夜を越える航海者たち - 第二話「境界の波」
港町リューデルの朝は、
いつも通りの顔をしていた。。
市場の喧騒。
魚を捌く音。
船を整備する槌のリズム。
何も変わっていないはずなのに、
カイトの中だけが、静かに変わっていた。
夜の出来事は、夢ではなかった。
あの船。
NOX。
そして、頭の奥に響いた“声”。
「――やっと、来た」
思い出すたびに、胸の奥がざわつく。
(あれは…なんやったんや)
考えても答えは出ない。
だが一つだけ、確かなことがあった。
――もう、戻れない。
「ほんまに行くんやな」
振り向くと、レナが立っていた。
腕を組んで、呆れたようにこちらを見ている。
でもその目は、どこか覚悟を決めた色をしていた。
カイト「止めに来たん?」
カイトが聞くと、レナは首を振った。
「ちゃう」
一拍置いて、続ける。
レナ「ついて行く」
風が止まった気がした。
カイト「……は?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
カイト「なんで」
レナ「一人で行かせる方が怖いから」
あっさりと言う。
「それに」
レナは少しだけ目を逸らした。
「あんた、放っといたらほんまに
帰ってこなさそうやし」
カイトは苦笑した。
否定できなかった。
カイト「……危ないで」
レナ「わかってる」
カイト「戻られへんかもしれへんで?」
レナ「それもわかってる」
カイト「それでも?」
レナはまっすぐカイトを見た。
「それでも」
短く、強い言葉だった。
カイトは少しだけ考えて、そして肩をすくめた。
「はぁ。わかったよ。」
その言葉が、出航の合図になった。
⸻
港の端。
忘れられた船、NOX。
昼の光の下で見ると、
昨夜よりもずっと“古かった”。
木材は軋み、
帆は擦り切れ、
今にも崩れそうに見える。
レナ「これ、ほんまに動く?」
レナが眉をひそめる。
カイトは船体に手を当てた。
――
ドクン。
まただ。
あの感覚。
まるで、生きているみたいに、
船が“応えてくる”。
カイト「動くやろ」
確信に近い感覚だった。
理由は分からない。
でも、分かる。
この船は、沈まない。
レナ「根拠なさすぎやろ」
レナは呆れながらも、乗り込んだ。
その瞬間、風が吹いた。
帆が、ひとりでに揺れる。
まるで、待っていたかのように。
⸻
出航は、あまりにも静かだった。
誰にも見送られず、
誰にも気づかれず、
ただ、ゆっくりと港を離れる。
振り返れば、リューデルの街が小さくなっていく。
あそこに戻ることは、もうないかもしれない。
それでも、後悔はなかった。
むしろ。
胸の奥が、少しだけ軽くなっていた。
レナ「なあ」
レナが、ぽつりと呟く。
レナ「ほんまに、あっち行くんやな」
視線の先には、あの水平線。
昼間なのに、そこだけは暗い。
光が、届いていない。
カイト「行くしかないやろ」
カイトは答えた。
カイト「呼ばれてるんやから」
レナは少しだけ眉をひそめた。
レナ「その“呼ばれてる”ってやつ、気味悪いで」
カイト 「.....分かってる」
でも、止まれない。
それだけは、はっきりしていた。
⸻
数時間後。
海の色が、変わり始めた。
青かった水面が、
少しずつ、深く、重たい色に沈んでいく。
空も同じだった。
晴れていたはずの空に、
いつの間にか雲が広がっている。
「なあ、これ……」
レナが言いかけたそのとき。
波が、不自然に揺れた。
ドン!
何かが、下から叩いたような衝撃。
船が軋む。
レナ「……今の、何?」
レナの声が、少し震えていた。
カイトは答えなかった。
いや、答えられなかった。
見てしまったからだ。
水面の下。
一瞬だけ。
“目”のようなものが、こちらを見ていた。
人間のものじゃない。
でも、完全に別のものでもない。
どこか、“知っている気がする”形。
「……なあ」
カイトは、低く呟いた。
カイト「見たか?」
レナは首を横に振る。
レナ「何も見えへん」
カイトは息を飲んだ。
(またか……)
あの光と同じ。
自分だけが見える何か。
そのときだった。
――ギィ……。
船が、鳴いた。
軋みとは違う。
もっと、意志のある音。
そして、頭の奥に再び響く。
カイト「――近い」
カイトの心臓が、強く打つ。
カイト「もうすぐや」
思わず、口から言葉が漏れた。
レナ「何が?」
レナが問い返す。
カイトは、水平線を見た。
あの暗闇が、すぐそこまで来ていた。
昼なのに、夜みたいな海。
光が、飲み込まれていく場所。
カイト「境界や」
自分でも、なぜその言葉が出たのか分からない。
でも、それが正しいと、分かっていた。
ここはまだ、“こっち側”だ。
でも、一歩踏み込めば――
カイト「引き返すなら、今やで」
カイトは言った。
レナは、少しだけカイトを見つめ。
そして、笑った。
レナ「遅いわ」
その言葉と同時に。
NOXは、境界を越えた。
⸻
音が、消えた。
風も、波も、
すべてが一瞬で静まり返る。
そして。
世界から、“色”が抜け落ちた。
灰色の海。
灰色の空。
太陽は、そこにあるはずなのに。
光は、どこにもなかった。
レナ「……なに...ここ。。」
レナの声が、かすれる。
カイトは答えなかった。
ただ、見ていた。
海の奥を。
そこに、何かがいる。
確信だった。
そして、それは。
こちらを、見ている。。。。。
第二話完。
