「シス」という言葉は、いつから当たり前になったのか

ずっとこの界隈を見ている人なら、たぶん分かるはずです。
「あれ、最近になって“シス”って言葉が出てきたな」
と。

もちろん、「シス」という語そのものが、最近になって突然発明されたわけではありません。英語圏では “cisgender” という語の使用例は1990年代から確認されており、Merriam-Webster も “cisgender” の初出例を1994年としています。

つまり、語としては前からあった。

しかし、大事なのはそこではありません。

問題は、「その言葉が、いつから運動の場で広く使われるようになったのか」です。

その転機の一つが、2007年に刊行されたジュリア・セラーノの著書『Whipping Girl: A Transsexual Woman on Sexism and the Scapegoating of Femininity』です。
同書は、トランス女性、フェミニズム、女性性への軽視、トランス女性への差別などを論じた本で、英語圏のトランス・アクティビズムやフェミニズムの議論に大きな影響を与えました。

セラーノ自身も、「cisgender」「cissexual」「cissexism」「cisgenderism」といった語について、自分が発明したわけではないが、それ以前にはトランス活動家の間でまれに、散発的に使われていた語だった、と説明しています。つまり、2007年の『Whipping Girl』以降、それらの言葉が運動の語彙として広がる大きな契機になった、という見方はかなり自然です。

ここで整理しておきたいのは、「シス」は最初から一般社会の言葉だったわけではない、ということです。

まず、トランス運動の内部で、トランスではない人々を名指すための対概念として使われた。
その後、英語圏のフェミニズム、クィア理論、トランス・アクティビズムの文脈で広がっていった。
そしてさらに遅れて、日本語圏にも輸入されてきた。

だから、日本で長く女性差別や性別の議論を見てきた人が、「昔はこんな言い方をしていなかった」「最近になって急に“シス女性”という言葉が増えた」と感じるのは、かなり自然なことです。

昔から女性は「女性」でした。
男性は「男性」でした。

そこに後から、「シス女性」「シス男性」という分類が持ち込まれた。

この順番が大事です。

もともと社会にあった分類は、女性と男性です。
その後、トランス概念を中心に置く理論体系が入り、トランスではない女性や男性を説明するために、「シス」というラベルが付けられた。


つまり、「シス」とは、女性や男性が自分たちを説明するために作った言葉ではありません。

トランス概念を中心に据えたときに、「トランスではない人々」を名付けるために作られ、広げられた言葉です。

ここに、多くの女性が感じる違和感の核心があります。

女性は、自分たちの経験を語るために「シス女性」という言葉を必要としてきたわけではありません。

女性差別、性暴力、妊娠、出産、月経、女子トイレ、女湯、更衣室、女子スポーツ。
これらは、性自認体系の中で「シス」と名付けられたから問題になったのではありません。

女性が女性として、男性とは異なる扱いを受け、男性からの加害リスクにさらされ、だからこそ女性専用空間や女性カテゴリーを必要としてきた。

それが先にある現実です。

ところが、「シス女性」という言葉を使うと、その現実が、後から来た理論の中に回収されます。

女性が「女性」として語っていた問題が、いつの間にか「シス女性の問題」とされる。
そして「シス女性」と並べて、「トランス女性」も同じ「女性」の下位分類として置かれる。

この時点で、議論の土台はすでに変わっています。

「女性と男性をどう分けるか」という話ではなく、
「シス女性とトランス女性をどう包摂するか」という話に変わっている。


これは単なる言い換えではありません。
分類体系の変更です。

「女性」と言えば足りていたものが、「シス女性」と呼び直される。
「男性」と言えば足りていたものが、「シス男性」と呼び直される。

その瞬間、何が起きているのか。

それは、「女性/男性」という生物学的性別に基づく分類が、いつの間にか「性自認を中心にした分類」の中へ組み込まれている、ということです。

つまり、「女性」という言葉が、そのままでは使いにくくされている。

女性は、女性であるだけではなく、「出生時に女性とされ、なおかつ自分を女性だと思っている人」という、性自認体系の一部として再定義される。

男性も同じです。

この言い換えは、一見すると中立的な整理に見えます。
しかし実際には、かなり強い思想を含んでいます。

なぜなら、「シス」という言葉を使う時点で、前提として「性別とは、身体ではなく性自認を中心に理解するものだ」という枠組みを受け入れてしまうからです。

多くの女性は、自分のことを「自分はシス女性である」と認識して生きてきたわけではありません。

自分は女性である。
身体が女性だから。
社会の中で女性として扱われ、女性差別を受け、女性専用空間を必要としてきた。

それだけの話です。

ところが、「あなたはシス女性です」と名付けられると、その女性の経験は、性自認論の中の一分類に置き換えられてしまう。

女性は、自分で選んだわけでもない理論体系の中に、勝手に配置される。

ここに違和感があります。

たとえば、女性差別の話をしている時に、「それはシス女性だけの話ですか?」と言われる。

女湯、更衣室、女子トイレ、女子スポーツ、性暴力、妊娠、出産、月経、身体的な力の差、男性からの加害リスク。
そうした具体的な問題を話している時に、「シス女性」という言葉が差し込まれる。

すると、話の中心がずれてしまう。

本来は、「女性が男性からどう守られるか」という話だったはずです。
ところが、「性自認が女性である人をどう包摂するか」という話に変えられてしまう。

ここで、女性の問題が、女性の問題ではなくなる。


「シス」という言葉の怖さは、そこにあります。

それは単なる説明語ではありません。
議論の前提を、静かに置き換える言葉です。

女性が「私は女性です」と言った時に、「あなたはシス女性ですね」と言い直される。
男性が「私は男性です」と言った時に、「あなたはシス男性ですね」と言い直される。

この言い直しには、「あなたが自分をどう理解しているか」よりも、「こちらの理論ではあなたはこう分類されます」という力があります。

それは本当に中立的な言葉なのでしょうか。

もちろん、本人が自分をそう呼びたいなら、それは自由です。
自分の立場を説明するために使う人もいるでしょう。

しかし、他人に対して当然のように使うこと、特に女性差別の議論において「女性」という言葉を避け、「シス女性」と呼ばせようとすることには、強い政治性があります。

女性は、女性です。

女性差別は、「シス女性差別」ではありません。
女性専用空間は、「シス女性専用空間」ではありません。
女湯は、「シス女性と、性自認が女性の人のための空間」ではありません。
女性スポーツは、「シス女性カテゴリー」ではありません。

それらは、女性を男性から分けるために作られてきた制度です。

そこに「シス」という言葉を持ち込むと、制度の根拠が変わってしまう。

女性を男性から守るための分類だったものが、性自認を尊重するための分類にすり替わる。

だから、この言葉がいつから、どのように広がったのかを見ておく必要があります。

昔からこの界隈を見ている人なら、分かるはずです。

最初から「シス」という言葉が当たり前だったわけではない。
ある時期から急に、当然の前提のように使われ始めた。
そして、その言葉が広がるにつれて、「女性」という言葉の意味も、少しずつ変えられていった。

これは偶然ではありません。

言葉を変えることは、現実の見方を変えることです。
現実の見方が変われば、制度の設計も変わります。
制度の設計が変われば、女性の権利も変わります。

だから、「シス」という言葉に違和感を持つことは、単なる言葉狩りではありません。

それは、「女性」という言葉を、女性の手元に残しておくための抵抗です。

女性は、性自認体系の中の一分類ではありません。
女性は、女性です。

そして女性差別をなくすためには、まず「女性」という言葉を、勝手に別の理論へ回収させないことが必要です。

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