変わる「ジェンダーアイデンティティ」の概念

「ジェンダーアイデンティティ」という言葉は、ずっと同じ意味で使われてきた言葉ではありません。


だから、この言葉をめぐる議論は、しばしば噛み合いません。

ある人は、かなり素朴な意味で「自分は男だ/女だと分かっている感覚」として使っている。
「自分がどちらの生物学的性別に属するかを知っている感覚」として使ってる。
別の人は、「本人が内心で実感する生物学的性別とは別の性別」として使っている。
さらに別の人は、「その自己認識に合わせて、社会制度や他者の扱いを変えるべきだ」という主張まで含めて使っている。

同じ「ジェンダーアイデンティティ」という言葉を使っていても、指しているものが違うのです。

もともとは臨床的な概念だった


初期の「ジェンダーアイデンティティ」は、医療や心理、精神分析の文脈で語られていました。

そこでは主に、「自分は男性である」「自分は女性である」という自己認識や、性別に関する発達、違和感、役割意識などが問題にされていました。

つまり、これはまず記述的な概念でした。

人は自分の性別をどう理解しているのか。
その理解はどのように形成されるのか。
生物学的性別との不一致がある場合、本人の苦痛や社会生活上の困難をどう扱うのか。

そういう臨床的な問いの中で使われていた言葉だったわけです。

この段階では、「ジェンダーアイデンティティがある」と言っても、それは必ずしも「社会制度を本人の申告に合わせなければならない」という意味ではありませんでした。

あくまで、本人の自己理解や違和感をどう理解するか、という話だった。

それが診断名・医療制度の中に入った


その後、この概念は「性同一性障害」などの診断分類と結びついていきます。

ここで重要なのは、当時の制度は「誰もが自由に性別を選べる」という発想ではなかった、ということです。

むしろ、本人の生物学的性別と自己認識のあいだに深刻な不一致があり、それが持続し、強い苦痛や生活上の困難を生んでいる場合に、医療の対象として扱う、という構造でした。

日本の性同一性障害特例法も、もともとはこの流れの中にあります。

つまり、「ジェンダーアイデンティティ」や「性自認」があるから戸籍上の性別変更を認める、というより、性同一性障害という医療的診断があり、一定の要件を満たすから、例外的に戸籍上の性別変更を認める、という制度設計だったはずです。

ここでもまだ、話の中心は医療です。

本人の内面の自己申告だけで社会制度を変更するというより、診断、治療、手術、生活実態などを含めた特例的な扱いとして考えられていました。

そして「人権」や「自己決定」の言葉になった


ところが近年、「ジェンダーアイデンティティ」は、医療や診断の枠を離れて、人権、尊厳、自己決定、差別禁止の言葉として使われるようになりました。

ここで概念の性質がかなり変わります。

かつては、

「本人が自分の性別をどう認識しているか」

という記述的な概念だったものが、現在ではしばしば、

「本人が自認する性別は社会的に尊重されるべきである」
「他者はその性別として扱うべきである」
「制度も本人のジェンダーアイデンティティに合わせるべきである」

という規範的な主張と一体化しています。


ここが大きな変化です。

単なる自己認識の説明だったものが、他者や制度への要求を含む概念になっている。

だから、同じ「ジェンダーアイデンティティ」という言葉でも、昔の用法と現在の用法では、議論の射程が違うのです。

「自分はこの人たちと同じ側だ」という感覚

たとえば、「自分はこの人たちと同じ側だ」と感じることがあります。

女性が女性たちの話を聞いて、これは自分にも関係する問題だと感じる。
女性差別の話を聞いて、自分の側の問題だと受け止める。
女性専用空間の話で、そこに男性を入れないでほしいと感じる。

これは確かに、本人の内側にある感覚です。

では、これも「ジェンダーアイデンティティ」なのでしょうか。

これはまず「帰属意識」と呼ぶべきものだと思います。

人間には、自分がどの集団に属しているかを認識する力があります。
国籍、地域、職業、世代、障害経験、階級、家族、文化、趣味、政治的立場。
いろいろな場面で、人は「こちら側」と「あちら側」を感じます。

「この人たちは自分と同じ側だ」
「この人たちの不利益は、自分にも関係する」
「この集団の問題は、自分の問題でもある」

これは性別に限った話ではありません。

女性が女性たちに対して感じる連帯や帰属意識も、その一つです。

もちろん、それは生物学的性別と無関係ではありません。
女性は、自分が女性であるからこそ、女性に対する差別や危険や不利益を、自分に関わるものとして受け取る。

けれど、それをただちに「ジェンダーアイデンティティ」と呼ぶと、話がずれていきます。

「帰属意識」まで性自認に回収される危うさ

問題はここです。

女性が「私は女性だ」と理解している。
女性が「女性たちは自分と同じ側だ」と感じている。
女性が「女性の権利を守りたい」と考えている。

それを見て、

「ほら、あなたにもジェンダーアイデンティティがあるでしょう」

と言われる。

そしてそこから、

「すべての人にジェンダーアイデンティティがある」
「だから他人のジェンダーアイデンティティも尊重しなければならない」
「だから本人の性自認に合わせて、制度も扱いも変えるべきだ」

