきた。
そこで、「したいこと」と「したくないこと」を書き出してみた。
すると、動物本能的な(例えばエロいこととか)以外にも、人間的な「したいこと、したくないこと」も結構あった。
ならよし。
正規採用しようではないか。
私のポリシーは、
「したいことをする。したくないことはしない。」とする。これをパンツに忍ばせておくことにしよう。
そんなに簡単ではないと気付く。
したいことをする、は良い。すればよい。
問題は「したくないことをしない」の方である。
その方向に向かって生きていくことは出来るけれど、したくなくてもしなくてはならない事ってある。
その最たるものが「仕事」だ。
よく、「好きな事を仕事にするとよい」とか「得意な事を仕事にすべき」などという議論をする方がおられるが、なぜ仕事をする事が前提なのかと思う。
そもそも私は仕事をしたくないのだ。
毎日遊んで暮らしたいのだ。
しかしながら、生業としている整体が嫌いなわけではない。
「じゃあ、何が嫌いなの?」と私の中のマルコに訊いてみる。
仕事が嫌いなのではない。
「しなくちゃ」が嫌いなのだと分かった。
「怒り」は少ない方だとは思うが、それでも一番最初に感じた怒りとはなんだろう?と、マルコを脳内に派遣して、その最も古い記憶を訪ねる。
5、6才の頃だ。
多くの男児がそうであったと思うが、ヒーローアクションもののテレビが大好きだった。それらを観終わると、体がうずうずしてたまらない。
大抵は父親を捕まえて戦いを挑み、そのうずきを解消する。
ある時、デモンストレーション的に私は冷蔵庫にドロップキックをした。
怒られた。
それはまぁ仕方ない。物を大切にしなさいと指導されるのは子供ながらにも納得できる。父親に謝るのもやぶさかではない。いつもプロレスごっこをしてもらっている恩義もある。
しかし、父親はこう言ったのだ。
「冷蔵庫に謝りなさい」と。
Pardon?
思春期だったら刃傷沙汰になりかねない発言だったが、私はまだ毛も生えていない無力な子供。
この青白い顔をした無機質な箱に、この私が謝れと?
と言えるはずもなかった。しかも、父親は口の端がほんのり笑っている。自分でもちょっとおかしな叱り方をしているなと分かっているのに退かないのだ。今でもその顔は忘れない。
私は、ただその場を収めるためだけに謝った。
冷蔵庫に。
屈辱で拳が震える感覚。
言いたくない言葉を、無理やり言わされた。それが私の最古の怒りである。
それ以来、私は父親に戦いを挑まなくなった。
今思えば他愛のない話ではあるのだけど、それからというもの私は何かを強制、無理強いされることに、どうしようもない嫌悪感を抱くメンドクサイ人間になってしまった。
それが「しなくちゃ嫌い」に繋がっている。
しかし、原因が分かれば対策はとれる。
「したくないこと」=「しなくちゃ」を「したいこと」にこっそりすり替えてしまえばいい。
仕事でいうと、「結果をださなくちゃ」と思うと段々めんどうになってくる。
そこで、「したいことリスト」の中から使えそうなやつらを持ってくる。
例えば、「実験したい」
これなんか結構使える。試したいことはいくらでもあるから。
「人を喜ばせたい」というのもあった。
この患者さんはどうしたら喜ぶかな?
それを考えながら施術をしていると思いの外面白い。ただ痛みや疲れを取りたいという人ばかりではないのだ。
ただ喋りたい人もいれば、悩みを聞いてほしい人、眠りたいだけの人だっている。もしかしたら、私の小粋なトークを聞きたいという変わり種もいるかも分からない。
いつのまにか、「したいことをしている」という錯覚を起こすのである。
究極は、「したいことだけする」というポリシーに真ん中で一本化したいものだけれど、そのためには「したくないこと」をなくしていくのがいいだろうと思う。削れるものは削り、転換できるものは転換する。
果てない冒険かもしれないけれど。
ポリシーを遵守「しなくちゃ」と思った時点で「したくないこと」行きなので、そこは注意しなくちゃ………
あ……。
