選書サービス受けようと、小心者がへそ出しルックして、発熱しそうな話|余白の選書
noteを半ば投げ出して、複数の小説投稿サイトで創作活動に明け暮れていたある日。
どなたのXのポストだったか忘れてしまったが、紫吹はる氏の選書サービスに対する感想がタイムライン上に流れてきた。
紫吹はる氏と言えば、創作大賞2025ベストレビュアー賞受賞やモノカキングダム2025での全作品感想文を始め、様々な作品に対して丁寧に向き合い、そして心優しいメッセージを贈る卓越したその能力。自分に対する選書はどのような選書になるか、興味を持ち始め、早速、紫吹はる氏の記事より購入手続きをした。
その後、紫吹はる氏から、XのDMを通じて質問が送られてきた。
その項目について、自分が現在置かれている状況とそれに対する心情を正直に書いた。ここではその内容は書かない。自分のネガティブな一部分を書いたので他の人には読まれたくないし、そのことを具体的に延々と書いてしまいそうだし、内容的に不快に思われて「No More YOSHIMARU」になりかねない。
質問項目を返信してから一日も経たずに「お待たせいたしました!選ばせていただきました」というメッセージとともにPDFが送られてきた。
返信してからの選書が早すぎる。
ココロの準備が全くできていなかったので、数分間開くことを躊躇した。
意を決して読んでみると、選書の3冊に加え、最後に紫吹はる氏からメッセージを添えられていて、「ああ、こんな素性も知らない自分に対して何でそんなに優しい言葉を投げかけることができるのか?もしかして、知り合い?」と思い、読み返す度に今でも涙腺がゆるむ。
泣ける映画より数倍泣ける。
紫吹はる氏からの最後のメッセージは、自分の中だけに大切に大切に留めておきたい。
代わりに、選書していただいた後すぐに購入した3冊を読み終えて、自分なりに感じたことを書くので、その文章からどんなことを紫吹はる氏に伝えたのか、想像してみてほしい(答え合わせは、しない)。
選書①『木曜日にはココアを』青山美智子 著
世の中の人々は、必ずどこかで繋がっている。たとえ、それが遠く離れた国であっても。そういった人と人との繋がりをとても丁寧に紡いだ物語だが、それ以外にも大切なことを教わった物語だった。
自分が今やりたいこと、考えていることを素直に受け止めて、自分の時間を生きること。
この小説には12の物語が描かれていて、それらが細くとも途切れることのない見えない糸が一本で結ばれているような構成だが、一人一人の登場人物にスポットを当てた時、誰かのためというより、自分の想いや時間を大切にしているだけなんだと、読み進めていくうちにそう感じていた。
「自分の想いや時間を大切にすること」。
若い頃から知らず知らずに周りの空気や常識に囚われることが多く、自分自身が主導権を握る気持ちや時間って全然なかったなと、今さらながら後悔しているところがある。
だから、今は、自分がしたいことに対して、周りへの後ろめたさや怖さを感じず、「これが今考えている自分自身なんだから、自分のことくらい自分で認めてあげたい」という気持ちが先行して、それが創作という、「自分の一つのカタチ」として出来上がりつつあってとても気持ちがいい。
ここからは余談だけど、ある日の夜のこと。
公募用作品を書こうと一人スマホをせっせと動かしていたとき、妻から「何をそんなにスマホばかり見ているの?まさか、浮気?」という、思いもよらなかった嫌疑をかけられたので、仕方なく、実は小説書いているんだよ、公募に出しているしネット投稿もしている、と打ち明けたところ、「え、もしかして官能小説じゃないよね?」と半ば興奮気味に言うので、まあそういうことにしておいてと言って以降、「今夜は小説書きにスタバ行きたい」と言うと何も文句を言わなくなった。その代償に妻から「官能小説家」という称号を得た。
自分が握っている時間の使い方を堂々と言ったとき、家族に対して何となくあった後ろめたさがスッと消えてなくなったような、軽い気持ちになった。