という話に進んでいく。

これは飛躍です。

女性が女性として女性側に立つことと、
生物学的性別とは別の内的な性別を制度上の基準にすることは、同じ話ではありません。

女性が女性であることを理解していることと、
男性が「自分は女性だ」と申告することも、同じ構造ではありません。

女性が女性集団への帰属意識を持つことと、
その帰属意識を根拠に、他者や制度の側が本人の申告に合わせなければならないという話も、別です。

ここを混ぜると、「女性が女性として声を上げること」まで、性自認論の根拠に回収されてしまう。

そこに強い違和感があります。

概念が変わったなら、議論の前提も確認すべき

「ジェンダーアイデンティティ」という言葉を使うなら、まず確認すべきです。

それは、単なる自己認識の話なのか。
臨床的な概念なのか。
医療上の診断や治療と関係する話なのか。
本人の内的実感の話なのか。
それとも、社会制度を本人の申告に合わせるべきだという政治的・法的主張なのか。

この確認をしないまま、「ジェンダーアイデンティティ」という言葉だけで議論を進めると、まったく別の話が一つの言葉に押し込まれます。

そして、その曖昧さは、しばしば女性の権利を後退させる方向に働きます。

なぜなら、「本人の内面の性別を尊重する」という言葉が、いつの間にか「女性専用空間に男性を入れるかどうか」という現実の制度問題に接続されるからです。

女性が問題にしているのは、内面の自己理解ではありません。

女性専用施設に男性を入れないでほしい。
女湯に男性を入れないでほしい。
女子トイレに男性を入れないでほしい。
女子スポーツを生物学的性別に基づいて維持してほしい。

これは、女性の身体、尊厳、安全、平等に関わる具体的な問題です。

そこに対して、「でもジェンダーアイデンティティは尊重されるべきだ」と返されても、論点は解決しません。

なぜなら、その「ジェンダーアイデンティティ」という言葉自体が、時代によって、文脈によって、意味を変えてきたからです。

言葉が変わると、制度も変えられてしまう

概念の変化は、ただの言葉遊びではありません。

言葉の意味が変わると、制度の意味も変わります。

かつては、性同一性障害という医療的診断を前提に、例外的に扱われていたものが、いつの間にか「本人の性自認を尊重する制度」に変わっていく。

かつては、苦痛や治療や社会生活上の困難をどう支援するかという話だったものが、いつの間にか「本人が申告する性別を社会が承認すべきだ」という話になる。

かつては、慎重な要件のもとで戸籍上の性別変更を認める制度だったものが、いつの間にか、要件そのものが差別的だとされるようになる。

この変化を見ないまま、「昔からジェンダーアイデンティティは大事だった」とだけ言うのは不十分です。

問題は、「大事かどうか」ではありません。

何を意味する言葉として使っているのか。
その言葉によって、誰に何を求めているのか。
その結果、誰の権利が制限されるのか。

そこを問わなければならない。

女性の帰属意識を、性自認論に利用しないでほしい

女性が女性として女性側に立つことは、自然なことです。

女性が女性差別に怒ることも、自然なことです。
女性が女性専用空間を守りたいと思うことも、自然なことです。
女性が「これは自分たちの側の問題だ」と感じることも、自然なことです。

それは「内的なジェンダーアイデンティティ」の証明ではありません。

それは、女性が女性として生きているという現実から生まれる帰属意識です。

女性は、自分が女性であることを、特別な内面の感覚として証明したいわけではありません。
女性は、女性として扱われ、女性として差別され、女性として危険にさらされ、女性として制度の影響を受けている。

その現実に基づいて、女性側に立っている。

それを「あなたにも性自認がある」と言い換える必要はありません。

まして、その言い換えを使って、「だから他人の性自認も制度上尊重しなければならない」と進めるのは、論点のすり替えです。

問うべきなのは「どの意味で使っているのか」

「ジェンダーアイデンティティ」という言葉は変わってきました。

自己認識の言葉だった。
臨床の言葉だった。
診断の言葉だった。
人権の言葉になった。
制度変更を求める言葉にもなった。

だからこそ、この言葉が出てきたときには、必ず問うべきです。

それは、どの意味のジェンダーアイデンティティなのか。

単に「自分は男だ/女だと分かっている」という話なのか。
生物学的性別との不一致による苦痛の話なのか。
本人の内的実感の話なのか。
それとも、他者や制度がその実感に従うべきだという話なのか。

この区別を曖昧にしたままでは、議論は成立しません。

「ジェンダーアイデンティティ」という言葉が変わってきたのなら、その変化をきちんと見なければならない。

そして、変わった概念を使って、女性の権利や女性専用空間の意味まで変えようとするなら、それにははっきり反対しなければならない。

女性が女性であること。
女性が女性側に立つこと。
女性が女性の権利を守ろうとすること。

それは、性自認論の材料ではありません。
それは、女性が女性として生きている現実そのものです。

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