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夜を越える航海者たち- 第一話

灯らない水平線


この世界には、
“太陽が昇らない海”がある。

誰もが一度はその噂を耳にする。
だが、それを確かめに行こうとする者は、ほとんどいない。

理由は単純だ。

帰ってこないからだ。

戻ってきた者がいないわけではない。
だが、帰還した者は皆、同じことを口にする。

「何も、覚えていない」




「もう、人じゃない」

そう言われている。

港町リューデル。
海とともに生きるこの街では、
その話は禁忌に近かった。

子どもが夜の海を話題にすれば、
大人はすぐに口を塞ぐ。
漁師は決して西の沖へは出ない。
航海士でさえ、その海図だけは白紙のまま残す。

“存在するのに、存在しない場所”。

それが、その海だった。

――だが。

「……なんでやろ。。」

カイトは、港の端に立っていた。

沈みゆく夕日が、海面を赤く染めている。
だがそのさらに向こう、水平線の先は、不自然に暗かった。

まるで、そこだけ“光を拒んでいる”かのように。

「呼ばれてる気がするんよな」

誰に言うでもなく、呟く。

背後から、乾いた足音が近づいてきた。

「またその話?」

振り返ると、レナが立っていた。

風に揺れる長い髪。
どこか現実的で、どこか優しすぎる目をしている。

「行く気なん?」

その問いに、カイトは少しだけ笑った。

「まだ、分からん」

嘘だった。

答えは、とっくに決まっていた。

「やめとき。あそこは、、」

「分かってる」


レナの言葉を遮る。

危険だとか、帰ってこられないとか。
そんなことは、嫌というほど聞かされてきた。

でも、それでも。

「なんでか分からんけど、気になるんよ」

カイトは、水平線を見たまま言った。

「怖くないん?」

レナの声は、少しだけ揺れていた。

カイトは、少し考えてから答える。

「怖いで」

正直だった。

「でも、それ以上に――」

言葉を探す。

うまく言えなかった。

ただ一つ、確かなのは。

「行かへん方が、もっと怖い気がする」

レナは黙った。

風の音だけが、ふたりの間を通り抜ける。

やがて、ぽつりと呟いた。

「変わってるよ、あんた」

「よう言われる」

カイトは笑った。

そのときだった。

遠く、水平線の向こうで、
一瞬だけ――光が“揺らいだ”。

ほんの一瞬。

見間違いかもしれないほどの、微かな変化。

だが、カイトはそれを見逃さなかった。

「……今、見えたか?」

「え?」

レナは首を傾げる。

「何も見えへんけど」

カイトは黙った。

(やっぱり、俺だけか)

あの暗闇の中に、
確かに何かが“あった”。

呼ばれているような感覚。
それは気のせいではなかった。

――その夜。

カイトは、一人で港に戻ってきた。

街は静まり返り、
波の音だけが響いている。

係留された船の中で、一隻だけ。

古びた小型船があった。

誰にも使われていない、忘れられた船。

だが、その船の船体には、かすかに刻まれていた。

「NOX」

ラテン語で“夜”を意味するその名前を、
カイトはなぜか、知っていた。

「なんで、知ってるんやろな……」

記憶にないはずの記憶。

初めて見るはずなのに、懐かしい感覚。

まるで。

ずっと前から、自分のものだったかのように。

カイトは、ゆっくりとその船に手をかけた。

その瞬間。

――

ドクン。


心臓が、大きく脈打った。

同時に、頭の奥に“声”が響く。

「――やっと、来た」

カイトは思わず手を離した。

息が荒くなる。

「……なんや、今の」

周囲には誰もいない。

ただ、静かな海が広がっているだけ。

だが確かに、聞こえた。

“何か”が、自分に語りかけてきた。

そして、気づく。

自分の手が、わずかに震えていることに。

恐怖か。

それとも――期待か。

カイトはもう一度、船を見た。

そして、ゆっくりと息を吐く。

「……行くか」

その言葉は、
誰にも届かないはずだった。

だが。

遠く、あの“灯らない水平線”の向こうで。

何かが、わずかに“蠢いた”。

まるで、それを聞いていたかのように。。

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