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知識が誰かを傷つけるとき|『みいちゃんと山田さん』と『水曜日のダウンタウン』から考える

子どもとかかわる福祉の仕事をしています。

保護者や学校、福祉の現場など、
子どもとかかわる方に向けて、

子どもの行動の奥にある
気持ちや困りごとを、
一緒に立ち止まりながら考える
メモを書いています。

正解集ではなく、
子どもの気持ちに立ち返るための、

ポケットに入れて持ち帰れる
小さなメモです。

最近、二つの出来事が、
私の中で重なって見えました。

漫画『みいちゃんと山田さん』を
めぐる話題と、

『水曜日のダウンタウン』に出演した
はっしーはっぴーさんに対して、

番組を見た人が外側から、

「ASDではないか」

「発達障害だと思う」

と診断名を当てはめていたことです。

最初に書いておくと、

この記事は、
『みいちゃんと山田さん』の
アニメ化に賛成する記事でも、

反対する記事でもありません。

作品をアニメ化するべきか。

どのような表現なら
許されるのか。

その結論を出すことが、
今回の中心ではありません。

私が考えたいのは、

作品の人物や、
発達障害についての知識を、

見る側、受け取る側が
どのように扱うのかということです。

作品がどのように読まれ、
どのような言葉だけが
作品の外へ持ち出されるのか。

診断名についての知識が、
誰かを理解するためではなく、

分類したり、笑ったり、
裁いたりするために
使われていないか。

この記事で考えたいのは、
アニメ化への賛否ではなく、
作品や知識を受け取る側のリテラシーです。

『みいちゃんと山田さん』と、
『水曜日のダウンタウン』。

二つを、同じ問題だと
言いたいわけではありません。

作品の登場人物と、
現実に生きている人では、

置かれている状況も、
考えるべきことも違います。

ただ、どちらを見ていても、

発達障害について得た知識が、
目の前の人を理解するためではなく、

誰かを分類し、説明し、
笑ったり裁いたりするために
使われているような怖さを感じました。

知識を持つことと、
その知識で他人を決めることは違います。

今回は、知識が
本人のための手がかりではなく、

外側の人が誰かを説明するための
ラベルへ変わるときについて
考えてみたいと思います。

◆ この記事で伝えたいこと

・発達障害を知ることと、
他人を診断名で決めることは違います。

・作品の人物名を、
現実の誰かを分類したり、
からかったりする言葉として使うことは差別です。

・診断名は、本人や周囲が理解を深め、
これからを考えるための手がかりです。


◆ 『みいちゃんと山田さん』を
途中まで読んで感じたこと

私は『みいちゃんと山田さん』を、
最後まで読めているわけではありません。

みいちゃんにこの先起きる
大きな出来事について、

思いがけずネタバレを
目にしてしまったことがあり、

そこでいったん、
読むのを止めています。

そのため、ここに書くのは、
作品全体を読み終えたうえでの
感想や評価ではありません。

私が読んだ範囲では、

障害のある人が働くことや、
障害者雇用をめぐる難しさ。

困りごとがあっても、
福祉や支援へつながれないこと。

周囲から見過ごされる中で、
人に利用されたり、
搾取されたりすること。

本人の特性だけでは説明できない、
家庭や人間関係、
社会の側にある問題。

そうしたものが、
かなり現実感のある形で
描かれていると感じました。

「リアルだな」

と思いながら読んでいました。

そして、そのリアルさが
多くの人へ届いた一方で、

登場人物である
「みいちゃん」という名前を、

現実にいる誰かと
安易に重ねる入口にも
なってしまったのかもしれません。

ただ、作品が現実の問題を
想像させることと、

現実の誰かを
「みいちゃん」と呼ぶことは、

分けて考える必要があります。

作品のリアルさは、
現実の人へ人物名を
貼り付けてよい理由にはなりません。

ネタバレを見たときの気持ちが
少し落ち着いたら、

漫画の方は、もう一度
続きを読みたいと思っています。

◆ 人物名だけが作品の外へ出るとき

