【掌編小説】もうこのまま、
「あー、もう我慢できね」
「どうした?」
傘で見えなかった彼の顔を僕は覗いた。目が合うと、彼は右手の人差し指と中指を口にあてて、深呼吸をした。
「たばこ、吸わね?」
「あぁ、でも次の先方との会議すぐじゃん」
「アイコスならいいでしょ」
「まあ」
僕は彼と一緒に駅にある喫煙所まで歩き、アイコスを吸い出した。
吐き出した煙は傘の範囲内では確かに存在するのに、傘の外に出た瞬間、雨粒に飲み込まれていく。細切れにされた煙は、すぐに形を失う。
喫煙所は白く見えた。いろんな人の生命が吐き出され、すぐに消えていく。僕は今、この瞬間も命を消費している。その消費が目に見える瞬間は、生きている実感を得られる。
「煙見つめるのっていいよな」
僕は彼が吐き出した煙を見つめながら、「あぁ」と答えた。僕も同じように煙を吐き出す。目の前に漂う白い塊に息を吹きかけると、それは一瞬で形を失った。
「俺らも煙みたいに軽くなれたらいいんだけどな」
「羨ましいよな、本当に」
「会議面倒くさいな」
「あぁ」
「このまま消える?」
「そうしたいくらいだ」
宙に浮いていた煙に雨粒が触れると、煙は分裂し、消える。リラックスしていた僕らに会議という重しが触れると、身体は硬直し、命を消費する。
アイコスを持っていた手が震えてくる。震えに合わせるように、アイコスが終了を告げる短いバイブ音を鳴らした。
僕はアイコスをカバンにしまい、彼が吸い終わるのを待った。
「まだ?」
「あぁ」
僕は彼の顔を覗いて、アイコスの機械を見た。ランプが消えている。彼はまだ何度も何度もアイコスに口をつけている。もう煙は出ない。終わった煙を吸い続ける姿は、沈みきった肺に空気を送り込もうとしているように見えた。
「終わってるだろ、それ」
「いや、死んでない」
「会議遅れるって」
「もういいじゃん」
本当は、僕もそうしたい。何かにすがって、逃げて。ただそれを繰り返して死んでいきたい。
彼の口から煙が出ることはもうない。そこからは何の気配も感知できなかった。
僕は彼をその場に残し、クライアントがいるビルへと歩き出した。
