仕事がフィットしなくなる年齢
最近、仕事が身体に合わない服みたいに感じる。
間違ったサイズを買ったわけでもないし、
誰かに指摘されるほど不自然でもない。
ただ、着ている自分だけが、どこか突っ張りを感じている。
昔はそんなこと、考えたこともなかった。
子どもを一人前にする、という目的があったからだ。
保育園に送り届け、職場に駆け込み、帰って宿題を見て、
弁当箱を洗って、寝かしつけて、明日の準備をして。
怒ったり笑ったり、毎日が慌ただしくて、
自分の気持ちなんて置きっぱなしだった。
でも、それでよかった。
“守る理由”があると、人は強い。
生活のためでも、責任感でも、全部ひっくるめて燃料になった。
子どもが巣立ったあと、初めて気づいた。
燃料が変わったとき、人は働き方の意味も問われるのだと。
いまの私には問いが多い。
これは私がやりたい仕事なのか。
興味があることなのか。
それとも生活のためなのか。
責任感だけで続けているのか。
好きなことって、なんだったっけ。
やりがいって、どこに置いてきたんだろう。
答えはどれも中途半端で、
どれも嘘じゃないから余計にややこしい。
人生の前半は、流されても進めた。
選択肢が少なくて、体力があって、
“明日なんとかなる”と信じられた。
でも50代に入ると、選択肢だけが増えて、
体力も勇気も少し鈍る。
その分岐点みたいなところが、ときどき苦しい。
仕事人生は残り少ない。
このまま定年まで行って後悔しないか。
どこかで曲がったとして、満足するのか。
曲がらなかったとして、納得できるのか。
そんなことを、帰りの電車の窓に映る自分に聞いてみたりする。
重たい悩みというより、
“明日への手紙”のような、まだ宛先の決まらない問いだ。
出すかどうかも迷いながら、封筒の口を閉じずに置いてある感じ。
フィットしない服を無理して着続けるほど、
もう若くはない。
でも手放す勇気だって、まだ持てていない。
ただひとつ思うのは、
働き方よりも、
働いている“自分の心”が大切なんじゃないかということ。
それに気づいたのは、歳を重ねたおかげだ。
明日も、その服を着て出勤すると思う。
だけど、心のどこかで、
新しい服の気配を探している自分もいる。
その小さな気配を見失わなければ、
きっと大丈夫だと思える夜がある。