作品の中のみいちゃんには、
それまで生きてきた時間があります。

育ってきた環境。

周囲との人間関係。

うまくいかなかった経験。

助けを求められなかった理由。

人からどのように
扱われてきたか。

作品の中では、
そうした背景も含めて
一人の人物が描かれています。

けれど、人物の名前だけが
作品の外へ出ると、

その背景は抜け落ちてしまいます。

そして、

「話が通じにくい人」

「常識がない人」

「性的に危うい女性」

「周りを困らせる人」

といった印象をまとめた名前として、
現実の誰かへ貼り付けられていく。

名前をつけることで、
その人を理解したような気持ちに
なれてしまうからです。

けれど、現実の人は、
作品の登場人物ではありません。

似ているように見える
行動があったとしても、

育ってきた環境も、
本人が感じていることも、

困っていることも、
必要としているものも違います。

現実にいる人を
「みいちゃん」と呼び、
その人の姿や振る舞いを
ひとまとめにして笑うことは差別です。

それは、ただのたとえや
少し強い悪口ではありません。

相手の人格や背景を消し、

特定の弱さを持つ人を
「こういう人」とひとまとめにして、

笑ったり、見下したり、
遠ざけたりする行為だからです。

作品の人物像を
現実の誰かへ重ねても、

その人自身を
理解したことにはなりません。

むしろ、名前を貼ることで、

目の前の人が、
なぜその行動をしたのか。

何に困っているのか。

何を感じているのか。

そうしたことを考えるのを
やめてしまいます。

◆ 一場面から「ASD」と決めること

2026年7月1日に放送された
『水曜日のダウンタウン』の
「ぼくらのバリケード戦争」には、

はっしーはっぴーさんを含む
複数の芸人が出演していました。

放送後、私がSNSで
目にした投稿の中には、

はっしーはっぴーさんに対して、

「ASDではないか」

「発達障害だと思う」

と書かれたものがありました。

番組を見て、

行動が理解しにくかった。

周囲とずれているように見えた。

困った人だと感じた。

そのような感想を持つことは
あると思います。

けれど、そこから診断名へ
進む必要はありません。

テレビで放送されるのは、
長い収録時間の中から
編集された一部分です。

本人がその場で
何を考えていたのか。

企画をどのように
理解していたのか。

画面に映らないところで、
どのようなやり取りがあったのか。

外側からは分からないことが
たくさんあります。

一場面だけを見て、

本人が公表していない診断名を
外側から貼ることはできません。

そもそも、診断名を当てたところで、
視聴者がその人と関わるために
何かが変わるわけでもありません。

本人が困っていることを聞くわけでも、
必要な支援を一緒に考えるわけでもない。

ただ、

「あの行動は発達障害だからだ」

と、外側の人が納得するために
診断名が使われています。

さらに、診断名を、

「変な行動をする理由」

「笑ってもよい人だと示す言葉」

「周囲と違う人を分類する名前」

として使うのであれば、
それも差別です。

診断名を当てはめることが
発達障害を理解することではありません。

そこでは、診断名が
本人を支える手がかりではなく、

外側の人が安心して
その人を見下すための言葉に
変わっています。

◆ 知識が、理解を省略する道具になるとき

発達障害についての知識が
広がること自体は、

悪いことではありません。

自分が長く感じてきた
生きづらさに、

初めて説明がつく人がいます。

子どもの行動を、
育児や性格の問題だけで捉えず、

環境や伝わり方を見直す
きっかけになることもあります。

身近な人の困りごとに気づき、
相談や医療、福祉へ
つながる場合もあります。

知識があることで、
責める前に立ち止まれることがあります。

けれど、その知識が、

「こういう人は発達障害」

「この行動をする人はASD」

という短い答えになったとき、
役割が変わります。

一つの行動を見ただけで、
その人全体を説明する言葉になる。

診断名を知ったことで、
その先を考えなくても、

