【掌編小説】選ばなかった人生
「俺の人生、本当に正しいのかな」
そう言った瞬間、母のハンドルを握る指の力が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
「何言ってんの。......大人の話は、ちゃんと聞いた方がいいのよ」
言い切る前に、一瞬だけ言葉を選んだように見えた。横にいる母の口角は、不自然に持ち上がっていた。
それ以来、笑おうとすると口角だけが先に上がって、喉の奥には冷えた鉛のような沈黙が居座っている。
母の目に、今の僕はどう映っているだろう。なんで何も言ってこないのだろう。
「大学入るタイミングで就職したやつらは、今何してるんだろ」
「さぁ......」
僕の大学四年間に意味はあった。でも、それは初任給が少し上がるくらいの差でしかない。この先、本当にやっていけるのだろうか。
車窓から、建築道具を運ぶ若者の姿が見えた。
「大変そうだけど、俺もああいう人生ありだったかもな」
「あんたは賢いから、頭を使うべき」
彼らの顎のラインを伝った汗が日光に反射して、やけに綺麗に見えた。正解のはずなのに、視線だけがそっちに引っ張られる。
「母さん、さ。どっち選んでも、結局同じなんじゃないの」
「どっちがマシかってだけよ」
そう言ったあと、母は小さく息を吐いた。
「......私は、そっちを選んだだけ」
「なんだよ、それ。何で教えてくれなかったの」
「......」
気づけば、シートベルトに爪を立てていた。食い込んだ爪に、じわっと痛みが残る。エンジンの微振動が、シート越しに骨まで伝わってくる。それが機械のものか、自分のものか、わからなかった。
喉を潰すほど音読した英単語も、指にタコを作って解いた数式も。毒性のわずかに薄い未来を、慎重にすくうための作業だったのか。
いや、きっと僕が選ばなかった人生の方を歩んでも、同じ結論にたどり着いていた。どの道を選んでも、同じ場所に出る。
「じゃあさ」
声に出したつもりだったけど、音にはなっていなかった。
フロントガラスの向こうで、信号が青に変わる。母は何も言わずに、アクセルを踏み込んだ。
