雨 #シロクマ文芸部
夜に降るのは雨なのであった。
午後から降り始めた雨はゆっくりと音を立て始め、降りやまぬまま家々の屋根を濡らしている。秋の夜の雨である。
降るものは雪、と言ったのは枕草子だったか。
確かに雪以外、降るものは、あまり美しくない。桜が花びらを散らした地面や、並木が枯葉を落とした路面は風情があるが、美しくはない。淡雪のように消えるわけでもなく、山のように土が受け止めるでもなく、踏みつぶされ蹴散らされた花や葉は、決して美しくない。
今、目の前の夜に、雨が降っているのである。
コンクリートや土の香りに、むせ返りそうだ。
降りだした雨は、止む気配がない——
外を歩くのは男であった。
さきほど私の部屋から出て行った、男なのであった。
雨が降る前に家に来た男は、珈琲を挟んで向かい合ったが、目を合わせなかった。しばらくスマホを弄んでいた。そしてようやく顔を上げると、決意したように、もう私には何も感じないと告げた。
夏には私がいないと困ると言った同じ男が、もう私を要らないと言う。予感がなかったとは言わない。会話の間や、休日の無言は、私以外の存在をぼんやりとあぶり出した。すれ違いや、違和感。ため息と、遠いまなざし。あらゆるサインを、私はあえて見逃していた。
男の沈黙に、私は震えた。震えて、マグカップの中のさざ波に揺れる黒い液体の表面を見つめた。そして家にある凶器について素早く頭を巡らせた。
キッチンの切れ味の悪い包丁。怪我をしない仕様になっている先の丸いはさみ。段ボールを開けるときにしか使わないカッターは、折れていた。
どれも使い物にならない。
私がひと通り家の中にある凶器を数え終わって顔を上げたとき、男は潮時と見たか、椅子から立ち上がった。狭いワンルームを玄関に向かう。リードで繋がれた犬のように、私も玄関に向かった。
彼がドアを開けて初めて、雨が降っているのを知った。
「雨が」
と、口を突いて出た。
男はここに来て初めてのように、まっすぐ私を見た。そして棚卸で物品を確認するような視線で、私を一瞬、目の中に留めた。私は、自分がキャラメルでも消しゴムでもいいと思った。自分が男の世界に存在しているのならば。
だが、彼はすぐに目を逸らし、じゃあ、と言った。
「待って、傘を」
そこに掛けてあった傘を差しだすと、男は黙って首を振った。
そして、そのまま家を出て行った。
それきりである。
降りやまぬ雨は、傘を持たぬ男を濡らすに違いない。
私は、駅まで行くなら彼がどの道筋をたどるかを熟知していた。追いかければ追いかけられるその道を、私は頭の中でしかたどらなかった。
今頃男は、駅に着いたかもしれない。
傘を拒絶したのは、下で車を待たせていたからかもしれない。
運転していたのは女だったかもしれない。
傘を持って立っていたのかもしれない。
男は濡れてすらいないのかもしれない。
ようやく身体が動いた私は、玄関に出してあったスニーカーを履いて、ドアを開けた。もつれる足で、外に出る。
マンションの廊下に、雨の匂いが充満していた。その不快さに顔をしかめる。その湿り気のある匂い。腐った土と、脆いコンクリートの匂い。雨はまるで、冷たい夜気の中に立ちふさがり、幕切れを告げる銀糸の緞帳のようだった。
私は男に続くリードをたぐるように、よろめきつつ歩く。まだ切れていない糸に縋るように伸ばした手に、湿った空気が絡みつく。
そのままエレベータ―に乗った。
マンションのフロントを通って外に出る。
しのつく雨は私を濡らした。すぐに髪から雫が滴るほどの雨だった。
男も、車も、女も、傘も、そこにはなかった。何もなかった。
ただ、夜に降るのは雨だった。
雨なのであった。
了
久しぶりの参加になります。
小牧部長、宜しくお願いします。
