なぜ「男性を女子トイレや女湯から排除する」のがこんなに難しいのか。おかしいのではないか。
女子トイレや女湯について考えるとき、まず非常に単純なところから出発したい。
なぜ「男性を入れない」というだけのことが、これほど難しい問題になっているのだろう。
女子トイレは女性のためのトイレであり、女湯は女性のための浴場である。
男女別に施設を分ける以上、そこには当然、
「女性側には男性を入れない」
という意味があるはずだ。
ところが現在、この当たり前だったはずの原則を確認しようとすると、話が急に複雑になる。
「戸籍上の性別はどうなのか」
「ジェンダーアイデンティティはどうなのか」
「性別変更をした人はどう扱うのか」
「外見をどう判断するのか」
「トランスジェンダーへの差別にならないか」
さまざまな論点が持ち込まれる。
しかし、ここで一度、制度の目的に戻って考える必要がある。
女子トイレを男女別にする意味は何なのか
もし利用者をジェンダーアイデンティティだけで区別するのであれば、男女別施設の境界は第三者には確認できない。
一方、男女別トイレや男女別浴場は、もともと利用者のプライバシー、羞恥、安全などを考慮して、男女を分離してきた制度である。
特に女湯では、この問題はさらに明瞭になる。
女性が裸になる場所を男女別にする大きな理由の一つは、女性が男性と同じ空間で裸にならなくて済むことにある。
それなら制度設計で最初に問うべきなのは、
「誰が女性を自認しているか」
ではなく、
「何を基準として男女を分ける制度なのか」
のはずだ。
「女性スペースから男性を排除する」は、男性差別なのか
ここで「排除」という言葉に抵抗を感じる人もいるだろう。
しかし、男女別施設とは、そもそも一定の人を反対側から排除することで成立する制度である。
男子トイレから女性を排除し、女子トイレから男性を排除する。
男湯から女性を排除し、女湯から男性を排除する。
それ自体を不当な差別だとするなら、男女別施設そのものが成立しない。
問題になるのは「排除が存在するか」ではなく、その区別に合理的な目的があるかである。
プライバシーや羞恥、安全確保のために生物学的性別(sex)によって空間を分けることには、少なくとも検討されるべき明確な目的がある。
なぜ話がここまで複雑になったのか
大きな原因の一つは、現在の「性別」という言葉が、性同一性障害とによって、複数の異なる概念を指すようになったことだ。
生物学的性別(sex)。
戸籍上の性別。
ジェンダーアイデンティティ。
これらを全部「性別」という一語で処理しようとすると、議論がおかしくなる。
たとえば戸籍上の性別を変更できる制度が存在する以上、
「戸籍上女性であること」と「生物学的性別(sex)が女性であること」は、常に同じとは限らない。
すると、「女子トイレは女性が使うものです」と言っただけでは、肝心の「女性」が何を意味するのかが曖昧になってしまう。
本来なら、ここを曖昧にせず、
「この施設は何の目的で、何を基準として男女を分けるのか」
を明示すればいい。
女性側の権利も人権問題である
この議論では、ときどきトランスジェンダーの人の尊厳や不利益だけが「人権問題」として語られる。
しかし、それでは片方しか見ていない。
女性が、
「男性と同じ空間で着替えたくない」
「男性の前で裸になりたくない」
「排泄を行う私的空間には男性が入ってこないでほしい」
と求めることも、プライバシーや尊厳に関わる要求である。
トランスジェンダーの人の尊厳を守ることと、女性に生物学的性別(sex)に基づくプライバシー空間を保障することは、本来、二者択一である必要はない。
必要なら別の設備や選択肢を整備することもできる。
一方の権利を守るために、もう一方の権利を「偏見」として消してしまう必要はない。
原点に戻るべきだ
女子トイレや女湯について議論するとき、最初から難解なジェンダー論に入る必要はない。
まず確認すべきなのは、もっと基本的なことだ。
なぜ、この施設を男女に分けているのか。
そして、その目的が女性のプライバシーや安全、羞恥への配慮を含むのであれば、
「女性側の空間には男性を入れない」
という原則は、異常でも過激でもない。
むしろ男女別施設という制度そのものから自然に導かれる考え方である。
それなのに現在は、この単純な原則を説明するために、戸籍、ジェンダーアイデンティティ、性別変更制度、施設管理、差別概念まで持ち出さなければならなくなっている。
私は、そこに現在の議論の奇妙さがあると思う。
「なぜ男性を女子トイレや女湯から排除するのか」ではない。
男女別施設を維持するのであれば、本来問われるべきなのは、
「なぜ男性を女性側に入れる必要があるのか」
なのである。