選書②『春の庭』柴崎友香 著
この小説を読んですぐに感じたことがある。
「ところどころでひっかかる」感触。タイトルの「春の庭」がメインにしているのは間違いないのだが、物語が進む中で突然時間軸がズレたり、今の場面とは全然関係ない登場人物たちの心情や出来事などが数多く散りばめられており、小説はテンポよく読んだり書いたりしたい自分のようなタイプだと、何度もつまづく感触があるこの小説は非常に読みづらい。
この小説を読んでいるうちに頭に浮かんだのが、有名なジャズピアニストである、セロニアス・モンクだった。
自宅の書棚にあるジャズ入門書の中で、セロニアス・モンクについて「不協和音的ハーモニーとつまづくようなタイム感覚で独創的な世界観を創り出した」という紹介文が添えられていた。まさにその感覚だった。
だけど、作者の独特のテンポに戸惑いながら読み進めるうちあることに気がつき始めた。
人は誰もが自分軸で動いている、それが親兄弟だとしても自分軸に入り込むことなどできない、日常の中で何か起きていても自分が考えられる範疇で物事を捉え、興味がなければ全く別のことを考えたり思ったりする。それが何だか共感した点であり、恐怖を感じた点でもあった。
自分が今したいと思っていること。
創作、ひとり旅、読書など、一人で過ごしたい、やりたいことが多い。それは若いときから何となく人疲れしてきた反動なのかもしれない。
でも、そんな自分軸で生きてもいい。否定することではない。だって、そもそも人って自分軸で生きているし、興味があれば誰かと共有するけど興味がなければ頭の片隅にも残らず目の前をサッと通り過ぎて行ってしまうから。
このクセのある世界観が、自分の今の心情を肯定してくれているような気持ちのさせてくれた一冊だったし、そしてなにより、この物語を読み終えて、著者の独特の世界観がとても好きになった。

選書③『本当はちがうんだ日記』穂村弘 著
こういったエッセイのノリ、心から好きだと言える。
数年前に予期せぬ難病で長期入院した際に、お見舞いに来た職場の同期からもらった星野源のエッセイもこんなノリだった。それで閉塞感がもろに滲み出ていた顔から久しぶりの笑顔が自然と浮かび上がり、あのときは本当に救われた思いだった。
そんな懐かしい匂い(文体的に「臭い」の方が合っているかも)のするエッセイに触れて自然と顔がほころぶ。しかし、読み進めるとどうやら自虐的な話だけではなかった。
ところどころに栞のように差し込まれている苦悩や葛藤。
その前後に描かれている、(失礼ながら)散らかり放題の話からの落差に、「人間っておもしろい」と感じる瞬間だった。
自分も人のことは言えない。
生きていく中で、くだらないことが頭の中でわんさかと湧いてくる。本当に困る。目の前の物事に集中できない。「何であの人はつり革を両手で持つ必要があるのか」とか「足を組み片手をズボンのポケットに突っ込みながら飯を食うあの態勢で、果たして美味い飯が食えるのか」など、別に生きていく上で考えなくてもいいことを延々と考えたりすることもある。
と思えば、起こしてもいないのに急に昔の嫌な記憶が目を覚まし、頭の中でモヤモヤした空気を吐き出しながら嫌な思いにさせられる。
そんな自動運転のように降ってくる、この(無駄な)雑感を一つ一つ書いていったらきっと著者のようなエッセイが出来上がって面白いかもしれないが、文章の質感として到底このレベルには到達できないだろう。
でもこの本を読んで、変にバカになるこの脳みそでもいいかなと感じた。だって、幼い頃からアレコレ妄想癖があり(思春期では特に恋愛)、母親から「おかしなこと考えるね」と今も脳内にこびりついているこの言葉どおりにこれまで生きてきたんだから。立派に生き残っている。
「こんな感じでも生きていていいんだよ」と。
何だか身近に似たようなタイプの人間がいるように思っていたが一人だけいた。長女だった。

以上、3冊を読み終えての雑感をつらつらと。
どの本もあっという間に読み終えた。今の心情にはピッタリと合っていたからだろう。サービスを受けてお値段以上のものを得たし、身体にはびこんでいたどす黒いものが外に吐き出されたように感じた。
ここまで書き終わってさて投稿の準備を、と思っていたが、今さら心配になってきたことがある。
紫吹はる氏にペラペラしゃべってよかったのだろうか。
黒いものをオブラートで少なくとも五重くらいには包んだはずだけど、あまり人に読ませられるものではない。
これまで自分の悩みごとなんて人に打ち明けたことが、人生でほぼない。
何であんなペラペラしゃべるように書いたのか…今からDMを消そうか、いや、もう紫吹はる氏には残ってしまっている…。
まさか紫吹はる氏が自分の弱みをXで発信したりはしないだろうけど、何だか落ち着かない。
自分に対して悩みごと(圧倒的に異性関係)を持ちかける多くの「ココロの裸族」たちと接してきたけど、ココロを丸裸にして曝け出して恥ずかしくなかったのだろうか。自分なら恥ずかしいし、怖い。
返答が来るまでのあのソワソワした感じはやはりこれだ。無意識に警報音が鳴っていたのだ。
ココロをへそ出しルックくらい出しただけなのに、コロナウイルスワクチン後の副反応並みに高熱が出そうだ。
いや、気にし過ぎだ。
SNS上で生の自分を吐き出している人は星の数ほどいる。自分なんてまだへそ出しルックだ。へそのゴマは取ってある。
今は色気など知らない娘たちが、将来へそ出しルックしながら彼氏を紹介してきたらなんて答えようか。
「ヘソのゴマはしっかり取りなさい。君も普段から娘のゴマ取りの手伝いをしてくれたまえ」
