女性差別に反対しないフェミニズム
高井ゆと里の「トランスフェミニズム」について考えていて、どうしても引っかかることがある。
それは、彼のやりたいことは、本当に「女性差別に反対すること」なのだろうか、ということだ。
もちろん、男性がフェミニズムを支持することには何の問題もない。
男性が、
「女性が生物学的性別(sex)を理由に差別されるのはおかしい」
「女性に対する暴力をなくそう」
「女性の権利を守ろう」
と言うのであれば、それは女性差別への反対である。
しかし、「トランスフェミニズム」で語られていることは、それとは違う。
高井は「トランスジェンダーの解放のためにはフェミニズムが必要」と述べ、トランスジェンダーの経験がフェミニズムを豊かにすると主張している。
ここでは、フェミニズムが「女性差別をなくすための運動」であるだけでなく、「トランスジェンダーの解放」のための理論として再構成されている。
この違いは小さくない。
誰の、何に対する差別を問題にしているのか
フェミニズムが歴史的に問題にしてきた中心には、女性が女性であること、つまり生物学的性別(sex)を理由として受ける差別がある。
女性参政権、教育、雇用、賃金、妊娠・出産、性暴力、家庭内暴力など、女性差別の多くは、女性がどのようなジェンダーアイデンティティを持っているかとは無関係に発生する。
女性差別の対象になるために「自分は女性だ」というアイデンティティを持っている必要はない。
だからこそ、フェミニズムには「女性」という政治的カテゴリーが必要だった。
ところがトランスフェミニズムでは、その「女性」の意味そのものが変わってくる。
生物学的性別(sex)としての女性だけではなく、女性というジェンダーアイデンティティを持つ男性も「女性」としてフェミニズムの主体に含めようとするからだ。
すると議論は、
「男性も女性差別に反対しましょう」
ではなく、
「誰を女性と呼ぶのかを変更しましょう」
というところまで進む。
これはまったく別の話だ。
男性がフェミニストであることとは違う
男性のフェミニストが、
「私は男性だが、女性差別に反対する」
と言うのであれば、女性というカテゴリーを変更する必要はない。
ところが、
「男性が、私は女性であり女性としてフェミニズムの主体でもある」
となれば事情が変わる。
さらに、その立場から、
「フェミニズムは女性をこう定義すべきだ」
「女性専用空間はこうあるべきだ」
「女性というカテゴリーには自分たちも含まれるべきだ」
と要求するのであれば、女性差別への連帯を超えて、フェミニズムの主体そのものを再定義することになる。
私はここに大きな違和感がある。
フェミニズムは誰のためのものなのか
もちろん、トランスジェンダーの人々に対する不当な差別に反対することは必要だ。
しかし、それと女性差別は同じ問題ではない。
トランスジェンダーの権利運動には、トランスジェンダーの権利運動として追求すべき目的がある。
それを実現するために、なぜ「女性」というカテゴリーや「フェミニズム」という政治運動まで再定義しなければならないのだろう。
まして、その再定義によって、生物学的性別(sex)としての女性が必要としてきたカテゴリーや境界が失われるのであれば、フェミニズムの側から批判が出るのは当然だろう。
これは、
「男性はフェミニズムについて語るな」
という話ではない。
むしろ逆だ。
男性も女性差別に反対できる。
男性もフェミニズムを支持できる。
しかし、女性差別に反対することと、別の政治目的を実現するためにフェミニズムの目的や主体を作り替えることは同じではない。
「女性を助けるためにフェミニズムに参加する」のと、
「自分たちを包摂するようフェミニズムそのものを変更する」のとでは、意味が違う。
私が「フェミニズムまで奪われる」と感じるのは、まさにこの点なのである。
