トランスに乗っ取られた「フェミニズムはみんなのもの」
「フェミニズムはみんなのもの」。
この言葉を聞けば、誰も排除しない、開かれた運動という意味に聞こえる。
このフレーズを広く知らしめたのは、ベル・フックスの2000年の著書『Feminism Is for Everybody: Passionate Politics』だ。
しかし、フックスが言っていた「みんなのもの」と、現在しばしば語られる「みんなのもの」には、大きな違いがあるのではないか。
「みんなのもの」は「誰でも女性になれる」という意味ではなかった
フックスはフェミニズムを、
“a movement to end sexism, sexist exploitation, and oppression”
つまり「性差別、性差別的搾取、抑圧を終わらせる運動」と定義した。
ここでの「Feminism is for Everybody」は、女性だけがフェミニズムに参加できるという意味ではない、という主張だった。
男性も性差別に反対できる。
男性も女性差別をなくすために行動できる。
だから、フェミニズムは「みんなのもの」である。
これは理解できる。
しかし、
「誰でもフェミニズムに参加できる」ことと、「誰でも女性というカテゴリーの当事者になれる」ことは、まったく別の話である。
ここを混同してはいけない。
「参加できる」と「主体になれる」は違う
たとえば、男性が女性差別に反対することには何の問題もない。
男性が性暴力について学び、女性に対する暴力を減らそうとすることもできる。職場における女性差別に反対することもできる。
しかし、それによって男性自身が「女性差別を受ける女性」になるわけではない。
これは当たり前の区別だったはずだ。
ところが、「フェミニズムはみんなのもの」という開放性が、
「フェミニズムに参加するために女性である必要はない」
から、
「そもそもフェミニズムにおいて女性というカテゴリーを限定する必要がない」
という話へと変質してしまうことがある。
私はここに問題があると思う。
「女性とは誰か」を男性側から書き換える
さらに問題になるのが、トランスフェミニズムとの関係である。
男性が、
「女性差別に反対します」
と言うのであれば、私は歓迎する。
しかし、
「自分も女性である」
「自分も女性差別の当事者である」
「女性というカテゴリーを生物学的性別(sex)で限定すること自体が差別である」
「女性専用空間から自分を排除することは女性差別の問題である」
となれば、話はまったく違ってくる。
これは単に男性がフェミニズムに「参加」しているのではない。
フェミニズムが何を女性と呼び、誰のために存在し、何を差別として扱うのかという定義そのものに介入している。
「みんな参加していいよ」という話だったはずが、「参加した人が女性という言葉の意味まで変更できる」という話になってしまう。
女性差別には対象がある
フェミニズムを「女性差別に反対する運動」と考えるなら、その差別が誰に対して、何を理由として行われてきたのかを曖昧にすることはできない。
妊娠、出産、月経。
女性に対する性暴力。
女性器切除。
強制結婚。
女子教育の制限。
女性の参政権の否定。
こうした問題は、「自分を女性だと思っている人」に対して歴史的に行われてきたわけではない。
女性という生物学的性別(sex)を持つ人々に対して行われてきた。
だからこそ、フェミニズムには女性という政治的カテゴリーが必要だった。
「みんなのもの」が「女性のものではない」に変わるとき
「フェミニズムはみんなのもの」という言葉そのものに、私は反対しない。
男性も参加すればいい。
トランスジェンダーの人も、ノンバイナリーの人も、女性差別に反対すればいい。
しかし、参加することと、運動の対象を書き換えることは別である。
女性差別に反対するために、男性を女性と定義する必要はない。
むしろ「誰でも参加できる」という理念を守るためにこそ、
「誰が参加できるか」と「誰が女性なのか」を切り離さなければならない。
ベル・フックスの「Feminism is for Everybody」は、本来、フェミニズムへの入口を広げる言葉だった。
それが「女性というカテゴリーまで万人に開放しなければならない」という意味に読み替えられるなら、話は逆転する。
「フェミニズムはみんなのもの」が、
「フェミニズムは女性だけのためのものではない」
という意味を越えて、
「フェミニズムにおいて女性が何者なのかさえ、女性だけでは決められない」
という意味になったとき。
私はそれを、フェミニズムの包摂ではなく、フェミニズムの乗っ取りだと考える。
