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最低時給社会~第7章 自己責任という麻酔

「努力していないわけではない」

就労支援事業所で、同世代の男性と話したことがある。  
とても有能な人だった。話も整理されていて、気配りもでき、パソコンも扱える。  
だが、体を壊したことで経歴にブランクができ、それが就職活動で重くのしかかっていた。

彼は毎日ちゃんと通い、皆勤賞だった。  
ExcelやWordを勉強し、スキルを積み直そうとしていた。  
しかし現実には、近郊都市で障害者雇用の事務職は極めて少なく、地元近くで見つかる仕事はビル清掃、単純作業、低賃金労働が多かった。

私はその姿を見て、強い違和感を覚えた。  
社会は「もっと努力しろ」と言いながら、「努力しても接続先がない」状態を大量に作っているように見えたからだ。

面接に落ち、不採用になると、問題は「本人の能力不足」に変換されやすい。  
だが実際には、地域偏在、雇用不足、ブランクへの過剰反応、障害者雇用の偏りといった構造的な問題が存在している。  
それらが、ことごとく「個人の努力不足」にすり替えられる。

私はその光景を見ていて、時々恐ろしくなった。  
「真面目に再起しようとしている人」でさえ、「自己責任」という言葉によって静かに追い込まれていくからである。

日本社会では長い間、多くの問題が「自己責任」という言葉で説明されてきた。  
努力不足、甘え、根性がない、コミュ力不足、挑戦しないからだ。

もちろん、人間に責任が全くないとは言わない。  
努力も必要だし、自分で人生を選ぶ部分もある。

だが私は、さまざまな現場を見てきて、次第に違和感を覚えるようになった。  
真面目で責任感が強く、周囲に気を配り、改善しようとする人ほど先に壊れ、燃え尽き、離脱していく場面を、あまりにも多く見てきたからだ。

社会は、その現象を「構造問題」として扱おうとしない。  
「あの人が弱かった」「努力不足だった」「メンタルの問題だ」と個人に帰結させてしまう。

私は時々、この「自己責任」という言葉は、単なる思想ではなく「麻酔」なのではないかと思う。

なぜなら、本当に構造問題を直視すると、かなり怖いからだ。  
もし問題が個人ではなく、社会設計そのものにあるとしたら。  
もし真面目な人ほど壊れる構造が存在するのだとしたら。  
もし「頑張る人」が燃料として使われているのだとしたら。

それは、自分たちが信じてきた社会そのものへの疑問に繋がってしまう。  
だから人は、無意識のうちに「個人の問題」に変換したくなる。  
そのほうが安心できるからだ。

しかし本当に怖いのは、今の日本社会では「ちゃんとしている人」ほど壊れやすいことである。

しかも厄介なのは、日本社会が長い間、真面目さ、我慢、努力、責任感によって成立してきたことだ。  
だからこそ、人々は構造そのものを疑いにくい。  
むしろ「もっと頑張れ」「もっと努力しろ」「甘えるな」という方向へ向かいやすい。

だが実際には、その精神論こそが、さらに人間を疲弊させていく。

人手不足も、教員不足も、介護離職も、クリエイターの疲弊も、本来は社会全体の設計問題であるはずなのに、最終的には「個人の頑張り」へ回収されていく。

そしてその結果、本当に問題を改善すべき側の制度設計、組織運営、労働環境への視線が弱くなっていく。

これはかなり危険だ。  
問題を個人化し続ける社会は、改善能力そのものを失っていくからである。



この文章について

この文章は、現在執筆中の評論・ルポ連作『最低時給社会』の一章を抜粋・再構成したものです。
『最低時給社会』は、
・真面目な人ほど壊れる
・善意で社会が延命される
・「仕事してるふり」が増える
・評価能力が崩壊する
・人間関係が短期化していく
――そんな現代日本の「何かがおかしい」を、現場の記憶や体験を通して記録しようとする試みです。
本来ひと続きの文章ですが、noteでは章ごとに独立して読める形で公開していきます。

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