五十代主婦、マインドフルネスで嫉妬を手懐けようとする
フランス語講師のRyokoさんからフランス語を習う、という名目で単なるお喋りの時間を確保している。
私は書くことも読むことも好きだけれど、語学の習得や国語学的な分野は正直、あまり強い興味がない。Ryokoさんが久々に日本に帰国して、オンラインでフランス語講座を始める、というときに、初心者モニターになって欲しい、と言われ引き受けたのだが、もともとそこまでフランス語にかける情熱がない生徒なのでモチベーションが足りない。ひと通り、「超初心者向けコース」のモニターとなった後、ふと『星の王子さま』を原文で読み聞かせられたい、という衝動にかられた。
原文で読みたい、ではない。本場の発音で朗読してもらいたかったのだ。しかもRyokoさんは、うっとりするような美声である。
それから足掛け三年が経とうとしている。
お喋りばかりしているからいっこう「『星の王子さま』読み聞かされ計画」は進まない。あるときからは「せっかくだからディクテーションしてみよう」みたいな思い付きで、「Ryokoの美声+みらいの追っかけ読み」が始まった。そのせいで、ますます、進捗しない。
そんな遅々とした進み具合のなか、ついに先日『星の王子さま』における自分史上最大の問題個所に到達した。
それは、なにか。
そう。”Apprivoiser”問題だ。
これについては、以前、少し書いたことがある
この感想文は「読書の秋2021」で賞をいただいたものだが、この中で私は、「内藤濯訳がどうもしっくりこなかった」場面のひとつとして「王子さまとキツネが出会う場面」を例に挙げている。
砂漠で出会ったキツネは、初めて会った王子さまに何とも言えない距離を置く。「ぼくと遊ばないかい?」と誘う王子さまに、キツネは言う。「おれ、あんたと遊べないよ。飼いならされちゃいないんだから」(内藤濯訳)。
その後、キツネは「仲良くなるにはどうしたらいいか」ということを語るのだが、とにかく子供のころの私は「仲良くなる」=「飼いならされる」という言葉に、単純に抵抗を覚えたのだった。そしてその「飼いならす」という単語こそが、”Apprivoiser”であった。
ようやく「キツネのシーン」に到達した私とRyokoさんとの会話は白熱した。「馴染みになる」「懐く」「懐に入る」など、いろいろな訳が飛び出したが、どれも”Apprivoiser”にはぴったりこない、とRyokoさんは言った。実は「飼いならす」は、フランス語の語感としては間違っていないのだという。”Apprivoiser”は動物に対して用いる言葉で、本来、対人間に用いる言葉ではないらしい。だからなぜ、作者のサン=テグジュペリが擬人化したキツネに対しそれを用いたのか、ほかのところで女性にもよくその単語を用いたのか。そこがわからない、と。
例えば、時代。サンテックス(サン=テグジュペリの愛称)の時代は動物や女性に対して人間や男性が優位であるというのが当たり前の時代だった。そしてそれは日本語訳をした内藤濯さんの生きた時代でも、さほど乖離はしていなかっただろう。版権が切れた後に日本語訳が数多く出版された際に、そこが時代的にそぐわなくなってきて、様々な訳が現れたのではないか。
もうひとつは、逆に、サンテックスは”Apprivoiser”をむしろもっと広義にとらえていて、ポジティブな意味で「絆を結ぶ」という、当時一般にとらえられていた以上の意味あいをもたせていたのではないか。
学者や研究者・専門家ではないので、そこはわからない。
さて、ここまでは前置きである。
先日、幾人かの相互フォローのかたの記事で、こちらの企画があることを知った。
この一連の記事タイトルに「嫉妬」という文字を見た時、私の心には、とっさに拒絶反応があった。「嫉妬」という字面だけで、「忌み嫌うもの」「禁忌」「醜い」「嫌」という単語や感情が「新しいタブ」のように立ち上がった。
そして、斉藤ナミさんは尊敬するエッセイストさんだが、実はまだ私は『褒めてくれてもいいんですよ?』を読んでいない。だからそもそも、この企画に参加する資格がないだろう、とも思った。それに少なくとも、私はキャラ的にそこ(嫉妬)を「出さない人」を演出してきた。気軽に迂闊に「嫉妬」について語ってはならない。これは参加してはいけないヤツだろう、距離をおくべし。
が。斉藤ナミさんの記事を読んで気が変わった。
さすがである。さすが斉藤ナミさんである。この、人に影響を与える文章の威力の絶大なこと。
私自身の内的な問題としては「嫉妬」はラスボスに位置している。全人類的にはどうだかわからないが、仏教などではかなりラスボス的位置に鎮座していると思う。悪いけど、生きている間にクリアできる問題ではない。クリア出来たらむしろすごい。解脱できる。
ただし「嫉妬がラスボスである」ことを認識できるかできないかは、魂のクオリティに関わる、と思っている。藤井風さんなんかはずいぶん若い時にこういう問題を曲にしている。さらっと「カミサマ」なんて言いながら自分の中の「三毒」「本能」「煩悩」のような「動物」と闘う歌を歌ったりしている(『へでもねーよ』)。
そう。動物なのだ。「動物的な本能」「理性では覆すことの困難な欲望」。Ryokoさんと話して、さらには、何度も繰り返し聞いた藤井さんの曲を聞いて、思うようになったこと。
「嫉妬」を”Apprivoiser”する。
おいそれとはできない。できたら解脱して輪廻の輪から抜けることができるしもう生まれ変わらなくて済むくらいの大事業である。だからおそらく、嫉妬そのものを「しないように」したり、「なく」したりすることはできない。でも、まあ、上手く「手懐ける」ことによって、少しは現世の苦しみが減るのではないか。