分かったような気持ちに
なれてしまいます。

本来は理解を深めるための知識が、
理解を省略するための
道具へ変わることがあります。

同じように見える行動にも、

その場の状況。

疲れや緊張。

本人が受け取っていた情報。

周囲との関係。

それまでの経験があります。

行動が似ていても、
その意味まで同じとは限りません。

知識を持つことは、
答えを早く出すためではなく、

まだ分からない部分に
気づくためでもあるはずです。

◆ 子どもを見るときにも起きている

これは、子どもとの関わりでも
同じだと思います。

謝れないからASD。

空気が読めないから発達障害。

予定へこだわるから自閉症。

落ち着きがないからADHD。

そのような言葉で
説明したくなることがあります。

もちろん、診断名や特性についての
知識が役立つ場面はあります。

見通しを持ちやすくする。

伝える言葉を短くする。

刺激の少ない環境を用意する。

本人に合う支援を考える。

診断や専門的な知識は、
そのための手がかりになります。

ただ、

「この子はASDだから」

という言葉だけで
話が終わってしまうと、

その子がなぜ謝れないのか。

何が伝わっていなかったのか。

何を怖がっていたのか。

その行動で、
何を守ろうとしていたのか。

そうしたことを考える必要が
なくなってしまいます。

診断名は、
その子を見るための入口にはなっても、
その子を見なくてよい答えにはなりません。

同じ診断名があっても、
困っていることも、

受け取りやすい伝え方も、
必要な支援も違います。

診断名を知ったあとにも、
目の前の子どもを見ることは続きます。

◆ 断定が数字を集め、次の断定を生む

SNSでは、複雑な説明よりも、

「こういう人は発達障害」

「この特徴がある人はASD」

と短く言い切る発信の方が、
分かりやすく見えます。

読む側も、
すぐに理解した気持ちになり、

誰かへ共有しやすくなります。

短く、強い言葉は、
反応や再生数にも
つながりやすく見えます。

数字が集まると、

同じ発信者が、
似た形の投稿を続ける。

その反応を見た別の人も、
同じような発信を始める。

さらに短く。

さらに強く。

さらに断定的な言葉へ変わっていく。

その中で、

本人や身近な人を理解するために
広がったはずの知識が、

遠くにいる他人を
分類するための知識へ
変わっていきます。

断定的な発信が数字を集め、
その数字が、さらに強い断定を生み出します。

発信した人に、
誰かを傷つける明確な意図が
なかったとしても、

現実にいる人を診断名や
キャラクター名で分類し、

笑ったり見下したりする言葉として
使われている事実は変わりません。

悪意がなければ、
差別ではなくなるわけでもありません。

「あの人は発達だから」

「この人はみいちゃんみたい」

と他人を説明する言葉になったとき、

知識は、本人を理解するものから、
本人を傷つけるものへ変わります。

◆ 診断名は、誰のためにあるのか

診断名は、
第三者が人を上から分類するための
ものではありません。

本人が、
これまで感じてきたことを振り返り、
自分の得意なことや
苦手なことを理解する。

周囲の人が、
本人の見えている世界や、
感じている難しさを知る。

そして、本人と周囲が、
これからの暮らしや関わり方を
一緒に考えていく。

診断名は、そのための
手がかりになるものだと
私は考えています。

もちろん、診断を受けた人が
全員同じ支援を必要とするわけではありません。

診断をどのように受け止めるか。

誰に伝えるか。

どの場面で支援を使うか。

それも、人によって違います。

診断名の中心には、
診断名について語りたい外側の人ではなく、
本人がいるはずです。

外側の人が、
一部分だけを見て診断名を貼り、

その人を理解したことにする。

そこには、本人の困りごとも、
望んでいることもありません。

その診断名が、本人にとって
必要なのかどうかさえ
置き去りになっています。

◆ 気づくことと、決めつけることは違う

身近な人の様子を見て、

何かに困っているのではないか。

相談できる場所が
あった方がよいのではないか。

