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「見栄えの良い行事」に魂を売る三流保育者へ。大人の自己満足が子どもの「日常の学び」を食い潰す。

「はい、そこで手を大きく挙げて! もっと笑顔で!」
「並び方が違うでしょ! 本番は明日なんだから、ちゃんとしなさい!」

運動会や発表会が近づくたびに、保育室や園庭でこんな怒号を響かせていませんか? もしあなたが、行事を「保護者に立派な姿を見せるためのショー」だと勘違いし、時間に追われながら子どもたちを必死に調教しているなら、今すぐその見栄え至上主義の台本を破り捨ててください。

はっきり言います。 大人がすべての段取りを握り、完成形が先に決まっている行事の中で、子どもが主体的に動いているように見えたとしても、それは完全な錯覚です。 それは主体性ではなく、大人の顔色をうかがいながら動く「参加したように見えるだけの従属(ロボット化)」に過ぎません。そして、そんな「行事に食われた園」ほど、子どもたちの豊かな「日常の学び」はみるみるうちに痩せ細って死んでいくのです。

「何を見せるか」から「何をどう決めたか」へ

もちろん、行事という非日常のイベントが、子どもたちの成長にとって大切な経験になることは間違いありません。 しかし、「共主体(共に創り上げる主体性)」を深めるプロの保育において、行事の意味は「きれいなダンスを揃えて踊ること」でも「台詞を間違えずに言うこと」でもありません。

プロの保育者が問うべきは、「本番で保護者に何を見せるか」という結果ではなく、「その行事に向かう過程で、子どもたちが何を決め、どう調整し、どんな意味を持って取り組んだか」という泥臭いプロセスです。

「お遊戯会のテーマを何にするか」 「誰がどの役割をやるか」 「うまく道具が作れない時に、どう話し合ったか」 「意見がぶつかった時に、どうやり方を変え、折り合いをつけたか」

大人が決めたレールの上を綺麗に走らせるのではなく、道なき道を子どもたち自身で切り拓く。そこにこそ、人間の本質的な「育ち」が宿るのです。

日常で育てていないものは、行事では絶対に育たない

「うちの園でも、行事の時は子どもに話し合わせて主体性を大事にしていますよ」 そう反論する大人がいます。しかし、騙されてはいけません。

普段の生活の中で「今日、誰と何をして遊ぶか」「どんなルールにするか」を自分で決める経験をさせていない(大人が全部指示している)のに、行事の時だけ突然「さあ、みんなで話し合って決めよう!」と言って、子どもが動けるわけがありません。

日常の中で「共同調整」や「共有思考」が泥臭く積み重なっているクラスは、行事にも必ずその「強靭な関係性」が表れます。 逆に言えば、日常で育てていないものは、行事という特別な舞台で急に魔法のように育つことなど絶対にないのです。

行事は「特別な保育」ではなく「日常の延長」である

行事は、日常の保育を中断して行う「特別な訓練期間」ではありません。 毎日子どもたちが熱狂している探究の、その延長線上にある「日常の延長(通過点)」でなければならないのです。

大人の都合で作られたスケジュール帳を閉じましょう。 「本番までに間に合わせなきゃ」という大人の焦りが、子どもたちから「考える時間(失敗する時間)」を奪っていることに気づいてください。

見栄えが悪くてもいい。本番で失敗してもいい。 「あの子たち、本番ギリギリまでケンカして話し合ってたよね」と、笑って裏話を語れるくらいでちょうどいいのです。 私たちはイベント業者ではありません。子どもたちが自分たちの力で「最高の一日」を創り上げる、その泥臭いプロセスの伴走者なのですから。

私は、保育現場の「働き方改革」「組織づくり」に関するコンサルティングや研修も行っています。 「『行事のための保育』から脱却し、日常の学びを豊かにするカリキュラムに変えたい」 「行事のプロセスを保護者と共有し、理解を得るための発信方法を学びたい」 そんな覚悟のある経営者・園長先生は、プロフィール欄のリンクから、お気軽にご相談ください。 最高の行事は、常に「充実した日常」の延長線上にしか存在しません。

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