「嫉妬」は大変、苦しいものである。
生きていれば克服できる種類のものではなく、生きてなお、強くなっていく、クレッシェンド案件である。なぜなら、人は老いるから。
嫉妬を感じることが無い、という人にたまに会うが、それは単に己の中に住まう悪魔に気が付いていないだけなのだろうと思っている。あるいは、乗り越えたように錯覚しているだけなのだと。それは自己肯定感が高いとか低いとかそういう次元の問題ではない。コントロール不能な部分がかならず存在する。そしてそれこそが「人間」なのだと思う。主語がでかいが。
私の尊敬する大塚ひかりさんの著書に、『嫉妬と階級の「源氏物語」』がある。
この中で大塚さんは「嫉妬とは、近い関係のものほど激しくなる」とおっしゃっている。そして『源氏物語』の冒頭には「嫉妬と階級が描かれている」とし、身分の低い女が身分の高い男に熱愛されたために他人の嫉妬を買い、それにより殺されたのだと書いている。千年前の、日本最古の「物語」はそこが出発点なのだ、と。嫉妬が、いかに人間の内奥に根差した、根深いものか、ということだろう、と思う。
そしてその炎は「近い関係の者ほど激しい」。
たとえば、野球をやっている人が、大谷翔平に「憧れる」ことはあっても「嫉妬」することはなかなかなさそうである。よほど能力の近い人、同じチームで同じポジション、ということなら、もしかしたら感じている人もいるかもしれない。
憧憬や憧憬、羨望が、嫉妬に変わる、というのは、「身分や血縁関係、能力が近いなど、なにかしらの近さがあること」だと、大塚さんは言う。
「私と同じくらいの身分(容姿、才能、財産)なのに、あの人ばかりが出世する(愛される・人気がある・派手に暮らしている)」
ということが「激しい嫉妬」の正体らしい。
つまり、嫉妬する対象は、意識的にか無意識的にか、自分が「自分と同じよう」だと思っている人やモノゴトだということになる。もちろん、これは各人の性格や資質や特性にも関わることなので、人によって度合いは変わってくるだろう。「同じ親から生まれたのに」ならきょうだいに向かったりするが、「同じ学年なのに」「同じ地域なのに」「同じ女なのに」「同じ人間なのに」まで広げてしまうと、嫉妬対象はどんどん広がる。
「嫉妬」は醜く嫌らしい、蔑むべき感情なので、なんとか、押さえようと努力する。理性的な人ならばなおさら、そう言った感情を「感じないように」自分をコントロールしようとする。それがもとで、源氏物語の、六条の御息所は生霊になってしまった。
嫉妬を隠さない、ということには、ある種の勇気が必要で、小出しにして自らの「可愛げ」にする人もいるし、嫉妬をしている対象を「好敵手」として、一緒に向上しようとする人もいる。嫉妬を糧に、それを向上心や前進するエネルギーに変えていく人もいるだろう。
不安、恐怖、怒り、嫉妬といったネガティブな感情を自分の中で変換し、ポジティブな生命エネルギーにすることは、本当に大事なことだと思う。「悔しさをバネに」というものもそうだし、「いつかは私も」「きっと見返す」といった感情は、強い力を作りだす。それにはまず「嫉妬していること」を認め、気が付かなければならない。これが、相当に苦しい。ハードルが高い。
老人になると、加齢によって、その「変換機能」が衰えてくる。私は若い頃、老人になるにしたがって人間形成が完成に近づき、あらゆる経験が豊富になっているので、他人への嫉妬などを感じなくなるのだろうと思っていた。
ところが、加齢によってできなくなることが増える一方、「いつかは」が無くなっていることに、ある日、気が付く。「いつか私も/いつか見返す」の「いつか」は来ない。物理的な生命体としての時間が無くなってしまっているのだ。エネルギーにして燃やしても、行き場を失う。そもそも失ってしまった「若さ」に対して嫉妬するということが起きる。「いいわねえ、若くて」「まだまだこれからじゃないか」「もう十年、二十年若かったら」「おれも若かったらそのくらい」、そんな気持ちが知らず知らず、沸き起こる。
さらに加齢がもっと進むと、今度は「自分はあまり年を取っていない」「まだまだ若い」というバグ(認知の間違い)をひき起こす。若い人と同じことができる感覚に陥って、失敗するのだ。「年寄りの冷や水」とはよく言ったものだ。
これらはある意味「正しく嫉妬」していると、起こらないバグかもしれない。しかし「嫉妬」を拗らせることなく、正しく嫉妬する、というのは、高難易度のテクニックだと思われる。
そんなわけで、マインドフルネスである。
深呼吸をして、今、目の前にあることだけに集中する。他者と比較したり、ジャッジしたりせずに、ただ、あるがままを受け入れる。そして、不安や恐怖、怒りや嫉妬といったネガティブな感情を「手懐ける」。
てなことが、出来たらいい、と思う。
そう、これは願望。
時折、スマホをスクロールする手が止まる。
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私には誰かに嫉妬するような「身分」も「才能」も「財産」も「若さ」も「美貌」も「仕事」もないのだよと、自分に言い聞かせて、憧れが嫉妬になる前に、そっと離れる。それでも、わき起こる苦い感情に、じわりと胸が焼かれることもある。
すー、はー、すー、はー。
ラスボスなんて、へでもねーよ。と言いながら。
すー、はー、すー、はー。
まったくこと嫉妬に関しては、とんでもない未熟者。
Apprivoiserはまだまだこれから、である。