と考えることまで、
否定したいわけではありません。

一緒に暮らす家族や、
日々関わる支援者、先生、同僚が、

本人の困りごとに
気づくことはあります。

ただ、その気づきを、

「あの人は発達障害だ」

という答えへ変えてしまうこととは、
大きな違いがあります。

気づくことは、
本人の話を聞く入口になります。

決めつけることは、
本人の話を聞かなくてもよい
理由になってしまいます。

「何かに困っているのかな」

「どうすれば伝わりやすいだろう」

「本人はどう感じているのだろう」

そこには、まだ分からないことが
残されています。

知識があるからこそ、
すぐに答えを出さず、
まだ分からないこと
余白を残しておく必要があります。

診断名を知っていることと、
目の前の人を理解していることは、
同じではありません。

◆ まとめ

『みいちゃんと山田さん』と、
『水曜日のダウンタウン』。

内容も、作られた目的も、
置かれている状況も違います。

ただ、その外側で、

人物の一部分を見て、
すでに知っている診断名や
キャラクターへ重ね、

その名前によって
人全体を説明しようとする動きには、

共通するものがあります。

現実の誰かを
「みいちゃん」と呼んで笑うこと。

本人の一場面だけを見て、
「ASD」「発達障害」と決めつけること。

それは、人を理解しようとする
行為ではありません。

相手の背景や言葉を消し、
外側から一つの名前へ押し込める
差別です。

発達障害について知ることは、
誰かを分類して笑うためのものではありません。

自分を知ること。

身近な人への理解を深めること。

困りごとに合う環境や
支援を考えること。

これからの暮らし方や
関わり方を考えること。

そのために使える知識です。

だからこそ、
知識を得たあとに、

その知識を誰のために、
何のために使っているのか。

立ち止まって考えたいと思います。

◆ もう一つの立場から考えるために

『みいちゃんと山田さん』の
アニメ化をめぐって、

成瀬千尋さんは、
障害のある子どもの家族という立場から、

津久井やまゆり園事件から
10年という節目と重ねながら
文章を書かれています。

作品そのものを
どう受け取るかだけでなく、

作品から生まれた言葉やイメージが、
現実に生きている障害のある人へ
どのように向けられていくのか。

そのことを考えるうえで、
読んでおきたい文章だと感じ、
勝手ながら紹介させて頂きます。

◆ 書き終えて、少しだけ

この記事を書くことには、
最後まで迷いがありました。

話題になっている作品や番組の名前を
タイトルに入れることで、

読まれようとしているだけに
見えないだろうか。

作品名や診断名をめぐる言葉を
あらためて書くことで、

かえって話題を
広げてしまうのではないか。

そんな迷いは、
今も残っています。

発信しないことも、
一つの選択だったと思います。

それでも、作品の登場人物の名前や
発達障害の診断名が、

現実にいる誰かをからかい、
見下し、分類するために
使われていることを、

ただの言葉遣いの問題として
流したくはありませんでした。

現実の人を「みいちゃん」と呼び、
その人全体を一つのイメージへ
押し込めることは差別です。

診断名を外側から貼り、
悪口や笑いの理由にすることも
差別です。

この文章が、
すべてを説明できるとは思っていません。

それでも、

本人を理解するためにあるはずの知識が、
本人不在のまま、

誰かを傷つける言葉へ
変わっていくことについて、

今の自分の考えを
残しておきたいと思いました。


📝この記事のポケットメモ

診断名は、
外側から誰かの姿を
決めつけるものではなく、
本人や周囲が理解を深め、
これからの未来を
考えるための手がかりです。

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よりみちポケット|子どもとの関わりを考えるメモ 読んでくださってありがとうございます。 いただいた応援は、子どもの気持ちを探る問いかけメモを続けていくための時間や、記事づくりの学びに大切に使わせていただきます。 無理のない形で、そっと応援していただけたら嬉しいです。