🌊古事記リブート 第三部 第5話「見るなと言われた夜 ― 竜宮の出産」
竜宮での暮らしは、思っていたより静かだった。
山幸(ホオリ)は、貝殻の柱が並ぶ宮殿の廊下を歩きながら思う。
「……海の底って、こんなに落ち着く場所なんだな。」
魚が光のように泳ぎ、
水のゆらぎが天井に揺れる。
時間の流れも、地上より少しゆっくりに感じた。
隣には、トヨタマヒメ。
海神ワタツミの娘であり、
この竜宮の姫。
最初は異文化すぎて戸惑っていた山幸も、
今ではこの場所に慣れてきていた。
食事は豪華。
住まいは快適。
争いもない。
そして――
トヨタマヒメがいる。
山幸(心の声)
「……まあ、帰りたくなくなるよな。」
人間として正直すぎる感想である。
🌊しかし、変化は突然くる
ある日。
トヨタマヒメは静かに言った。
「ホオリ。」
「うん?」
「私、子を産みます。」
山幸は一瞬止まる。
「……え?」
「あなたの子です。」
当然といえば当然だが、
本人にとっては突然のニュースだった。
しかしトヨタマヒメの表情は、少しだけ真剣だった。
「ただし――」
ここで彼女は、
とても重要なことを言う。
「お願いがあります。」
「うん。」
「出産のとき、決して私の姿を見ないでください。」
山幸は首をかしげた。
「え?」
「見ないでください。」
「……そんなに?」
「絶対に。」
ここまで言われると
逆に気になってしまう。
人間とはそういう生き物である。
🌊竜宮の出産の夜
出産の日。
竜宮の一室に、
大きな産屋(うぶや)が建てられた。
海の民たちは外に下がり、
静かに見守る。
トヨタマヒメは中に入り、
山幸に言う。
「約束ですよ。」
山幸はうなずく。
「見ない。」
「絶対に?」
「絶対に。」
扉が閉まる。
中から声が聞こえる。
水の音。
息づかい。
そして――
何か、大きなものが動く気配。
山幸は廊下で待っていた。
しかし。
人間の好奇心は、
古事記の時代から変わらない。
山幸(心の声)
「……ちょっとだけなら……」
扉の隙間から、
そっと中を覗いた。
そして――
見てしまった。
🌊そこにいたのは
人ではなかった。
巨大な体。
鱗のような肌。
長い姿。
八尋和邇(やひろわに)。
つまり――
巨大な海の神の姿。
サメ、あるいはワニ。
海の神の本来の姿だった。
その姿で、トヨタマヒメは
子を産んでいた。
山幸は思わず息を呑む。
「……!」
その瞬間。
中から声がした。
「……見ましたね。」
扉が開く。
そこには、
人の姿に戻ったトヨタマヒメが立っていた。
でも、
その表情は少し悲しかった。
🌊別れ
トヨタマヒメは静かに言う。
「本当は、見られたくなかった。」
怒ってはいない。
ただ、悲しい。
「私は海の者です。」
「あなたは地上の人。」
「だから、境界があった。」
山幸は何も言えない。
トヨタマヒメは続けた。
「でも、子はあなたに託します。」
生まれた子を抱き上げる。
その名は――
ウガヤフキアエズ。
この子は後に、
日本の王の祖先になる。
トヨタマヒメは最後に言う。
「妹を地上へ送ります。」
「子を育てるために。」
そして彼女は、
静かに海へ帰っていった。
竜宮の水が揺れる。
山幸は、
その背中を見送ることしかできなかった。
📜この回の古事記ポイント
古事記には
「見るな」と言われる場面が何度も出てくる。
それは秘密ではない。
世界には境界がある
という考え方だった。
天の世界
地上の世界
海の世界
それぞれに
越えてはいけない線がある。
🌿現代に置き換えると
どんなに近い相手でも、
すべてを理解することはできない。
人と人の関係には
少しの距離があるからこそ続くものもある。
古事記は、
それを静かに語っている。
🌊つづく
(第6話:「海の姫の妹 ― タマヨリヒメと“神武の祖先”」)
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