「女性に見えること」から「トランスであることを見せる」へ――サンディ・ストーンとクィア以後のトランス運動
かつてのトランスセクシュアルの典型的な目標は、かなり単純だった。
男性として生まれた人が女性として生活するのであれば、できるだけ女性として社会に溶け込み、「トランスであること」を他人に気づかれないようにする。
いわゆる passing(パッシング) である。
ところが、1980年代末から90年代にかけて登場するクィア理論やトランスジェンダー研究では、この価値観そのものが批判の対象になっていく。
その象徴的な文章が、サンディ・ストーンの
『The Empire Strikes Back: A Posttranssexual Manifesto』
である。
サンディ・ストーンは「passing」を批判した
ストーンは1988年に最初に発表し、1991年に出版されたこの論文で、従来のトランスセクシュアルについて、
「社会の中で普通の男性または普通の女性として認識され、過去を消して生きること」
が成功とされてきた、と論じた。(EFF)
ストーンが問題にしたのは、まさにこの「消えること」だった。
passingに成功すれば、その人はトランスセクシュアルとしては社会から見えなくなる。
過去の男性としての経歴も隠し、「最初から女性だったかのようなもっともらしい履歴」を作る。
ストーンはこれを、単なる個人的な処世術としてではなく、政治的な問題として捉えた。
彼女によれば、トランスセクシュアルが皆このように社会へ溶け込んでしまえば、「トランスセクシュアルとして語る主体」が社会から消えてしまう。
だからストーンは、トランスセクシュアルがトランスセクシュアルとして語ることを求めた。(EFF)
これは重要な思想的転換である。
従来のモデルでは、
「女性に見えること」が成功だった。
しかしストーンの「posttranssexual」という構想では、
「自分がトランスであることを消さないこと」に政治的価値が生まれる。
「違和感」を消すのではなく、むしろ利用する
さらにストーンは一歩進む。
彼女は、トランスセクシュアルを単純な「第三の性別」として位置づけるのではなく、既存の男女二元論を攪乱する可能性を持った存在として論じた。
つまり、
「男性に見える/女性に見える」
という既存の分類に完全に収まることを目指すのではない。
むしろ、身体、服装、ジェンダー表現、経歴などの間に生じる不一致や曖昧さそのものを可視化する。
ストーンは、その「dissonance(不協和)」が、既存のジェンダー秩序を揺さぶる力を持つと考えた。(EFF)
ここから、
「トランス女性が女性に見えること」そのものを最終目標としない思想
が出てくる。
むしろ、
「私はトランスジェンダーである」
と分かる状態で社会に存在すること自体が、政治的な意味を持つようになる。
これはクィア思想と非常に相性がいい
ほぼ同じ時期に登場したクィア理論も、同じ方向を向いている。
クィア理論は単に、
「同性愛者やトランスジェンダーを差別しないでください」
という理論ではない。
もっと根本的に、
「男/女」
「異性愛/同性愛」
「正常/逸脱」
といった社会のカテゴリーそのものを問い直す。
Stanford Encyclopedia of Philosophyも、クィア・ポリティクスの特徴を、gay/lesbian/heterosexualなど既存のカテゴリーそのものを「troubleする」ことにあると説明している。(スタンフォード哲学百科事典)
つまりクィアの発想では、
少数者が多数者社会にうまく同化すること
だけが解放ではない。
むしろ、
「正常とは何か」を決めている社会の側を揺さぶること
にも政治的価値が置かれる。
そのため、クィア理論とストーンのposttranssexual思想は非常に親和性が高い。
「女性として埋没する」ことと「トランスとして可視化される」ことは逆方向である
ここで、昔ながらのトランスセクシュアル像との違いがはっきりする。
昔の発想なら、
手術をする
外見を女性に近づける
女性として社会生活を送る
過去を知られない
トランスであることを意識されない
という方向が「成功」である。
最終的には、
「ただの女性として生活する」
ことを目指す。
しかしクィア/posttranssexual的な政治では、完全に埋没してしまうと困る。
なぜなら、トランスであることが誰にも分からなくなれば、
トランスという政治的主体そのものが不可視化されるからだ。
そこで逆に、
トランスであることを公言する
トランスというカテゴリーを可視化する
男女の境界を越える表現を積極的に行う
「普通の男性/普通の女性」への同化を唯一の成功モデルとしない
という方向が出てくる。
これは偶然ではない。
思想的にはかなり一貫している。
だから「トランス女性は女性に見えることを目指している」とは限らない
ここは現在の議論を見る上でも重要だと思う。
もちろん、個々のトランス女性の中には、
「できるだけ女性に見られたい」
「トランスだと知られずに生活したい」
と考える人もいる。
それは個人の生活上の希望であり、クィア理論とは別の話である。
しかし、クィア理論に強く影響された現代のトランス運動の一部では、それとは違う政治思想が存在する。
そこでは、
「女性に見えること」よりも、「トランスとして存在すること」そのものが価値になる。
そして、
「男性/女性のどちらかに完全に同化しなければならない」
という要求そのものが、批判される。
サンディ・ストーンが批判したpassingとは、まさにその問題だった。(EFF)
「埋没」から「可視化」への転換
したがって、トランス運動の思想史を見る場合、
「男性が女性になろうとしてきた歴史」
とだけ理解すると、1990年代以降の変化を見落としてしまう。
少なくともクィア/posttranssexualという系譜では、
女性として完全に社会へ埋没すること
から、
トランスジェンダーという差異を社会に可視化し、その差異によって既存のジェンダー秩序を問い直すこと
へと政治的重点が移っている。
サンディ・ストーンは、その転換を非常にはっきりと言語化した人物だった。
だから現代のクィア的トランス運動を理解するには、
「なぜ女性として完全にpassingすることを目標にしないのか」
と考えるより、
「そもそもpassingして社会から消えることを、政治的な敗北と考える思想が登場した」
と理解した方が分かりやすい。
「女性に見えること」を目的とする思想と、
「トランスであることを見せること」に政治的意味を与える思想。
この二つは、同じ「トランス」という言葉の中に存在しているが、目指している方向はかなり違うのである。
