【書評】『複製技術時代の芸術』とSNSの「バズ文化」
バズる瞬間の光と影
インスタグラムを使っていると、ときに「思いがけずバズる瞬間」に出会います。何気なく投稿したリールが一晩で数千回再生されたり、ストーリーズが拡散されてフォロワーが急増したり──。そんな経験をした人も少なくないでしょう。
一方で、その喜びはすぐに落ち着かない気持ちへと変わります。通知が鳴りやまず、フォロワー数や「いいね!」の数が気になって仕方がない。最初は嬉しかったはずなのに、次第に数字の動きに心を振り回されてしまうのです。
なぜ私たちは、バズに惹かれながら、同時に疲れてしまうのでしょうか。
バズ文化の仕組み
その理由の一端は、インスタグラムという仕組みにあります。アルゴリズムが投稿を評価し、拡散させるかどうかを決める。つまり、努力や才能だけでなく「システムが選ぶかどうか」に大きく左右されるのです。
こうしたバズ文化には二つの側面があります。ひとつは「誰でもスポットライトを浴びられる」民主化の側面。もうひとつは「すぐに消費され、忘れられる」儚さの側面です。
バズは一瞬で人を有名にし得るけれど、その光は長続きしません。次々と新しいコンテンツが流れ込み、昨日の熱狂は今日には沈んでいく。数字がすべてを測る世界では、承認欲求が数字へと変換され、心の中に焦燥感を残します。
ベンヤミン登場 ―― 「オーラ」の喪失
こうしたバズ文化を考えるうえで、20世紀の思想家ヴァルター・ベンヤミンが残した有名なテキスト『複製技術時代の芸術』は大きなヒントになります。
彼が指摘したのは、「オーラ」という概念でした。オーラとは、芸術作品がまとっていた唯一無二の存在感のことです。ある作品を、その場で、その時間にしか味わえない──そんな特別な距離感や雰囲気のことを指します。
しかし、写真や映画の登場によって、芸術は無限に複製されるようになりました。すると、「ここでしか体験できない」特別さ、つまりオーラは次第に失われていったのです。
ベンヤミンは、芸術の民主化とオーラの喪失が同時に進むという逆説を示しました。
SNS時代の「オーラの喪失」
この議論を、インスタグラムに重ねてみましょう。
投稿された写真や動画は、無限にスクロールされ、コピーされ、拡散されていきます。一枚の写真が持っていた「この瞬間だけの特別さ」は、バズの波の中で埋もれ、ただの「数ある投稿のひとつ」になってしまう。
それはまさに、現代版の「オーラの喪失」です。
あなたが大切に編集したリールも、他者にとっては数秒でスワイプされる映像の一部。個人的な物語が、瞬時に無数のコンテンツの海へと溶けていく。そこに、バズ文化の切なさがあります。
バズ文化がもたらす矛盾
では、バズはただ悪いものなのでしょうか。
もちろんそうではありません。バズは確かに「民主化された名声」をもたらします。かつて芸術が複製によって大衆化されたように、今では誰もがスマホひとつで人々の注目を浴びられるようになった。それは大きな可能性です。
しかし同時に、それは「一瞬の消費」に過ぎない。昨日まで話題だった投稿が、今日は誰にも思い出されない。芸術作品が複製によってオーラを失ったように、私たち自身も複製と拡散の中で「特別さ」を失っていくのです。
いったんのまとめ
ここまで見てきたように、インスタのバズ文化はベンヤミンが語った「オーラの喪失」とよく似た構造を持っています。
バズは「民主化された名声」を与える。
しかし同時に「一瞬で消費される」儚さを生む。
オーラは消え、特別さは埋もれていく。
無料の範囲でも、ここまで読めば「SNSのあるある」が哲学的に見えてくるはずです。
けれどもここで生まれる新たな問いがあります。
――では、オーラを取り戻すことはできるのか?
――この「複製と拡散の時代」に、私たちはどんな表現の可能性を持ちうるのか?
この続きを考えるために、さらに二人の思想家を呼んでみましょう。デリダとバルトです。
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