第1章 裕福な子ども時代
創作大賞の記事をきっかけに、
「佳乃はどんなふうに育ったのか」
「なぜ外の世界へ惹かれていったのか」
そんな部分も読んでみたいと言っていただけるようになりました。
そのため、マガジンでは時系列を遡り、
第1章から少しずつ公開していくことにしました。
今回は、坂の上の大きな家で育った幼少期のお話です。
*
私は、坂の上の大きな家で育った。いわゆる「立派な家」だった。子どもの頃の私にとって、それはあまりにも当たり前の風景だった。
欲しいものは、言わなくても用意されていた。困る前に、誰かが先回りして解決してくれる。
「あなたは何も心配しなくていいのよ」
母はそう言った。
それは確かに愛情だったと思う。けれど今振り返ると、その優しさは、音のない檻でもあった。
子どもの頃の誕生日会を、今でもよく覚えている。
十人ほどの友達が家に集まり、母は朝から台所で料理を作っていた。テーブルには色鮮やかな料理が並び、真ん中には大きなホールケーキ。甘い紅茶の香りと、子どもたちの笑い声。
誰が見ても「幸せな家庭」の光景だったと思う。
「この子も呼んだら?」
「あの子も誘ってみたら?」
母に言われるまま友達を呼び、私は笑っていた。
けれど、ふと思うことがあった。
――この子たちは、本当に私に会いに来ているのだろうか。
この家に来たいだけなんじゃないか。
子どもながらに、そんな寂しさを感じていた。
私は、与えられた舞台の上で、「いい子」を演じていたのかもしれない。
大人になり、自分も親になって初めて、あの日の母の大変さがわかった。
あれは間違いなく愛情だった。
でも同時に、その「完璧すぎる愛」は、私から少しずつ“自分で選ぶ力”を奪っていたのだと思う。
守られすぎるということは、自分で失敗する機会も、自分で誰かを選ぶ経験も持てないということだった。
小学生になる頃には、私は外の世界との小さな「ズレ」を感じ始めていた。
その頃、仲が良かったのが朝子だった。
朝子はよく私の家に遊びに来て、ときには家族ぐるみで旅行へ行くこともあった。
うちの両親は仲が良く、家の中はいつも穏やかだった。経済的にも余裕があり、不自由を感じることはほとんどなかった。
けれど、朝子の家は少し違っていた。
詳しく聞いたことはない。でも、朝子がふと見せる表情や、家の空気感でなんとなく伝わってきた。
「佳乃の家っていいよね」
その言葉を、私は何度も聞いた。
もちろん、自分が恵まれていることはわかっていた。
それでも私は、どこか現実から切り離されているような、不思議な頼りなさを感じていた。
両親のお金の使い方に違和感を覚えることもあったし、「世間」と少しズレている気がすることもあった。
――このままではいけない。
――外の世界を、自分の目で見なければ。
そんな思いが、子どもの頃から私の中にずっとあった。
後になって、
「恵まれていたのに、何が不満だったの?」
と聞かれることが何度もあった。
でも、うまく答えられなかった。
守られているということは、一度も人生のハンドルを握らせてもらえないことでもあったからだ。
そして二十三歳の春、私は突然、日本を飛び出した。
行き先は、中国だった。
高校の修学旅行で初めて訪れたとき、私は強い衝撃を受けた。
整えられた日本の生活にはない、人の熱気。雑多で、埃っぽくて、でも力強い空気。
土産物屋で出会った青年と、言葉が通じないまま笑い合った瞬間の高揚感を、私は忘れられなかった。
帰国後も、中国から届く薄い手紙を見るたびに、「外の世界」への憧れは強くなっていった。
あの頃の私には、日本という場所が少し息苦しく感じられていた。
安全で、穏やかで、守られている。
でもそのぶん、自分の人生を生きている実感が持てなかった。
中国へ行くという決断は、私にとって初めての「自分で選ぶ人生」だったのだと思う。
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離婚後、セラピストになった私の記録
離婚後、古いアパートから始まった“第二の人生”。 セックスレス、孤独、自立、そして「触れる仕事」との出会い。 四十代でマッサージを学び、…
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